第七節
未明、藤崎は保護された。
保護対象人物としてだけではなく、要警戒人物として。
連れてこられたのは、七畳ほどのワンルームのような隔離部屋だった。白い壁で囲まれ、鼠色のタイルが敷き詰められている。家具は骨組みが黒、布材が白色だった。寝具、テーブル、椅子が備えられていた。
トイレや風呂場はなく、洗面台が露出して置かれていた。出入り口含め、通路との間に鉄格子が挟んで取り付けられていた。見張りの職員が鍵を開け、監視されながらトイレや風呂に移動することとなる。
しかし、藤崎にとってはそれら全てがどうでもよかった。不便さや理不尽さを考える余裕などなかった。
最初の来訪者は朝霞だった。
一人、港まで行った人物が藤崎だと知り、急いで様子を駆けつけにきたらしい。
朝、紗代が来た。藤崎のことを何度も呼んでいた。その後、なにも反応を示さない藤崎を見て、見張りの職員と何か口論をかわしていた。その時の声や言葉は朧気で、覚えていない。
そのあと、内藤と雪下が揃って様子を見に来た。何度も声をかけ、何か話をしていた。その時の言葉は覚えていない。
八坂は何度か様子を見に来ていた。藤崎に声をかけることはなく、項垂れている藤崎をじっと見ていた。
窓のない部屋で、照明は通路側と独房内の真ん中にひとつ。どれだけ時間が経ったかわからなかったが、おそらくまだ一日は経過していない気がした。
藤崎の脳裏には、あの禍々しい化け物と、力尽きた青星の姿が焼きついていた。硝煙のにおいや断末魔を感じるほどだった。
頬が湿っているような気がした。壁にもたれかかっているのも疲れて、こてんと横になった。
ここに連れてこられたということは、やはり間違った選択をしてしまったのか。藤崎は内省していた。
「少年」
声が聞こえた。藤崎はゆっくりと顔を上げた。八坂が巾着袋を片手にじっとこちらを見ていた。
「紗代さんから差し入れだ」
八坂は見張りの職員に合図をした。鍵が開く音がして、鉄格子の扉が開いた。
八坂は遠慮なく中に入り、藤崎の近くに巾着袋を置いた。
「それと、これは俺から」
八坂は隣にペットボトルのお茶を置いた。
藤崎はゆっくりと身体を起こし、お茶を飲んだ。普通のお茶だった。なんの変な味もしない。
八坂は藤崎の隣に座った。当惑した見張りの職員に、八坂は手の平を見せた。それを見た職員が、扉をあけたまま通路に出た。
藤崎は巾着袋を自分の隣に置いた。昨日から何も食べていないはずなのに、不快な気持ちが身体の中で膨張していて、先に飲んだお茶だけで十分だった。
「いらないのか?」
「……食欲、ないんで」
「食べた方が良いと思うんだがなぁ。腹が減ってると、思考が悪くなりがちだぞ」
八坂に再び促されたが、藤崎は何も喋らなかった。
お互い、沈黙の時間が流れた。
「……どうしてですか」
口火を切ったのは藤崎だった。
「どうして、何も責めないんですか。あなたの上司を殺したのは俺なのに」
「……まぁ、俺達も見つけたら殺すつもりだったしな」
「だとしても!…………だとしても、あなたにとっては大切な人だったんじゃないですか?」
藤崎の問いに八坂は答えなかった。たまらず藤崎は八坂に掴みかかった。
「八坂さんにとっても、青星さんは大切な人だったでしょう!俺はその人を……」
「あのなぁ少年……大切だったのは、少年もだっただろう?」
「それは……」
その問いは肯定だった。だが、自分にそれを答える資格はないと思った藤崎はなにも答えなかった。
問いかけた後、つかむ力が緩くなったので、藤崎にとっては図星だったことを八坂は察した。
「感情で動くのは簡単だ。けど、それよりもまずは、相手の心情を慮るべきだろう」
八坂は藤崎の両肩を優しくつかむ。
「少年、お前はよく頑張ったよ」
告げられた藤崎は行き場を失った両腕をぶらんと下げうつむいた。
「今日はもう休みな……寝れてないだろ。床かてぇし冷てぇから。ちゃんとベッドで寝ろよ」
