第二十二節
「あなたは怪異人種……いえ、その姿は最早……」
「……いかにも。ワシはもう人と呼ぶには程遠い存在となってしまった」
言い淀んだ雪下の気持ちを汲み取り、麩須磨は答えた。
藤崎は昨日、黄陽から聞き、青星の実例を見た。だが青星の実例はあくまで過程のもの。
目の前にいる麩須磨は、人のように二本足で立っているものの顔はムササビであり、手も毛深く、木を登っていくことが出来そうな鋭い爪が生えていた。
「ワシは怪異人種となった後も妻と結ばれ子を成し、ナオミという孫が出来た」
麩須磨の妻と娘は普通の人だった。閉鎖的なこの場所よりも、広い世界を見てほしいと思った麩須磨は、彼女達を山の外へ無断で出したらしい。
「じゃが、ナオミは違った……彼女はワシの影響を強く受け、彼女もまた怪異に染まってしまった」
麩須磨は目を細め、悔しそうに吐露した。彼は藤崎に近づき、膝をついて哀願する。
「頼む、龍の子よ。ナオミを……救ってくれ」
麩須磨は細い声で藤崎の手を握った。
伸びた爪が藤崎の手に刺さる。麩須磨の手は震えていた。
「勿論そのつもりですけど、それより部長に何があったんですか?」
「それは移動しながら話すとしよう」
麩須磨は天狗の仮面を被ってから、集団の真ん中を通り過ぎ、下山方向へ歩き始めた。
「こちらへ」
麩須磨がそう言って手招きをするので、藤崎達は後をついていくことにした。
「この山は長年、人間社会での生活が困難になった怪異人種が集まる場所となっておった。大天狗様が受け入れてくれたのだ」
下る途中、麩須磨は一号路から逸れる階段を降り始めた。
そこは先程の道のように舗装されておらず、土と石で固められた道だった。ところどころに木の根が伸びている。生い茂るその道は四号路。野鳥の保護、観察を主眼に置いた道だった。そのおかげか、先ほどまで聞こえていた蝉の声が遠くなり、風で擦れる枝葉の音や鳥の鳴き声が響いていた。
麩須磨を先頭に四号路を歩く。藤崎は時おり東雲の様子を見ながらついて行っていた。
「ワシもこの山で暮らしていた。妻と娘を人の街に置いて……人は人、怪異は怪異として別々に生きよう。そう決めておった。じゃが一族の中には極端な物言いをする者もおってな……」
彼らは山で生き続けた。山の人々の中には、山から出ない事が自分達の掟であり、山から出た者は罰せられるべきだと考える者もいたそうだ。そして、山の外に出た者が罰せられる事もあった。
罰せられる者達を見て、麩須磨は妻と娘の存在を秘匿した。
「妻は娘は只の人のままだったが、まさかナオミが怪異人種となるとは思わなかった。妻からその便りを聞いたとき、ワシは生来で一番の血の気が引く感覚を覚えた」
「加来という人は、何者なんですか」
雪下が麩須磨に尋ねた。
「奴は最近来たよそ者よ。自分も人ならざる者になったと言っておった。ある日やつにナオミのことを知られ、なすがまま助けを求めてしまった。奴ははじめ、ナオミを助けると言ってくれたが、ワシがいないところでナオミを山の神に捧げると言っておったらしい。奴が何故山の神を知っているのかわからなんだが、もう信用ならん」
麩須磨は眉を顰めながら答えた。
山の一族は、少なくとも神崎や加来と深い関係にあったわけではないらしい。彼女が来た経緯と立場を思うに、龏信会とは密接になさそうだった。
麩須磨が答えたあと、雪下はチラと藤崎を見た。視線に気がついた藤崎は暫時彼女と目を合わせ、すぐに麩須磨へ視線を移し問いかけた。
「麩須磨さん。昨日、俺の事を加来から聞いたって言ってましたが……」
「藤崎龍二という、青い髪をした怪異人種の少年が、ナオミを誑かしておる。危険人物だから警戒せよと」
「赤の魔女を退かせたと騒いでた。自分達の脅威になると。お主がナオミを助ける妨げになるので、絶対に近づけてはならぬと言っておったわ」
開けた場所で麩須磨は立ち止まる、硬い木の根が張り巡らされている場所で、行先には四号路の続きのほか、他の路へ分岐する行き先も用意されていた。
「さて、ここから先は境界を越えなければならん……松林!」
麩須磨は松林を呼んだ。
松林は不機嫌な顔を見せ、聞き流していたが、麩須磨がもう一度呼ぶと、深くため息をつき、大傘を開いた。
「入れ」
松林はぶっきらぼうに誘った。怪訝な顔をする藤崎に麩須磨が説明した。
「これより先は我らが張った結界があります故、あやつの大傘を通して越えなければなりません」
「結界?」
「左様。我らが住まう場所は人が立ち寄らない場所。許可されていない者は、誰かと共に渡らなければなりませぬ」
どうやら麩須磨がこれから案内する場所は、自由に行き来する事が出来ないようだ。
「なら、ここから先は私だけを連れて行ってください」
雪下が麩須磨に頼んだ。彼女は藤崎と東雲の肩に手を置きながら、話を続けた。
「これから先、危険な事が起きるならば、この子達を連れて行くことは出来ません」
「俺だって部長達を放っておくわけには……」
「気持ちはわかるけど、君の本来の任務は、東雲さんの護衛だよ」
雪下に嗜められ、藤崎は閉口した。
確かに彼女の言い分は最もだ。藤崎は東雲の護衛をするよう、黄陽から命じられている。
東雲を危険な場所に連れて行く事はできない。
「なら、僕もつれて行けば良い」
提案したのは東雲だった。
