第二節
翌朝の朝食後、八坂が東雲を迎えに来た。
「少年も呼ばれている」
八坂に言われ、藤崎も彼の車に乗った。
八坂が運転を始めてから数分ほど経ってから、藤崎は車内で青星のことを共有しようとした。しかし、八坂に制止された。
「俺からも少年に聞きたい事がある。だが、それよりも支部長が待ってる。それを優先したい」
八坂の声色は、いつもと違っていた。怒っているようにも、落胆しているようにも聞こえた。
そもそも八坂が事態を把握していて、整理しきれているかもわからない。ルームミラー越しに見えた八坂の瞳は、複数の感情を帯びているようだった。
移動中、車の中は沈黙に包まれていた。東雲は疲れが残っていたのか、うたた寝している。藤崎はただ、窓から見える遠くの景色を見る事しか出来なかった。
藤崎達は一昨日と同様、第二応接室に連れて行かれた。
「この先にいるらしい」
八坂は扉を3回叩く。
「ご苦労だった。二人だけ入るように」
部屋の中から黄陽の声が聞こえた。
藤崎は八坂のことをちらと見た。八坂は小さく頷いた後、扉に背を向けるように身体を向き直した。
藤崎は東雲と一緒に会議室に入った。
一昨日と同じように、部屋の奥に黄陽が座っていた。変わらず、顔は隠していた。
「……娘よ。こっちに来て身体を見せなさい」
黄陽は東雲に告げた。
東雲は黄陽の目の前まで歩き、その場で服を脱ぎ始めた。まさか脱衣までするとは思わず、藤崎は驚愕しつつも咄嗟に東雲達に背中を向けた。
十数秒後、黄陽は東雲に後ろを見るように指示した。東雲は静かに従っていた。服の擦れる音だけ聞こえた。
「ふむ、どこも怪我はしてないようだ。着て良い」
指示された東雲は、服を着直しているようだ。その間に黄陽は話し続けた。
「明日は健診の日だったな。あとは二人で話す。連れて行きなさい」
誰かが東雲に近づいてくる。よけいな物音は聞こえなかった。靴音が藤崎に近づき、通り過ぎていった。
去り際に振り返った東雲に藤崎は小さく手を振った。
「いつまで背中を見せているつもりだ?」
東雲が退出した後、黄陽が藤崎に話しかけた。
「紳士的だな、君は。年頃の男子というのは裸体に興味が出ると思ったが」
「他人の裸は見るものじゃないと教えられましたので。それより、人前で易々と脱がさない方が良いと思いますけど」
「身体に異常がないか確認するのは易々しいことか?」
黄陽に聞かれ、藤崎は何も答える事が出来なかった。黙っている藤崎に黄陽は質問を続ける。
「いろいろあったようじゃないか。同行していた子供は怪異人種で、山に隠された結界の中に誘われたと。奪還しようとしたところで、娘は人質にされたそうだな」
「……ごめんなさい」
頭を下げ、謝った。東雲を危険に晒したのは間違いないのだから。
「一歩選択を誤れば、命の危機に瀕する」
黄陽の言葉はその通りだと思った。
「師が突然現れて、動揺したか?」
藤崎は顔を上げた。
「聞いているとも、青星が娘を人質にとったことも。だがまぁ、君からの話も聞いておこうか」
黄陽は手のひらを上に、指先を藤崎に向けた。
藤崎は昨日までの出来事をなるべく簡潔に話した。高尾の話や、青星の提案、松林や加来、そして山のひとびとの事を。
「よもや、娘や雪下達を人質にしたのが青星だったとはな」
黄陽は深くため息をついた。しかし、どこか割り切っていそうではあった。
「昨日、龏信会の幹部がここに来たよ」
客人とは、龏信会の幹部だったらしい。黄陽の発言に藤崎は言葉を失った。
「今回の事件の犯人と青星の事ついてだ。まず、今回の事件の犯人についてだが……加来といったか。今後、あの女性の追跡は一切するなと」
「応じるんですか?」
「追跡する場合は、山の住人を人質に取ると言う」
「そんな……」
項垂れる藤崎に黄陽は話し続ける。
「我々はあくまでも怪異人種犯罪の対策として作られた機関だ。即解決だけが手段ではない」
ならば他に方法があるのか。藤崎は刹那きこうとしたが、藤崎は取りやめた。聞いたところで、教えてくれないだろうと判断した。
「それと、青星はもう戻るつもりはないらしい」
「戻るつもりはないって……どういうことですか」
