第十六節
藤崎に意識が戻った時、まず感じたのは肌から伝わる冷たさだった。不意に砂埃が口に入りせき込み、涙を流しながら瞳を開く。
冷たさの正体はむき出しのコンクリートだった。うつ伏せで床の温度を感じてた藤崎は、身体を起こして辺りを見回す。
七畳分の細長いワンルームの室内はコンクリートが打ちっぱなしで、壁紙やカーペットなどは取り付けられていない。出入口までの道は綺麗に掃除されているようだが、その反対側の角には、瓦礫や破片が無造作に重ねられていた。
「龍二くん」
自分を呼ぶ声が聞こえた藤崎は振り向いた。その場にいた少女の名前を呼ぶ。
「東雲……」
「よかった。起きないから心配だったんだ……」
「怪我はないか?」
「うん、大丈夫。けど……」
東雲はあたりを何度も見回す。
いくら世俗を知らなかったとはいえ、こんな場所が東雲の家だとは思えない。
カーテンのない窓から外を見る。見える景色は山と森のみ。ここが自分たちがいる東京とは違う場所のようだった。随分遠くまで連れ去られたのだろう。当然、携帯電話も取り上げられているので、助けを呼ぶことも出来ない。
さて、どうしたものかと考える藤崎の背中に、東雲が自身の身体を重ねた。
「ごめん。また君を巻き込んじゃった……」
呟く東雲の声は小さく、震えていた。
自分が目覚めるまで、どれほど自分を責めていたのだろうか。そう思う藤崎に彼女の事を責める気持ちはなかった。
藤崎は振り返り、東雲の両肩を掴む。
「大丈夫だ。必ずここから連れ出す」
東雲の瞳を見つめるように、藤崎は微笑みながら、そう答えた。
キィ……と、金属がこする音がした。藤崎はすぐに出入り口の方を睨む。が、誰もこの部屋に入ってこない。
「待っててくれ」
東雲に手の平を見せながら告げた藤崎は、ひとりで出入り口の様子を見に行った。
扉が独りでに動いていた。キィ……キィ……と、何度も無防備に動き続けていた。藤崎はその扉にゆっくりと近づく。なるべく靴音を立てないよう、じりじりと動きながら。
扉の隙間から人の姿は見えない。しかし、それだけで安心出来るわけもない。
藤崎は一度深呼吸をして、刀を具現化する。
もしも人がいるならば、チャンスは一度きりだ。
自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がり、そして扉を力一杯蹴り飛ばした。すぐに廊下に飛び出し、周囲と天井を確認する。しかし予想音は裏腹に、吹き抜けた廊下には人ひとり姿はなく、生暖かい風が藤崎の髪を優しく撫でた。
本当に人が一人もいない。その事実に藤崎は首を傾げながら、創作物の見過ぎなのだろうと自身を納得させ、東雲に手招きした。
「俺が先行する。足下とか気をつけて」
告げられた東雲は、ゆっくりと頷いた。
二人はビルの中を足音を立てないよう歩く。人が一人もいない、砂埃や壁や天井の小さな欠片があたりに散らばっていて、手すりや壁も酷く汚れている。
この建物が使われなくなってから、どのくらい経っているのだろうか。均等に配置されたドアの側には部屋番号と思われる三桁の数字だけが添えられていた。
これだけ広い施設だと、自分達の荷物が何処にあるのかわからない。
「一旦、一階まで降りてみよう。もし外に出られるなら、人がいそうな場所まで歩くとか……」
階段を見つけた藤崎はそう提案した。話しながら降りようとする藤崎の手を突然東雲が待ってと叫びながら引っ張った。
「っとと……どうした?」
「そこ。見づらいけど、何かがある」
東雲が指した先、階段をひとつ降りた足下に、細い糸が張られていた。両端には糸が千切れた時に作動しそうな機械と、無骨な鉄色の塊があった。
あのむき出しの塊が、自分の想像通りの働きをするならば、まさに間一髪だっただろう。
