第十二節
もっと適切な格好があるかもしれないと、藤崎は吟味しようか悩んだ。すると、部屋の入口から声が聞こえてきた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
召使の一人が東雲に報せた。
「ありがとう。もらうよ」
東雲が告げると、召使は平坦な声でかしこまりましたと答え、入り口からまっすぐ歩いた先にあるテーブルに陶器の食器やポットなどを置いていった。
「一旦休憩にしよ」
召使がお茶を汲んでいる間に藤崎と東雲がテーブルに近づき、対面に座った。紅茶の匂いが湯気と共に藤崎の目の前に漂いゆらめく。
「動きやすい服ってさっきのようなものでも良いの?」
東雲に尋ねられ、藤崎は首を傾げた。動きにくいわけではなさそうだが、元が和服なので袖がやや広く作られている。それに隙間が少々空いているのが懸念点だった。
「虫も多いからその対策もしなきゃな……出来れば、今の俺にみたいな感じで、且つ肌の露出が少ない服が良いんだけど」
藤崎が提示したものがあるか、東雲が召使に尋ねる。
「お嬢様の外出は許可されておりませんが」
召使は冷たい冷気を浴びたような錯覚を感じるような声で答えた。
「さっき決まったの。明日行くから」
召使に東雲はぶっきらぼうに答えた。その声に召使は特に反応を示さず、また声色ひとつ変えずに「承知いたしました。お嬢様に合う服を見繕います」と答えた。もう一人は一礼をすると部屋から退出した。
はじめからお願いすればよかったなと考えながら前を向くと東雲の眉間に皺が寄っていた。大丈夫か尋ねると彼女は別にと答えた。
「じゃあ次は何をする?」
「何をするって……言ってもなぁ」
「大丈夫だよ。ここにはこじ開けるような窓もないし」
あくまでも護衛をするという目的がある以上、遊んでいても良いのかと藤崎は悩んでいたが、それを見透かしているかのように東雲は追加で告げた。
「龍二くんは僕の側にいてくれれば良いから。ね?」
首を傾げながら見つめられ、藤崎は頷く他なかった。東雲に見つめられると、藤崎は彼女の言うことを無碍にすることができなかった。だから藤崎は彼女の言う通りにしてしまう。
東雲が席を外している間、藤崎は俯きながら、顔に手を当て、ため息をついた。自分でもよくわからなくなる程、東雲の従属になるこの気持ちは、何かの術にかかったのではと思い込んでしまうほどだ。その単純な心移り変わりに恥ずかしくなる。
平静を取り戻そうと、藤崎は紅茶を口にした。普段口にしない味だったが飲みやすい。口に広がる甘さと漂う香りが藤崎を落ち着かせた。
紅茶を飲み、再び息を吐くと、席を外していた東雲が、スケッチブックと色鉛筆を持ってきた。それは以前、藤崎が東雲に渡したものだった。
「だいぶ上手くなったんだよ」
東雲は藤崎にスケッチブックを渡してくれた。
藤崎はスケッチブックのページを一枚ずつめくる。ブゥードゥー人形のような藤崎の絵から始まり、東雲の部屋にある物の絵や、想像か何かを参考にして描いた動物の絵が描かれていた。
藤崎と東雲はその絵をもとに会話をして、それから二人で互いの絵を描く事にした。
東雲の絵は相変わらず個性的だったが、目の前に被写体がいたからか、前よりは幾分か人の形を保っていた。
また、明日行く山がどんな場所なのかを説明するのに絵を描いて説明したりして、そうしていくうちに時間は過ぎていった。
扉を叩く音が聞こえた。出入口を見ると、すでに扉は開いていて、青星が寄りかかっていた。
「楽しいところ悪いけど、時間だよ」
青星に告げられ、藤崎は時計を見る。短針は既に真下を通り過ぎていた。
「もうそんな時間なんだ」
呟いた東雲の声は、いつもよりほんの少し低かった。
「また明日」