「青星くじらは、怪異人種犯罪対策機関を抜け、龏信会に寝返った」
動揺を隠せないでいる藤崎に、黄陽は冷たく告げた。藤崎は真っ直ぐに立ち続けられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。
「まぁ、長く生きていればそういうこともある。ひとまずは、彼女の捜索からだな。君も見かけたら連絡するように」
黄陽は藤崎に告げた後、出入り口の扉を指した。用は済んだから、帰れと言うことだろうと読み取ったが、藤崎はここで帰ってはいけない気がした。
「連絡しろって……」
「捕まえて話を聞かなければならない」
それぐらいわかるだろうと黄陽に煽られた。
何も言わず俯く藤崎に黄陽はため息をついた。
「まさか、出来ないと言うか?師を裏切るような事は出来ないと?」
「俺だって話を聞きたいですよ」
「君には話さないだろう。それに、君では力不足だ」
「っ……そんなのわからないじゃないですか!」
黄陽にきっぱり言われ、藤崎は感情的に反論する。藤崎は黄陽を睨んだが、すぐに怯んだ。仮面の向こう側が冷ややかな視線を向けているような気がした。どんなに言い聞かせても聞き分けない未熟者に対しての、呆れと失望を混ぜた視線を向けられている気がした。
暫く空調の音がよく聞こえた。藤崎はじっと黄陽の様子を伺っていたが、黄陽も何かを話そうとしなかった。
やがて、黄陽は椅子に寄りかかり、ため息をついた。
「赤の魔女は、君の旧友らしいな?」
「そうですね」
「赤の魔女は随分と若いが、それでいて団体の幹部と言われる、重役のようなポジションに席を置いている。我々も要注意人物として警戒している。これは青星がまだイビト隊にいた頃に聞いたが、君は赤の魔女を龏信会から脱退させたいと考えていたようだな」
黄陽に尋ねられた。なんら悪いことはないはずだったが、知られてはいけないことを知られてしまって気持ちだった。藤崎はすぐに答えることができず、黙って黄陽を見るだけだった。
「何故そう思った?君は一度、彼の部下である加来に誘拐されているだろう。昨日の件も、青星と共に赤の魔女が現れ、加来の身柄を持っていった。それでもなお、赤の魔女に対する印象や心持ちは変わらないのか?」
黄陽は立て続けに藤崎に問いかけた。
正味な事を言えば、藤崎の中で神崎の印象は変わらず、少なくとも赤の魔女ではなかった。幼少の頃、近所に住んでいた二人兄妹の兄で、誰にも理由を話さず突如として消えていった。龏信会の幹部を担っているのも、やむを得ない事情があるのではないかと思っていた。
だから藤崎は、神崎に龏信会にいる理由を聞こうとしていた。そして彼が不本意で所属しているようならば、龏信会から抜け出す手助けをしたいと思っていた。
青星には既にその気持ちを打ち明けていたが、黄陽にも同様に伝える気にはならなかった。
黄陽という人物を見定めたとは思っていない。少なくとも、娘が危険な目にあい身体の心配をする気持ちはあるようだった。そしてその張本を叱責するような人間ではあった。親という立場であれば当然の思考、言動だろう。
だが、初対面の印象がどうしても拭えなかった。
藤崎は黄陽のことをいけすかない人だと思っている。八坂に、ありったけの思いを込めてそう答えたように。そう捉えたのは、東雲を大事な娘としてではなく、目的を話すための手段と思っているように感じたからだった。
その点におけると、先程の確認や叱責も、藤崎の考える一般的な親とは異なった価値観を持っての行動にも見えた。
更に加えるなら、黄陽自身は藤崎の思想を読み取っていそうである事もまた、打ち明ける判断を鈍らせる要因だった。
「君が私にどのような印象を抱いていようが構わないがね。だが感情が分かりやすいという事は、手の内を明かしているような物だ。君の表情ひとつで戦況を翻されるような事はあってはならない」
力不足とは、ただ純粋な戦闘を指しているわけではない、と黄陽は説いた。
藤崎は喉から出かかった言葉をのみこんだ。その言葉は決して聞き逃して良いものではなかった。
