第三節
「東雲ちゃんと一緒に夢の世界旅行していた方が、安全だったっていうのにね」
廊下の隅を見ながら青星は呟いた。
沸々、怒りがこみあがってきたが藤崎はその思いを抑えた。
「なぁに、皆寝てるだけだ。そこにいるのも、その先にいる召使達も皆、ね」
藤崎はチラと東雲がある方向へ視線を移した。
「今日は私一人だ。だからこの間、お姫様の身を心配する必要はない」
青星の言葉は俄かに信じがたいが、今の藤崎は気になる事が多く、青星に問い詰めたい気持ちの方が大きかった。
「……八坂さんに怪我を負わしたんですか。本当に青星さんが傷つけたんですか」
震えた声で、藤崎は青星に聞いた。
「八坂くんねえ……彼、どうしてた?悔しそうだった?」
青星の問いには答えず、じっと睨んだ。その反応に青星は何も言わず、話を続けた。
「まぁ、彼が今どんな様子から容易に想像できるさ。確かに、私が間抜けな彼を怪我させた。彼さ、事件現場で会ったっていうのに私の身を案じたんだよ。馬鹿だねぇホント。仲間だった人が敵に変わるなんて、私も彼も一緒に経験してきたっていうのに……いち職員の組織人格としては失格だよ」
青星は笑っていた。雑談を話す時のように。
目の前にいた青星は、藤崎のよく知る青星だった。彼女はいつも通り、八坂のことを揶揄うように笑いながら楽しそうに話していた。
故に、藤崎はその態度がとても気に入らなかった。
こみ上げてきた感情が怒りだった事は、皮肉にも幸運だった。怒りは原動力となる。目の前の脅威に対してならば、恐怖に凍りつくよりも、生存の望みが高い。その怒りが制御できていれば、文句無しの花丸だっただろう。
「……八坂君よりはマシだ。君は、目の前にいる人間の立場をよくわかっている」
感情のまま飛び込んだ。振り降りした刃は、青星の刀とかち合った。
「どうして八坂さん達を裏切った。どうして龏信会に入ったんですか!」
刀を押し付ける腕が震える。歯を剥き出して怒る藤崎を、青星はただ、涼しげな目で見返していた。
「君との約束を果たす為……といったら?」
「随分良い演技をしてくれましたね!それなら一言言ってくださいよ、俺の頭狙うくらいなら!!」
大声で吐き捨てるように言った。刀を押し出すと、青星は奥に下がった。
「……そうだ。あなたは、勇樹を龏信会から脱退させるって……協力してくれるって、言ったじゃないですか」
藤崎は、乾いた喉を無理に震わせて青星に尋ねた。呼吸が浅くなっていた。だが本人はそれに気づかない。胸の奥にある“なにか”が、無理にでも確かめんと言葉を絞り出させていた。
「アレは嘘だったんですか」
青星は藤崎の問いに瞬刻黙っていた。
「嘘をつくつもりはなかったよ」
青星の声は、静かで、それゆえに残酷だった。
「君の未来が良い方向へ向かうよう、協力しようと思っていたさ」
「なら、どうして──」
理由を問おうとした瞬間、藤崎の視界の中で、鈍く光るものが動いた。刃だった。息が止まる。言葉も途切れた。
この夏、何度となく感じたあの冷たい気配が、ふたたび肌を刺した。
青星の眼差しが、明確に“敵”のそれへと変わっていた。
殺意──
それが向けられていることを、脳が理解するより早く身体が動いた。
気づけば、刃は目前まで迫っていた。藤崎は反射的に、自身の刀を肩と同じ高さまで持ち上げ、迫る刃の軌道をわずかに逸らした。
金属が擦れる音。目の前で散る火花。
追撃の二撃、三撃を、藤崎は息を荒げながら辛うじて受け流した。
握る手が痺れていた。呼吸が合わない。心臓が痛い。
「龏信会に入った理由……か」
