第一節
夏の昼下がりの藤崎家。
藤崎龍二の母、藤崎紗代がミンミンゼミやアブラゼミの鳴き声を聞きながら洗濯物を干していると、ごめんくださいと声をかけられた。
「あら、八坂君じゃない」
「ご無沙汰しております。紗代さんもお変わりないようで」
八坂と呼ばれた男は紗代に歯を見せながらそう言った。
「珍しいわね。うちに来るなんて……」
「えぇ、先日の件で息子さんに聞きたい事があって先に病院に行ったら、既に退院されていたと聞きましたので」
「えぇ、ちょうど昨日退院したのよ」
紗代はそう答え、家の中に招いた。
八坂を連れて、藤崎の部屋の前に着く。
「龍二、お客さんよ」
紗代はドアを二回叩き、中にいるであろう藤崎に告げた。しかし彼から返事は来ず、何度呼んでも何も応えない藤崎に痺れを切らした紗代は部屋のドアを開けた。
しかし扉を開いても中には誰もおらず、動くものといえば外の風を受けて揺れる風鈴とカーテンくらいだった。
「出かけたのかしら……」
「あの、今日俺が来ることって、青星さんから聞いてませんでした……?」
先程の出迎えやいるはずの藤崎が何処かへ行ってしまっている状況を見て、八坂は紗代に尋ねた。
紗代は八坂の顔を見つめると、ゆっくりと首を傾げた。
それは、確実に聞いていないという反応だった。
「あ、青星……」
八坂は顔に手をあてて大きくため息をはいた。
来客がいる事なぞ露知らず、藤崎は最寄りの駅へ出かけていた。
夏休みの宿題を進めていたら、シャーペンの芯が無くなってしまったのだ。合わせて、一学期の終わりにノートのページ数も残り少ない事に気がついたので、いっそ文房具屋に行ってまとめて買ってしまおうと思ったのだった。
これは必要な行動だ。決して、遊びに行きたくなったわけではない。仕方ない事だ。
藤崎は自分にそう言い聞かせながら、バスの中で揺れていた。
文房具屋でシャーペンの芯やら、ノートやら、欲しいものをある程度買った後、画材コーナーに寄る。
藤崎は普段絵を描く事はなかったが、それでも行く事のない場所へ足を運ばせたのは、東雲のためだった。
彼女はあの病院で入院を続けている。まだ身体に心配なところがあると医師は言っていたが、それが本当のことかはわからない。ただ、自分がいない間も退屈を紛らわす為に、キャンパスブックと色鉛筆を買ってあげようと藤崎は思った。
ひとまず、よく見かける黄色と黒のスケッチブックと、二十四色の色鉛筆を手に取る。レジで年老いた店員に渡すと、店員はふふと微笑んでいた。
どうかしたのかと、店員の方を見ると、店員は一言謝罪した後、弁明を始めた。
「すまないね。新しく始める機会に立ち会えたと思うと嬉しくて。絵はいい。描き手の生きてきた歩みがよく現れる。きっと君のこれからの人生を彩るだろう」
楽しそうに語る店員に藤崎は少し罰を感じながらも告白する。
「すみません、これは自分用じゃないんです。今、ずっと入院している友達がいて……暇つぶしになれば良いと思いまして」
「そうか、そうか。いやこちらこそ勝手に妄想を膨らませてしまった」
互いに謝ることとなり、藤崎は少し気まずくかんじる。だが店員はそんな風には思っておらず、雑談を続けた。
「それで、その子は絵を描くのが好きなのかい?」
「いえ……ただ、初めての経験をする事が多いみたいなので、描いてくれれば、より思い出として残るかなぁって」
藤崎がそう答えると、老人はまた嬉しそうに頷いた。
「素晴らしいじゃないか。君はその友人のことが大切なんだねぇ」
「そうなんでしょうか」
「そうとも。人の為に行動するときは、たいていはその人の事を大事にしたいと思うものだ」
店員はスケッチブックと色鉛筆を紙袋に入れながら話を続ける。
「誰かのために行動するというのは素晴らしい事だ。思われた方はその気持ちだけで嬉しくなる。君の友人は、良い友達を持ったな」
店員からの言葉がこそばゆく、藤崎は笑いながら、上の空な返事をした。
店を出て、バス停通りを歩いていると、すれ違う人々が同じ話題を口にする。
「キープアウトだって」
「何か嫌な事件でもあったのかしら」
その話題をしているのは、老若男女問わない。
親子や高齢者、学生同士など、様々な人間が口にしている。
「この前の夜中、公園で暴れてた男がいたんだってよ」
「なんでも、不良集団の男らしいぜ。湖の近くで騒ぎを起こしていたらしい」
「怖いわねぇ……最近は特に物騒になった気がして嫌だわ」
話をしているものは皆、一方向から来ているようだった。藤崎はその人達の元を辿る為に流れに逆らう。
そうして辿り着いたのは、井の頭公園の中だった。湖から離れ、ハンドメイド作品や似顔絵といった露店を通り過ぎ、通りすがりに聞いた立ち入り禁止のテープを見つけたのは、線路の下をくぐった先だった。
止めているのは公安機関のようだった。胸元に警視庁と刺繍された制服を着ている人が、立ち往生している人とやり取りをしている。
川だけでなく、道全体を塞いでしまっている為、邪魔だと抗議しているらしい。ただ、立ち往生している人達はある程度不満をぶつけたら、その場から離れ、向かい側の道へ移動した。
ここで何があったのか、藤崎も尋ねたかったが疲れ切った警官に野次馬で聞くのは忍びなかった。
さてどうしたものかと、辺りを散策していると、川を通している小さな橋のなかで、女性が必死に何かを探していた。