第六節
テツが、持っていたスフレケーキを藤崎のコーヒーの隣に置く。
「これは……?」
「サービス。コーヒー、苦手みたいだから」
テツがそう答え、藤崎は申し訳なく感じる。
自分が断れず、勢いでコーヒーを頼んでしまったのに。
「そんな……もらえませんよ」
藤崎はテツにそう言ったが、彼女はじっと藤崎を見ていた。
「あーあ、テツがそうなったらもう引かねぇぞ」
いつの間にか、もう一人の声が聞こえてきた。先ほどまでテラスで新聞を読んでいたはずの男性が中に入っていた。
「そいつは意外と頑固でな。一度ふるまうと決めたら曲げねぇぞ?」
その初老の男性はちょっとだけ声色を高くして茶化すように言う。その真偽を窺うためにテツを見ると、テツは笑みを浮かべながら静かに頷いていた。
突然の優しさに戸惑った藤崎だったが、久しぶりのスイーツなので嬉しくなり、藤崎は口を綻ばせながらいただきますと答えた。
どうぞ、と答えたテツの声も先ほどよりちょっと浮かれているように聞こえてきた。
「俺も何か飲むか……テツもいつものにするか?」
「ううん、これ飲むから良い」
今度は初老の男性がコーヒーを淹れるようだ。テツと男性がそんな会話をしていたそうだが、藤崎の耳には一度入ったもののそのまま反対側の耳から出て行ってしまったようだ。
スフレケーキは黄色く焼き上がり、上で金色に輝くバターが半分だけ溶けていた。そのバターの油分のにおいがスフレケーキの香ばしさに乗って藤崎の鼻に入り、彼の胃を刺激していた。
そんな刺激を受けてしまったものだから、藤崎の頭の中は途端に空腹感で支配された。
スフレケーキにフォークを当てると、抵抗される事なくフォークはスフレケーキの中へ入っていった。
そうして出来た一欠片をフォークで優しく刺し、ゆっくりと口の中へ運び込んだ。その瞬間、卵と砂糖の甘味が口の中で優しく広がっていった。
「美味しい?」
テツに尋ねられた藤崎は、何度も頷いた。
そして一口、また一口とケーキを舌に乗せる。
ふと藤崎の視界にテーブルの上に置かれたままのコーヒーがうつった。コーヒーはまだほんの少し残っている。せっかく淹れてもらったものなので、もう少し挑戦してみようかとカップを口に寄せた。
すすすと苦味が口内に広がる。しかし先ほどに比べて口を歪ませるほどでなく、この風味を美味だと感じさせた。
「ちょうど良いバランスになった気がする……」
口内の状況を藤崎は呟いた。
スフレケーキの甘さが、コーヒーの苦味をほどよく受け止めてくれているような気がした。
初めての食べ合わせの大事さを齢十三にして体験した。
これであればブラックコーヒーも飲めるようになるのではないかと、自分の成長の機会を見出した藤崎は、コーヒーを飲み切った。
「飲み切ったね、おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
テツは隣の席からずっと見ていたそうだ。
笑みを見せながら祝われた藤崎は頬を熱くさせながらお礼を言った。
「おぉ、飲み切ったな」
初老の男性が戻ってきてそう言った。
「大したものだ。おかわりいるか?」
手に持っていたコーヒーを藤崎に見せながらそう言う。それは元々、男性に自分用に淹れたコーヒーだった。
スフレケーキはまだ半分ほど残っている。上に乗っていたバターは完全に溶けてしまって、残されたスフレケーキの頭を覆っていた。
「いえ、大丈夫です。すぐに食べ終わりますので」
「そうか。いや、ゆっくり食べていい。話したいこともあるからな」
男性は対面に座っても良いか藤崎に尋ねた。もちろん断る理由もなければ、彼の話したいことも気になっていたので、藤崎は承諾した。
対面に座った男性は、持っていたコーヒーを一口飲む。
満足そうに深く息をはいた後、カップをテーブルに置き藤崎に向き直した。
「まずは自己紹介をしよう。おじさんは源川眞だ。この喫茶店で働いている」
おじさんと自称した初老の男性は自らの名前を明かした。10 Ironという名前でお店を開いているらしい。
名前が個性的な通り、個人経営の喫茶店と源川は話していた。
「個人経営のオーナーっていうのでしょうか。自分の店を持っているって凄いですね……」
「まぁ俺は手伝いだけどな。オーナーはこの子」
感心していると、源川がそう答え親指を伸ばした。
親指の先には、片手を後頭部に当てながらこそばゆい表情を見せているテツがいる。
「……え?」
「オーナーはテツだよ。俺はこの子の手伝い」
「えっ!?」
藤崎は思わず立ち上がり、二度聞き返した。
軽率な考えを持っていたわけではなく、テツがあまりにも若く見えていたもので、その年齢で店を持っている事が衝撃的だった。
「すみません、てっきり高校生に見えたので……」
「お世辞でも嬉しいな」
テツは微笑んでいたが、藤崎は割と本気だった。目を丸くしていたので、演技ではないのだろうと源川は察してくれたようだが、藤崎の表情がかえっておかしかったそうで、くくくと笑っていた。
「この子はちゃんとした成人だ。俺も雇われて店を手伝っている。面白い話がよく飛び交うからな」
「面白い話……?」
「あぁ。喫茶店というのは色々な人が会話をする為に使う場所だからな。身内の苦労話を話す奥さんや学校の噂を話す学生ちゃんまで、なんでもいるさ」
源川は楽しそうに話している。藤崎は見かけによらず噂好きな人間なんだなと思いながら話を聞いていた。