八坂は通路に出る。最後にもう一度、藤崎におやすみとあいさつして、出て行った。
藤崎はゆっくりとベッドを見やる。
きれいに整頓されたシーツ。真っ白で、汚れひとつ見えない、きれいなベッド。
藤崎はどうしてもそのベッドに動きたくなかった。起き上がるのもつらかった。
自分が悪いはずなのに、誰も自分を責めてくれなかった。藤崎にとっては、それが惨めだった。なにより、自分が一番、自分を許せなかった。
ならばいっそ、自分で手をくだせば良い。思いついた藤崎は手元に刀を具現化した。
灰色に変色した刀は刃こぼれが残っていたが、命を絶つには十分だろう。
藤崎は首に刃を立てた。あとは刀を引けば、きっと頸動脈を斬り、自分は命を断つことができる。その想像も出来た藤崎は、何度も想像と実行の決断を繰り返した。
だがどうしても刀を引くことは出来なかった。手が震えて思うように力が入らなかった。
手から刀が滑り落ちる。床に落ちた刀を見て藤崎はため息をついて頭を抱えた。
果たして、自分のやってるこの行動も間違っているのではないだろうか。これも逃げているだけに過ぎないのではないか。逃げることは悪なのか。ならば自分はどうすればいい。
藤崎は刀を拾い、刀身を見た。ぼんやりと自分の顔が反射した。そこにうつった青い丸に、藤崎は自身の目を疑い、洗面台へ急いだ。
端々に傷や汚れが残っている鏡で、藤崎は自分の瞳の色を見て、崩れ落ちるように膝をついた。
青星の瞳のような、青い瞳がそこに移っていた。眼を移植した記憶はない。そんな暇もなかった。心当たりがあるとすれば、青星が藤崎にすべてを託すといった時だ。
彼女がなにかをしたのは間違いないが、思えばあの時、なにをされたのか全くわからない。
「こんなにわかりやすく残る形で……」
のろいのようだと思わず笑った。やがて頬を涙がつたった。涙が堪えきれなかった。藤崎はその場でうずくまりながら静かに泣いた。
苦しかった。人殺しをしたというだけでなく、その相手が自分にとっても大切な人物という事実が、とても苦しく、逃げ出したい事実だった。
泣いたら身体の中身が少し空いたようだ。藤崎はお腹をさすった。
藤崎は紗代が持ってきたと言った巾着袋を開けた。ラップに包まれたおにぎりが二個入っていた。
梅紫蘇のふりかけと、鮭わかめのふりかけのおにぎりだった。
藤崎は一個ずつおにぎりを頬張った。時間が経ってほんの少し乾いていたが、なんてことない。ふりかけが多すぎたのか、少ししょっぱかった。藤崎は一生懸命噛み、胃の中に送り届けた。すぐに八坂からもらったお茶を一気に飲み干した。
すべてのみこみ、藤崎は深く息をはいた。おなかがいっぱいになって、嫌な考えが少し薄らいだ。
巾着袋にまだなにか残っているようだった。藤崎はそれを取り出した。
「……人形、か?」
藤崎は取り出した物を見て呟いた。青いボサボサ髪の羊毛フェルトの人形だった。体つきがブードゥー人形に近しいので、それなのではないかと思ったが、たぶん違う。
母親に人形を作る趣味があったか思い返したが、藤崎は違う可能性に気が付きスマートフォンを取り出した。
藤崎が尋ねるまでもなく、製作者からメッセージが来ていた。
『プレゼントを龍二くんのお母さんに渡したよ。お守りになれば良いなって思って作ったんだ」
東雲から着信履歴も数件とメッセージが届いていた。
確かに人形は、東雲が昔描いてくれた藤崎の似顔絵にそっくりだった。
「落ち着いたらまたお話ししよう」
最後に書いてあった。
自分の考えがとても恥ずかしく感じた。
東雲を守るために青星と戦っていたのに、その彼女を置いてきぼりにして、逃げ出そうとしていた。
藤崎は再び青い瞳を見た。じんわりとした安心を抱いた。
青い瞳は青星の怪異人種、もしくは彼女の怪異としての能力の証なのかもしれない。