青星は気づいているだろうと笑った。
「藤崎龍二を殺すため、だ」
青星は藤崎の目を見て静かに、しかし確実に告げた。
その言葉が空気を震わせ、藤崎の鼓膜を打った瞬間、胸の奥に鋭いものが突き刺さる感覚がした。呼吸が止まる。血の気が引いていく。
膝から崩れ落ちそうになったが、床を踏み締めて耐えた。
どうしてだ。どこでそう思うようになった。自分が彼女を失望させたのか。一体どこで、何を間違えたと言うのか。
その全ての問いが喉の奥で渦巻きながら、藤崎はただ、目の前の青星を見据えていた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、どうしようもない“喪失”だけが、胸の中を満たしていった。
青星は再び距離を詰めて来た。わざとらしい殺気と共に降りかかる刃をいなす。藤崎はそれで精一杯だった。
再び鍔迫り合いになる。
いなすたび、青星との力の差を感じた。そして、脳裏に八坂の姿を思い出し、ネガティヴな思想が藤崎の動きを鈍らせた。
自分ははたして、青星に勝てるのだろうか。疑問が頭をよぎり、藤崎の身体は力んで硬直していた。
青星は藤崎の状態を見抜いているように、素早く動き始めた。
藤崎は目の前の障害にばかり注視してしまい、周辺に注意することを怠っていた。青星が他の動作をしようとしているのを気がつけなかった。
結果、青星の足が藤崎の身体に入った。抵抗するまもなく、藤崎は三メートルほど後方へ身体を吹き飛ばされた。身体の体制を崩した藤崎は転がる。
藤崎はなんとか起き上がり、青星を睨んだ。意識が体から離れそうだった。
「ほんと、よく頑張っているよ。その様子じゃあ、少しは飲んでいるだろう?眠ってしまった方が楽だろうに」
「寝てる間に……首を、切るんでしょう?」
「その方が、君は苦しまずにすむよ」
精一杯の挑発も、青星は意に介さず、さも当然のように言う。
身体に力が入らない。さっきまで胸の奥で燃え盛っていた怒りは、その姿を跡形もなく消えた。
代わりに残ったのは、全身を包む冷気と、重たく沈む心臓鼓動。
「どうして……どうして、俺を殺すんですか」
藤崎は青星に聞いた。
命乞いのつもりはない。寧ろ正直聞きたくない質問だったが、知らずに殺されても、死んでも死に切れないと思った。
青星はため息をついた。知った事で意味がないだろうにと思ったのだろう。だが、自己完結に至ったようだ。
「……そうだね。君には選んでもらおうか」
青星は冷たい笑みを見せてきた。
「私はね、本当は東雲ちゃんを殺しにきたんだ。でもその為には藤崎龍二という名の守護者……ナイトがいる。そいつは随分と根性のあるナイトだ。今の私という立場なら、往生際の悪いといった方が適切か。だから先に君を殺すことにした。それだけだよ」
「東雲を……?」
聞き返した声は、藤崎自身でもわかるくらい低い声だった。
「あの子は存在しちゃいけない。黄陽に操られている人形だ。あの子は黄陽万十依の為に生きている」
「……あの人が言っている東雲の使命っていうのが、そうだと言うんですか?」
「そうだ。そしてそれは、私や君を不幸にさせる。いや、誰も幸せにならないだろうな」
青星は吐き捨てるように言った。
青星は黄陽の計画や東雲の使命を知っていて、ソレを蔑んでいるようだった。
藤崎は東雲の使命がなんなのか青星に聞いた。しかし青星が教えてくれるわけがなかった。
「あぁでも……君が私達側につくというなら、教えてあげても良いかも、ね」
「……龏信会に?」
尋ねた藤崎に青星は肯定した。
