第十二節
時間は少し戻り、午前八時。
藤崎は自宅で朝食を摂っていた。今日の朝食は目玉焼きとハムに、白米と豆腐の味噌汁だった。
ぼんやりとテレビを見ながら、昨日のことを思い出す。藤崎の中では、京島に言われた言葉がまだ引っかかっていた。
「ちょっと、食べ物で遊ばない」
紗代にそう言われて、目玉焼きの黄身を箸でぐずぐずに回してきた事に気がつく。
藤崎は紗代に一言謝り、白身で黄身を絡めとり、口に運ぶ。
「まだ酷く痛むの?」
紗代の問いに藤崎は首を横に振って答えた。
「いや、そこまで痛いわけじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
言い淀んだ藤崎に紗代は聞き返す。
昨晩の出来事を打ち明けても良いものか。迷っている藤崎に紗代は再び語りかける。
「悩み事があるなら言ってくれると良いんだけどなぁ。解決できるかはわからないけど」
「わからないんだ」
「だって神様じゃないし。でも、子供が悩んでるなら力になりたいものよ。親というものは」
微笑みながら紗代は答えた。
「誰にも言わない?」
「うん、龍二がそうして欲しいなら」
紗代に約束してもらい、藤崎は昨晩の出来事を打ち明けた。
その上で、京島に言われた事について相談をした。
「龏信会に復讐しようとするのは危ないはずなんだ。下手したら、京島だけじゃなくて、アイツの仲間達も危険な目に遭うかもしれない。けど」
「大事な人を殺した相手がわかってる中、復讐しないわけにもいかないわよねぇ……」
紗代の言葉に藤崎は頷いた。そして、その迷いこそが長瀬に指摘された甘いところなのだろうと、藤崎は自覚していた。
「でも、先の見えてないやり方は良くないと思うわ。ましてや、復讐で人を殺すなんて……」
「それは、犯罪だから?」
「それもだけど、人の命は簡単に奪うべきものじゃないから。その子もそうだったように、人が死ぬときは、その人の周りの生活も変わるものでしょう?それに、復讐で殺したって大切な人は生き返ってこないわ」
紗代の瞳は憂いを帯びていたように見えた。
「親父はどうだった?」
その時、藤崎はふと浮いた疑問を紗代に投げた。
幼少の時以来の質問に紗代は小さく笑う。前に聞いた時も、紗代は今のような表情をしていた。疑問を投げた後に思い出した藤崎は、咄嗟に謝った。
「ごめん、言いたくないなら別に……」
「大丈夫よ。知りたいんでしょう?」
紗代は答えた後、天井を見つめた。
藤崎の父親を、かつて見た思い出を、手繰るように。
「あなたのお父さんは、真っ直ぐな人だったわ。実直に自分の正義を貫いていて、どんなに絶望的な状況下でも、希望が繰り出せるならば諦めなかった。そんな人だったわ」
「どんな絶望的な状況下でも……」
「今日はこの後、病院でしょう?はやく食べなさいな」
紗代に促され、藤崎は白米が僅かに残ったお椀の中に味噌汁を入れて、流し込むように口に運んだ。
「やめなさいって言っているでしょ」
「じ、時間短縮で」
お椀の中を空にした後、藤崎はそう答え、食器を台所へ持って行った。
身支度をして小判塚医院に向かう。
「傷は少し深いようだけど、致命傷って程でもない。処置もしっかりしているね」
「そこは八坂さんにやってもらって……」
「そうか、彼ならなお安心だ。まぁ下手に動き回ると傷が酷くなる可能性もあるから、そこは注意してね」
診察医の言葉に藤崎はわかりましたと頷いた。
「ところで……それは新しいファッションなのかい?」
診察医は藤崎の手元に視線を移し、尋ねた。
「ビニール袋の中に梨……テーマは、八百屋帰りの美術部員とかかね」
「いや、普通に見舞品として……」
「あぁ、あの子のかい」
藤崎の答えを聞いて納得した診察医は、顎に手を当てて藤崎に尋ねた。
