第十二話 温泉マナー最悪男③
本当に温泉はいい。日頃の疲れがぼんやりと薄れてき日頃の窮屈な感じから抜け出せる感覚が堪らない。
出来ればこの非日常的空間に一生身を置いておきたいとも感じる。
「おいお前かけすぎだろ!おぼれちまうわ!」
「ほれほれーもっとくらえやー」
一生温泉にいたいという気持ちは数刻前に消え去った。理由は、大学生2人組が周りのことなど一切配慮せずに2人で水遊びを始めたからだろう。
本当に憎らしい事に俺がこの湯船に浸かってみようと思い、入浴をしているとこいつらは同じ場所になぜか移動してきたのだ。それだけで腹立たしいが、今はちょくちょくお湯が飛んでくるという事でさらに堪えがたい状況になっている。
お陰で俺の上半身の胸から顔にかけての部分は、ピチャピチャと勢いがついた水滴が飛んでくる。そのせいで今の俺は全くつろげるはずの温泉でゆっくりすることができず、常に気を散らされている始末だ。
(こんなにマナーが悪い奴がいるのか? 嫌もしかするとこんなものなのだろうか? )
俺は頭の中で温泉という場所での常識を想像する。あいにく一度も温泉に来たことがないということから温泉のマナーというものが分からない。
(これがマナー的に大丈夫なのかはわからない。でもそんなこと関係なく普通に腹が立つな......)
心の中で抑えていた怒りが、じんわりと奥底から湧き上がってくるのを感じる。最近余裕ができて調子に乗っていた俺だが、そろそろ我慢の限界かもしれない。
「ジャンケンポン! まずはお前が鬼なー」
「マジかよー鬼とかまじだるいじゃん」
2人組は水遊びが終わったかと思うと湯船から上がりジャンケンを始めた。
(まさか...... 鬼ごっこをするんじゃないだろうな......」
そしてその俺の悪い予感が的中する。いきなり片側が走り出したかと思うともう1人の方も全力でそれを追いかけ始めた。
(まじで鬼ごっこ始めやがった......」
俺は目の前で起きている現象が理解できず今自分が視認している状況の処理が全く追いついていない。脳がフリーズし、ただただ呆然と走り回る大学生2人組を見てしまった。
「おい待てや隆也ー おまえ足早すぎやろー」
「高木が遅いだけやわーもっと全力で追いかけてこいよー」
2人はきゃっきゃきゃっきゃと楽しそうに騒ぎ立てながら、走り回る。どうやら振り回されている方が高木といい、振り回している方が隆也という名前らしい。
高木は、言われてみればいかにも他人に振り回されそうな気弱な顔つきをしており、体も痩せ型のごぼうのような体型をしている。髪型は目にかかるくらいの黒の長髪で陰鬱な空気を纏っている。
視点に関しては一箇所に留まらず早い間隔で眼球の見ている方角が変わっているので、多分彼は彼なりにこれが悪い事で恥ずかしい事であると分かっているのだろう。
一方隆也と呼ばれていた方は、高木の逆と表現してしまっても良いほど似ているところのない人間だった。長身で筋肉質であり分厚い胸板からは彼がそれなりに鍛えていることが窺える。
髪型は金の短髪であり、自信を感じさせる目つきをしていた。おそらく今自分がしていることも楽しいから良いだろうと考えているに違いない。
はっきりいってなぜこんなにも正反対の2人が一緒に温泉で鬼ごっこをしているか分からない。
ただ隆也と呼ばれていた方がこの2人組のリーダー的存在であることは隆也の挙動を見ていれば明白であり、高木はそのリーダーのノリに付き合っているのだろう。
(高木と呼ばれていた方は一緒にこんなことをして楽しいのだろうか)
俺は高木の心情について勝手に推察する。顔色からはやっぱりなんの覇気も感じない。ただ身振り手振りは、大きく声もどでかい。しかしそこが顔から滲み出る自信のなさを感じる印象と一致しない。
(そうか、あいつは隆也と一緒にいることで気が大きくなっているんだな)
高木は、隆也という明るく活発で自分にはない一面を持った人間といることで身の丈に合っていない自信を感じているのだろう。
「まてよ隆也ーお前マジで運動神経良すぎだって」
そうやって悪態をつく高木の顔からは、どこか嬉しそうな感情が読み取れる。自分が隆也という明るくて活発な人間と一緒にいるという事に優越感を感じ、悦に浸っているのだろう。
「あのー周りのお客さんの迷惑になるので辞めてもらって良いですか? 」
俺は、虎の威を借りる狐である高木に声をかける。以前の俺ならこんなふうに話したこともない人間に話しかけるのは無理だったろうが、いざという時は殺せば良いという自信から可能となった。
「うるせえよ。お前には関係ないだろ」
そう冷たく言って高木は、隆也のことを再度追いかけようとする。
「でも他のお客さんの迷惑になってるので辞めた方がいいと思いますよ」
俺は食い下がり説得を続ける。それは、せっかくの温泉で怒りに任せて誰かを殺したくないという気持ちの現れだろう。
「黙れやボケが! さっきからしつこいなーマジでやっちゃうよ? 」
いかにも他人を脅したことがない事が見て分かる凄みかたをされ俺は少し笑ってしまいそうになる。これがいわゆる大学デビューなのか。
「何笑ってんだよテメエ! 」
そう言ったかと思うと、高木は俺の方を正面から押しこかしてきた。
「こけるとかダッセー。弱いなら話しかけてくんな」
高木は嬉しそうにこけた俺を上から見下ろしてくる。おそらく自分の暴力によって相手が怯んでいるのが見てわかり優越感を感じたことから喜びが顔に出ているのだろう。俺が立ち上がろうとした時にはもう高木はおらず隆也を追いかけていた。
(なるほど、暴力まで使うのか......)
こうして俺は比較的説得しやすいと思った高木への認識を変えた。
自分の実現したい欲望のための踏み台として。