「君も一緒に東雲を殺すと約束するなら、君の命は保障しよう。まぁ、赤の魔女に対してもその方が良いだろうし」
青星は左手を藤崎に差し出し、誘ってきた。
自分の命が大事なら、差し出された手を掴んだ方が良いのかもしれない。
藤崎は一度深呼吸をした。
そして、今度は自分が、刀の刃先を青星へ向けた。
「んなもん、断るに決まってるでしょう」
藤崎の答えに青星は笑っていた。
「言う意味あるかなぁって思ったんだよ……やっぱりなかった。君はあの子の騎士なんだな」
わかりきっていたと言わんばかりに笑っていた。
「東雲は自由を欲している。いろいろな場所に行って、いろいろな景色を見たいと願ってる。それなのに、親が勝手に定めた使命
のせいで、どうして命を落とさなければならない!」
藤崎はそのまま構える。青星も長刀を握り直した。青星から笑みが消える。
「世界旅行の切符は、来世にとることだな」
互いに距離を詰め、刀を振るう。剣戟の音が、館の廊下内に響いた。
気を抜くと刀ごと腕がどこかに吹き飛ばされそうなほどの力と勢いだった。藤崎は歯を食いしばって目を見開き、青星の長刀を必死に見定めた。
剣戟を重ねるごとに体力を消耗しているのが実感した。振り絞る力も雀の涙程度で受け流すことができず、藤崎は力を入れて無理矢理防いでいた。
藤崎の意識が朦朧とした。とうとう、藤崎は自身の刀を離されてしまった。弾かれた刀は藤崎の後方に吹き飛んでいった。
藤崎はすかさずウエストポーチに手を伸ばした。青星の長刀が降りかかる。藤崎は咄嗟に体をひねり、左前腕で庇った。
鋭い痛みが左腕を一直線に走る。予備の薬莢を落としたが、気にする余裕などない。藤崎は目を瞑りながら信号拳銃を取り出し、青星に向けて撃った。
眩い光が放たれる。青星は一瞬だけ声を上げた。
藤崎は目を開ける。油断している青星を仕留めるには、今しかなかった。
やらなきゃ、やられる。
藤崎は無意識に忌々しい声と気が合ってしまった。その瞬間、吹き飛ばされた刀が消え、再び藤崎の右手に戻った。
藤崎は身体を傾け、勢いのまま青星を斬りつけた。
その時、時間がゆっくりと動くようになった。自分だけでなく、青星の身体も、何もかもがスローモーションしていた。
踏み込みが甘かったが、白い刀は光を帯びながら、青星の体に赤い線をひとつ描いた。
青星は確かに苦しんでいた。だが彼女の片側の口角は上がっていた。
屠るなら、今──
今こそ白に葬れ──
再び声が聞こえた。右腕が青星の胸元と同じ高さまで上がる。そこに藤崎の意思は関係なかった。
刀を突こうとしたその時、足に力が入らなくなり、藤崎はその場でうつ伏せに崩れた。
「……ははは。君は凄いね」
青星は明るい声で告げると、再び苦しみだした。その声は重く歪んでいた。
藤崎はなんとか青星の様子を見ようと顔を上げた。滴る血などお構いなしに、顔と頭を押さえ、先ほどより一層苦しんでいるようだった。
「約束、覚えてるかい?」
青星は藤崎に尋ねた。
声を上げる力もなく、藤崎は震えた息遣いで青星を見ていた。
「君に打ち明けたあの場所で待ってる……」
青星は告げると、その場を後にした。
藤崎は追いかけるために立ちあがろうとするが、左腕は使えない。右腕だけを支えとして起きあがろうとしたが、バランスが取れず再びその場に突っ伏した。
待って欲しいと懇願しながら、右腕だけで匍匐前進を試みた。それも三回ほどで力尽き、身体は指ひとつ動かなくなった。
頭の中に、家族や友人、八坂達が浮かぶ。最後に東雲が浮かぶ。
「……ごめん…………」
藤崎の意識は深く深く落ちていった。