「まさか、彼女に会う口実のために怪我を……」
「そんなわけないじゃないですか」
「なら、あまり無理はしないように。彼女を悲しませるなよ」
藤崎はわかってますと答えた。その後診察医はふと思い出したかのように藤崎に告げる。
「そういえば、あの子は今日退院するとか聞いた気がしたが」
「えっじゃあもういないんですか?」
「いや、うちの退院時間は十時から十二時までだからなぁ……まだ部屋にいるとは思うが」
「そうなんですね……良かった。ありがとうございます」
藤崎は診察医に礼を述べた後、退出した。
先に自分の診察費を払ってから東雲の部屋を尋ねた。受付職員に前と同じ部屋だと答えられた藤崎は、職員に礼を伝え、階段を上がる。
ノックを三回して、藤崎は声をかける。
「藤崎です。見舞いに来ました」
「龍二くん?どうぞ」
東雲から許可を貰い、藤崎は扉を開ける。
部屋に入ると、初めて会った時と同じ服装をした東雲が佇んでいた
「良かった。ちゃんと来てくれたんだね」
東雲は笑顔でそう言う。
「退院するんだって」
藤崎が彼女に尋ねると、東雲は嬉しそうにうなずいた。
「ごめん、今日会いに来てくれるって聞いてたから、その時に伝えようかなって……」
「はは、いいんだよ。ただ、持ってきた見舞い品どうしようかなって……」
藤崎はビニール袋を東雲に差し出す。
「見舞い品持ってきてくれたの?ありがとう!」
東雲は明るい声でそう返した。
嬉々とした表情で東雲はビニール袋から梨を取り出す。それを見た東雲の動作が一瞬停止した。
「……りんご、じゃない?色が違う……」
「梨だよ」
「なし……これがなし……りんごじゃなし……」
梨もご存じなかったかと、藤崎は心の中で驚いた。
「まぁ、家に帰ったら食べてみなよ。梨も美味しいからさ」
「うん、ありがとうj
東雲は再び藤崎にお礼を言った。
藤崎は笑顔を返しながら、昨日京島が話していた事を思い出してた。
笑みを浮かべる優しいこの少女が、龏信会に狙われている。彼女が何者なのか、藤崎はまだよくわかっていなかった。結局彼女の親とは一度も会った事が無い。どこかの偉い人だと東雲本人は話していたが、それでも龏信会という宗教団体に狙われる理由はなんなのだろうか。
もしかしたら、この子も怪異人種なのかもしれない。龏信会に狙われるほどの怪異人種なのだとしたら──
「どうしたの?」
東雲に話しかけられ、藤崎の思考が止まる。彼女の不安気な表情が、そんな事は考えなくていいと思わせた。
東雲の問いに藤崎はなんでもないよと答え、質問を返した。
「絵は何を描いたんだ?」
藤崎が尋ねると、東雲は少し恥ずかしそうにスケッチブックを取り出して差し出した。
青い髪がボサボサに描かれた、ブゥードゥー人形のようなその絵は、藤崎が以前着ていた色と同じ組み合わせで服を着ていた。
肌色の顔と思わしきエリアに、緑色の楕円が力強く塗りつぶされてるのが怖い。
「その、一番最初に思い浮かんだのが君で……でも、想像だとなかなか描けなくてさ」
東雲は顔を赤くしながら弁明した。言われ、藤崎はその絵が自分だと言うことに気がつく。
本物の人形と同様に効果がありそうな程、禍々しく見えた藤崎は口角が上がるのを必死に抑えた。
「これは……よく、出来てるな……」
「わ、笑ったな!」
東雲の顔が一層赤くなる。
指摘されると耐えられなくなるもので、藤崎は笑ってないと答えようとしたが、暫時すぐに我慢の限界が訪れ、声を出して笑った。
しかし、娯楽を知らない彼女ならば、絵を描くのも初めてだろう。その対象が自分だったということが嬉しく、独特な絵柄である事でさえ愛おしいと感じた。
「描いてくれて嬉しいよ。ありがとう」
藤崎は東雲に告げた。東雲はもっと上手く描けるしと小さく呟いていた。