「助かった……東雲が気をつけてくれたおかげだな」
「うん……それより、他を探さないと」
東雲の言葉に、藤崎はそうだなと答えた。
再び歩き出した藤崎達は廃ビルの中を彷徨う。罠が張られていない場所を探し、一階層ずつ下がる。
二階まで降りようとした二人の耳に、大きな爆発音が入ってくる。直後、ビル全体が小さく揺れたのか、老朽化した天井が一部欠片が落ちる。
「何の音?」
脅えた東雲が藤崎に身体をつけながら尋ねた。藤崎はわからないと答えた、その一方で予感がよぎる。
この場所がもし龏信会所有の場所ならば、もしかしたら京島がいるのかもしれない。
その場所に彼がいなければいいが……
「龍二くん!」
後ろを向いていた東雲が、考えている藤崎の身体を引っ張る。身体がよろめいた直後、銃声が鳴り響く。
「まったく、勇樹様に言われなければ、あんた達なんて縛って遊んであげたっていうのに……」
「っ走るぞ!」
藤崎は小さく言いながら、東雲の手を引っ張る。
「逃がさないわよ!」
女性の声が響き、銃声が三回鳴った。おそらく自分達を連れ去った龏信会の人物だろう。
二階を降りた時にちらと見えた看板にホールと書かれた場所があることを知った藤崎は、そちらへ足を向ける。
「開ける場所があるみたいだ!そこまで行こう!」
藤崎の提案に東雲は頷き、後をついて行った。
銃声はホールまで聞こえていた。
半壊となったホールには外から木々が侵入し、床には苔や雑草が生えていた。
「随分と賑やかになってきたな……」
天井から落ちてきたと思われる廃材の上で、青年が呟く。
青年の服は、真夏とは思えないほど着こんでいた。全身を黒い服で包み、身体のラインがわからないような着ているコートも黒かった。
「威勢の良いやつが、加来達から逃げているみたいだが……俺が様子を見に行ってやった方が良いかもな」
青年は視線を彼方から下にずらし、五メートルほど先で這いつくばる京島に対し尋ねる。
「お前もいい加減、諦めたらどうだ?もう疲れただろう」
青年は廃材から降り、京島に近づく。
「大切な兄貴分が殺された……か。それで殺した奴らが許せなくて復讐に走るなんて、泣けるぜ」
「黙れ……同情なんて一ミリもしてねぇくせに……」
「あぁ、してないとも」
顔を上げ睨む京島。彼の傍まで歩いた青年は、座り込み、じっと京島の顔を見た。
「てめぇがどんな心情だったが知らんが、こっちは信徒を殺されてるんだ。その信徒にも家族はいる。そいつらに俺達は合わせる顔がねぇよ」
「お前達がアニキを殺しさえしなければ──」
「うっせぇな……」
京島の言葉を遮り、青年が静かに怒鳴る。
「アニキ、アニキってよぉ、お前はそれしか言えねぇのか?あいつは仕事を失敗した上に、大事な標的に傷をつけた。その上、イビト隊に逃げられるところを助けてやったっていうのに、奴は俺達の事を外に漏らそうとした。筋を違えたんだよ、奴は!」
畳みかけるように言う青年の言葉に、京島は圧倒される。
「挙句てめぇも随分と暴れたそうだな……俺達だってイビト隊に目をつけられているっていうのに、動きづらくなっちまった。良い営業妨害だよまったくっ」
青年は京島の右肩に足を乗せた。
「さあどうする。アニキとやらを追うように惨たらしく死ぬか……お前が今から命乞いをするなら、死ぬまで協力することを条件に助けてやらんこともないが」
青年がゆっくりと体重をかける。ギリギリと右肩が押しつぶされ叫びそうになる悲痛を京島は抑え、痛みから逃れるように左手に持った鎖を振り回した。
青年はそれを避ける為に後ろへ下がる。
「赤の魔女め……お前に屈するか!」
京島は青年の異名を呼ぶ。
反抗的に睨むことをやめない京島に対し、青年は静かにへぇと呟いた。