「きっと、お母様はこの先の世界を見てほしくて、外に出る事を許可してくれたんだ。でも、僕一人ではどうする事もできない。だから、龍二君達に護衛をお願いしたんだよ」
東雲は雪下に向き直り、彼女の目を見てお願いした。
「お気遣いありがとうございます。でも、僕はこの先を見たい。見なくてはいけないと思うんです」
「東雲さん……」
雪下は一度目の前の少女の名を口にし、暫く彼女の目を見つめ、意を決したように頷いた。
「わかったわ。あなたが望むなら、私は脅威を退ける壁となりましょう」
床下は胸に手を置いて、東雲に答えた。
松林の大傘には藤崎と東雲、麩須磨と雪下のペアで結界を潜ることにした。先に麩須磨と雪下が結界に入った。
三人が消えたかと思いきや、一瞬で松林が戻ってきた。
「次はお前たちだ。さっさと入れ」
松林大傘の棒を軸にくるりと回しながら、藤崎と東雲を誘った。
「そこを動くなよ」
大傘の中に入った藤崎と東雲に、松林は低い声で告げた。彼は大傘を小さく回し、藤崎達の視界を一度遮るように深く下げた。刹那、大傘をほんの少しだけ上げて、皆の頭に当たらないように大きく振り回す。
円を描いたあと、松林は大傘を閉じてもう離れていいと冷たく言った。
藤崎は辺りを見回すと、近くにあった分岐の看板がなくなっていた。
枝葉の擦れる音ばかりで、生物の声は何も聞こえない。あまりにも静かで奇妙に感じた。
「加来達はおそらくこの先におる。もう少し歩くぞ」
麩須磨がそう言った後、一行は再び歩き始めた。
道のように固まった土の上を歩いた。先ほどよりも不安定で、段差も激しく、気が緩んでいると転んでしまいそうだった。
藤崎は東雲と手を繋ぎながら、時に上り下りを手伝い、慎重に歩いた。
「それで、部長をどうやって助けるんですか」
暫く歩いた後、藤崎は麩須磨に疑問を投げた。
「山の神へナオミを捧げるといった。奴らは村の奥にある崖にいるだろう。村の中を通り過ぎないよう、迂回しながら目的地へ進もう。一刻も早くナオミのもとに辿り着いて助けてやりたい」
麩須磨の声は上ずっていた。
「気休めになるかわかりませんが、今、高尾ちゃんの近くには私の同僚がいるはずです。それまでに合流できればきっと大丈夫でしょう」
雪下は麩須磨を安心させようと、優しく告げた。
おそらく内藤のことだが、彼女は腹痛だと雪下が話していたはずだった。
藤崎は確かめるべく雪下の顔を見た。藤崎の意図がわかっていたようで、雪下は聞かれるよりも先に答えた。
「お手洗いに行っていたというのは嘘だったの。あの場で騒ぎにするのもよくないかなと思って。ごめんなさい」
謝った雪下に、藤崎は首を横に振りながら大丈夫ですと答えた。
迂回した道を辿りながら、藤崎は少し遠くに見える村の様子を覗いた。
眼前は農地のようで、誰かが農作業をしていた。ぱっと見では顔がよく見えなかったので、目を凝らそうとしたが、すぐに麩須磨から咎められたのですぐに顔を下げた。
暫く歩いていると、麩須磨が大きな岩の陰で立ち止まった。
「崖はこの先だ」
麩須磨はそう言って、その先を覗くよう促した。
岩の上から、周りにばれないよう草間の隙間から覗いた。
その先には服を獣の顔の二足歩行生物と、被り物を深くかぶって顔を隠している人物が入り混じっていた。
「あれが山に住まう怪異人種だ。この先は姿勢を低くしながら歩けば、奴らに見つかることなく崖の下まで近づく事が出来るだろう」
麩須磨が呟いた。
ムササビの姿をしている彼を見たとき、藤崎は不思議ながらも可愛らしいと思っていた。
しかし、人ならざる者達が並んでいる様を見ていると、夢でも見ているのではないかと自分を疑いたくなっていた。
崖のそばには高尾と佐藤がそれぞれ縄で縛られており、二人は座って入れる程度の檻の中に閉じ込められていた。
「あれが加来だ」
麩須磨がこっそりと指した先にいたのは、その紫の髪には似つかわしくない獣の耳をはやした内藤の姿をした女性がいた。どういうわけか、加来は内藤に扮しているままだった。
「ついこの前は獣の姿をしておったはずだが、最近はあの姿でいることが多い」
麩須磨が呟いた後、藤崎は念のために雪下を見ると、彼女は無言で首を横に振った。
「肝心の本人がいないようだが……」
松林が小さく呟いた。その時、加来が目の前にいる山の人々に対し呼びかける。
「ではこれから山の神へ贄を捧げましょう。そうすれば、山の神は我らの願いを叶えてくださります」
加来は次に一言、檻を開けるよう命じた。
何をされるかわからないが、だからこそ、このままだと高尾達が危ない。
藤崎達が慌てて身を乗り出そうとした時、山の人々に紛れていた中、顔を隠していた人物の一人が群衆から飛び出した。フードを深く被り、顔が見えないようにしていた。その人物は直後、檻を開けて高尾を連れ出した山の人を蹴飛ばした。
「貴様──!」
加来は怪訝そうに言いながら、顔を隠したままの人に襲いかかる。
加来の攻撃はすべて避けられた。その拍子にフードが外れ、顔をあらわにした。
「貴様は!」
その顔を見て、加来は驚愕し、その身を硬直させた。山の人々は同じ顔が現れたことに驚いていた。
「こ、これ以上、好きにはさせにゃい!」
その人、内藤瑛梨華は、顔をこわばらせながら加来に言い放った。