「君が赤の魔女をどう思っているか、なんていうものは最早どうでも良い。赤の魔女が何をしたか、それだけ考えれば次にすべき行動は歴然ではないかね」
藤崎は深いため息をついた。
結局のところ、黄陽の標的は青星一人ではないようだった。最早それに答えるのは馬鹿馬鹿しいと思った藤崎は、本当に何も答えず、会議室から帰ろうとした。
「これでもな、君には期待しているんだ。これ以上失望させないでくれよ」
ノブに手をかけた時、黄陽が藤崎に告げた。
藤崎は最後まで何も言わずに部屋から出いった。
廊下に出ると、八坂が対面の壁によりかかりながら、藤崎が出てくるのを待っていた。
どこから説明したものか悩んでいる藤崎の肩に八坂はそっと優しく手を置いた。そして無言のまま、親指で廊下の先を指す。そして八坂は先に歩いていった。藤崎は八坂について行った。
藤崎は八坂達の執務室に連れて行かれるかと思ったが、八坂からは違う場所へ案内された。
エレベーターで上昇し、さらに階段を上った。階段の先にある立て付けの悪い扉を揺らしながら、ドアノブを力強く握りながら捻り、扉を押した。
怪異人種犯罪対策機関の屋上は、普通のビルや学校等と変わりない。もしかしたら、この建物が偶々そうなだけかもしれないが、それ以外の場所の建物がどうかなんて事は、今の藤崎に考える余裕はなかった。
「ここらの建物はほとんど同じだ。だから少しでも見上げると空しか見えなくなる」
八坂が藤崎に告げた。見上げると、彼の言う通り空しか見えない。
運が良いのか、はたまた悪いのか。今日は珍しく空を雲が覆っていた。一週間後には台風が発生するかもしれないらしい。日差しは強くないが、風は生暖かかった。
「空に落ちそうだろ」
八坂は小さく笑った。詩的な表現だと藤崎は感心した。八坂はそれが青星からの受け入りだと言った。
「あの人、ここで煙草を吸うのが好きだったんだ。いつも空を見上げながら、煙をふかしていた」
八坂の話を藤崎は静かに聞いていた。
青星が学校で煙草を吸っていた記憶は新しい。ここでの彼女の姿も、想像に難くなかった。
「仕事で悩むことがあったときは、ここで一人考えていたんだと。あの人の部下になってからは、よく俺も連れて来られたよ。おかげさまで、ベビースモーカーだ」
八坂はズボンのポケットから紙煙草を、ワイシャツの胸ポケットからライターを取り出した。火のついた煙草を咥え、深く煙をはいた。
「悩む事はあったさ、何度もあった。俺はそれを何度も見てきた。でも龏信会なんかに行くような人間だとは思えねぇんだよなぁ…………」
八坂の独白のような言葉は、半ば彼の願いにも聞こえた。
「なぁ少年……昨日少年が見たのは、本当に青星くじらだったか?」
八坂は空を見ながら藤崎に尋ねた。
藤崎も、同じ事を疑問に思っていた。例えば昨日出会った青星は、他の誰かや怪異が青星に化けたのではないかとも考えた。加来が内藤の姿に扮したように。
しかし藤崎は八坂と同じように見上げる事は出来なかった。
「悪い、追い詰めるつもりはなかったんだ」
藤崎が返納に困ってると思ったのか、八坂はそう告げた。
「八坂さんも青星さんを探すんですか?」
「そりゃそうだろ。組織にいる以上、探して報告しなきゃならない。そういうもんだ。この業界じゃよくある話さ」
八坂は続けて何か言おうとして、躊躇った。
何か思考を巡らせたようで、俯いて小さくため息をついた。割り切れねぇ、と八坂の声で小さく聞こえ、藤崎は自身の胸が締め付けられる想いだった。
「まぁ人生の選択なんて、そんなものなんだろうな。何かを選ぶという事は、何かを捨てるということだ。取捨選択ってやつだ」
「取捨選択……」
八坂が放った言葉を復唱した。
「あぁ、だから割り切れねぇが、これは仕方がないってやつだ。だから少年、青星くじらを見つけたら、俺に話してくれ」
八坂は藤崎を見ながら、覚悟はできてると告げた。
刺し違えても構わないという表情に見えた。その感情を藤崎は持ち得ていただろうか、自問したが答えは明白だった。黄陽のいう力不足を痛感した。
八坂の思いを否定するのは失礼だと思った藤崎は静かに頷いた。
晴れ間がのぞいた。日差しを浴びて汗をかく前に二人は室内に入った。