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第三十五話 ハルト君

「で、あるからして……」


 黒板の文字をノートに書き写す手は遅い。

 もっと急がないと先生は文字を消して次に行ってしまうだろう。急ぐ気も先生の話を真剣に聞く気力もオレにはない。


 3年3学期、おおかたのクラスメートは進学やら就職がきまり、残り数日で卒業式、早めの春休みが始まる。


 少子化のおかげで今はどこも倍率が低いらしく、オレも都内への進学がなんとか決まった。

 親はもっとレベルの高いところも受験しろと言っていたが、身の丈に合わないところを受けて後で苦労したくない。


 大学がどんなところかイマイチわからないが、同じ集団の中で落ちこぼれに見られるのは避けておきたいのがオレの本音だ。



「おいハルト! マックよってかねぇ?」


「いや、オレ家に飯あるからよ」


「おごってやるからよ」


「じゃあちょっとだけな」


 放課後、クラスメートの相澤は日に焼けた肌とは対照的な白い歯を光らせて笑った。


「お前就職決まったんだってな、おめでとう」

「おう、ありがとよ」


 相澤は油臭いハンバーガーを口に押し込みながら笑った。


 相澤は特待生で入ってきたが、肝心の野球は3年間一度も甲子園に行くことが出来なかった。特に3年目の落ち込みようはひどく、「俺の責任だ」と、何度も口にしていた。


 相澤のことを勉強もしなくて楽でいいなと思ったこともあったが、コイツはコイツで苦労をしているのだ。


 コイツこのままじゃ自殺でもしちまうんじゃないかと心配して声をかけたのが、ダチになるきっかけだったと思う。


「で、就職しても野球するのか?」

「ったりめーよ。俺から野球をとったら何もねーからよ」


 何もないとは大袈裟な気もするが、オレは別に何も言わない。

「実は就職も野球で決まったようなものでよ、ハルト社会人野球って知ってるか?」


「あー聞いたことはあるが」


 なんでも相澤が言うには就職先の大手証券会社は、社会人野球に力を入れているらしく、元甲子園球児が多数在席しているそうだ。

 練習量も豊富でレベルも高いらしく、プロからスカウトが来る程に真剣にやっているらしい。


「マジかーじゃあやっぱり今のうちにサインもらっとこうかな」

「かっかっかっ! そうしろ、そうしろ」


 オレには夢がない、やりたいことみたいなのもない。

 そこそこの大学を出て、そこそこの会社に就職して、そこそこの給料をもらって、可能ならば結婚して、そこそこの人生を送る。


 多分そんなもんだろ、別に悪くない、悪くはないがちょっとだけ相澤のことを羨ましく思う。


 先のことはわからないし、大学で何か見つかればいいが、今まで見つからなかったものが急に見つかるなんてこと……あるのかな?


 オレ、なんのために生きてんだろ。


 相澤と別れたオレはまっすぐ家に向かう。

 街のネオンも、喧騒も、何もかもが他人事に思えた。

 自分が世界中から仲間外れのような気がした。


 まるで思春期の中坊みたいだ。オレもまだまだ若いな。


 ――クラクション。その後のことは覚えていない。


 ――気がつくと黒い部屋の中にいた。

 寒くて、冷たくて、恐ろしい部屋だ。

 部屋の奥に見える明かりに向かって、走った。


 一瞬でも早く辿り着きたくて全力で走った。

 怖い。こんなにも怖いと思ったのは生まれて初めてだ。

 狭い部屋のはずなのになかなか辿り着かない。

 

 辿り着いた白い空間。そこには女がいた。

 女の周りだけが白い。

 理屈は分からないがオレは理解した。白い空間に女がいるのではなく、女がこの暗い場所を明るく照らし、白く輝かせているのだと。


 美しい人だった。その美しさと白い空間のぬくもりに安堵とは違う何かを感じたが、それを無視した。この場から離れることのほうがもっと恐ろしかったからだ。


「よくきました」

 赤い薔薇のように美しい声。――女は女神だった。


 そこからは早かった。


 見慣れない世界、歓迎の宴、この世界の説明、オレの役割の説明、オレの能力の説明。その他説明。説明。説明。説明。


 質問すると何でも答えてくれた。


「貴方にしか出来ない役目です。貴方こそが世界の希望なのです」


 作り物のような言葉。

 よくできたガラス細工のようにキラキラした言葉だった。


 ハルト様。ハルト殿。勇者よ。勇者様。勇者ハルト。


 『勇者』それがオレの役目。

 今のところ、オレの生きる意味だ。


 

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