「うん、また明日」
東雲に見送られながら、藤崎は青星と共に部屋を出た。扉が閉まり、清閑な廊下を歩き始めた。
東雲と来た時の階段は使わず、廊下を進む。真っ直ぐに歩き続けると、黄陽が二人を待ち構えていた。
「君は呼んでいないと思うが」
冷たい声は藤崎に対してではなく、青星に向けられているようだった。
「送迎をしてあげようと思ったのよ。それに忘れ物をしたでしょう」
青星は答えた後、片手に持っていた封筒を黄陽に渡した。
「妙な事をするなよ」
受け取りながら黄陽は青星に告げた。
「妙な事?」
「わかっているだろう」
青星はおどけるように言葉を復唱したが、それに対しても黄陽は感情揺れる事なく返した。藤崎は前に傾き青星の様子を窺ってみるの、彼女は笑みを浮かべていた。
「私は私の意志でやりたい事をするだけ。あなたが使命を果たそうとするのと同じように」
不敵な笑みだった。
黄陽はこれ以上青星に言及しようとはしなかった。
「では藤崎龍二くん、明日は娘をよろしく頼むよ」
藤崎の方を向き、黄陽は言葉を発した。雲を掴むような会話が終わり、突然自分に話を振られた藤崎は、生返事をするだけで、黄陽はそれ以上何も言わず、藤崎達の横を通り過ぎて行った。
振り返り、黄陽の背中を見る。全身がわからないような、身体が徐々に小さくなるのを見送っていると、青星が帰ろうと声をかけてきた。
エントランスで静かに頭を下げていた召使達の前を通り過ぎ、館を出る。見上げると曇り空が広がっており、ところどころ赤や橙色の光が染められていた。
帰りは青星の運転する車に乗った。
「どうだった?初めての想い人のお家デートは」
青星が運転をしながら藤崎に尋ねた。
「可哀想だと思った?でも、決して彼女をあの場所から連れ出そうなんて考えない方が良い」
「……考えてないですよ」
藤崎は青星に否定したが、そのような気持ちが全くなかったわけではなかった。
壁に囲まれ、外が見えないあの空間が良い環境だとは思えなかった。いつかは彼女を連れ出した方が良いのではと考えていた。故に、青星に釘を刺された藤崎は心臓が跳ね上がった。
「そう、ならいいけど」
青星の返事が、どことなく淡白な印象を受けた。
嘘をついたから、それを見透かされているような気がしてそう感じてしまったのだろうか。藤崎の中でそんな考えが浮かんだが、そうでもないような気がした。
「……護衛を引き受けたの、やっぱり不味かったですか」
考えられる推測を藤崎は青星に投げた。暫時、重たい空気が車の中を包む。
「……いや、そんな事はないよ。危険な事ではあるけどね、君が選んだ事だからさ」
青星は静かに答えた。やはりどこかおかしい、と藤崎は感じた。直前の任務で何かあったのだろうかと考えていると、今度は青星が藤崎に問いかけた。
「君はまだ、あの子を守ってあげたいと思っている?」
「えぇ、思ってます」
「あの部屋を見ても?」
青星に再び問いかけられ、藤崎は言葉が詰まった。
東雲が怪異人種を知らなかったにせよ、彼女の部屋は怪異人種から守るように造られていた。彼女の周辺はそれだけ危険な事が起きる恐れがあり、藤崎もそれは身をもって経験していた。
「それでも、俺がいなくなったら東雲は独りになる。そうなるぐらいなら──」
側にいてくれたら良いと、東雲は言っていた。彼女が自分を求めているなら、それに応えようと、藤崎は既に決めていた。
「──それなら、彼女のそばで守ります」
「…………そっか。それならいいんだ。ごめんね、意志を揺らがすような事を尋ねてしまって」
言い切った藤崎に青星は謝罪したので、藤崎は大丈夫ですと答えた。
長いトンネルが終わり、両隣に摩天楼がそびえ立っていた。曇り空は更に厚くなり、空一面が薄暗い灰色に染まっていた。