彼女は決して、藤崎に苦しむためにこの能力を託したわけではないはずだ。
のろいではない。この瞳は、まじないだ。
東雲を守りたいと誓った自身へ託してくれた、青星の願いだ。
それを藤崎は捨てようとした。選んだものも、失った事実も、すべて捨てて逃げ出そうとしていた。
愚かだ。
藤崎は叫んだ。それは自分を叱咤する為の、気合のおたけびだった。自分で頭を殴り、それでも気が済すまなかった藤崎は頭を床に叩きつけた。
「……………………いってぇ」
冷たい床に力強く打った。素朴な感想が漏れ出た。
「おい、なんの音だ?」
職員が藤崎に声をかけてきた。頭の痛みが想像以上のもので、藤崎は声が出なかった。再び声をかけられたとき、藤崎はなんでもないですと答えた。
立ち上がり、再び鏡で顔を見た。見れば見るほど、青星の瞳にそっくりだった。
「生きますよ……あなたの分も。託された力で、東雲を守ってみせます」
藤崎はこぶしを握り、青い瞳に誓った後、ベッドの上で、仰向けに寝た。
昨日から今までにかけて、いろいろな事があった。まだ考えたい事は山ほどあったが、身体も頭も心も、疲れているに違いない。
「明日からの事は、起きてから考えよう」
藤崎は呟いた。それが正しい選択だと自分に言い聞かせるように。
「それで本当にいいんだな?」
声がはっきりと聞こえた。起き上がり、鉄格子の先を見ると、ひとつの影が立ち尽くしていた。
「一日ぶりだな」
影は藤崎に告げた。通路も部屋の中も、いつの間にか明かりは消えていた。どこからか届く光がうっすらと部屋を照らしていた。
影の容姿は、相変わらずわからない。だがその声色からして、藤崎の頭の中で囁くあの声だと確信した。
藤崎は刀を具現し、影を警戒した。影は藤崎の刀を見て笑った。
「青星に初めて手ほどきを受けた時の事を覚えているか?その刀はお前の思いに影響を受けて具現化した刀だ。いわば、お前の心そのものと言っても差し支えない」
「それがどうした?」
「濁った刀身だ。白くも黒くもない、濃淡のはっきりとしない灰色。刃こぼれだってしている……軽く力を加えてしまえば、カッターナイフのように欠けて落ちてしまいそうだ」
影も刀を具現化した。昨日まで使っていた白い刀だ。
「委ねろ。そうすればまた力を貸してやる」
影は藤崎に提案した。
「……今まではアンタが力を貸していたっていうのか」
「そうだ。争うための力だ。お前がすべてを白に葬ると約束するなら、授けてやっても良い」
影は自信ありげに言った。藤崎はため息をついて、首を横に振った。
「この色には、あの人の色も混ざっている。欠けた刃は折れかけた自分への戒めだ」
影の言う通り、手にしている刀は藤崎の心情によく似ているのだろう。ボロボロで壊れかけた刀。
「この刀で良いんだ。俺は俺の意思で戦う。今まで使っていた刀がアンタから借りたものなら、必要ない」
「…………そうか、非常に残念だ」
舌打ちした後、影は答えた。
「まぁ良い。しばらく様子を見させてもらうとしよう。次に会うときは力を貸すときじゃない……お前を捕って喰らう時だ」
影の顔と思しき箇所で、口元だけがくっきりと見えた。口を大きく歪ませ、歯を見せた。
「……アンタ、何者なんだ?」
藤崎が聞くと影が鉄格子を抜けて藤崎に近づいてきた。照明がつき、影を照らした。白い髪に緑色の瞳。顔つきは藤崎に似ていた。
「──ガイサイ」
影は一言だけ呟き、正面から藤崎にもたれかかるように踏み込んだ。
悪寒を感じた。危険を察知した藤崎は、飛び起きるように身体を起こした。
息は乱れ、冷や汗をかいていた。
照明が室内を明るく照らしていた。周りには誰もいない。
「……夢か」
自分だけに聞こえる声量で、ぼそりと呟いた。
藤崎はふと自分の右手を見て、腕を伸ばして刀を具現する。昨日と同じ、刃こぼれのある灰色の刀。藤崎は安堵の息を吐き、刀を消して立ち上がった。




