不織布の理不尽
マスクを徹底して着けている私のような人間は、基本的に顔の肌が荒野だ。面皰や湿疹が毎日口の周りでキャンプをしている。それに対し、不徹底な人間はそうならない。何故それがわかるかと云うと、そのような人間は高確率で素顔を晒していることが多いためである。
しかし、常にマスクを付けている者は必ずしも感染しないと云う訳では無い。逆に、そうでない者が感染せずに生涯を終える可能性だって有り得るのだ。別に彼ら彼女らを悪く言いたい訳では無いし、マスクを無駄だと言うつもりも無い。ただ、この秩序やら順序やら公平性やらが皆無なシステム…ウィキペディアで検索すればきっと"理不尽"と出て来るであろうそのシステムに対して、やり切れない気持ちを隠し切れないのであった。
自宅のドアを開けると、真っ先にマスクをビニールの中に捨て、アルコール消毒液を掌に零れ落ちるほど垂らし、全身に消毒スプレーをかけ、そして新たなマスクを耳に掛けつつ、少し早足で洗面台へ向かう。
「お姉ちゃん、お帰り。」
正直ガサツな私にはうんざりなプロセスだが、この声を聞く為となるとやらざるを得ない。そう思えるのであった。
「ただいま、みさと。」
みさとは生まれつき身体が弱い。学校は一週間丸々休んでしまうことだってよくあるし、ただの風邪で一ヶ月も入院してしまうことだってあった。そんなただでさえいつ病院戻りになってしまうかわからない妹に、私経由で変な流行病を移す訳にはいかない。私の行動原理は、それに尽きる。そんな愛する妹にも…いや、愛する妹だからこそ、不織布越しでしか接することはできない。以前のように抱き締めることも…多分あと半年は出来ない。"歳の近い姉妹なのに、妹の方だけ弱くて可哀想""いつも面倒を見て、偉いけど自分の時間はあるのかしら""両親は何をやっているんだ""きっと仕事馬鹿なのだろう"親戚…DNAの似通った他人がそんなことを言うのを何度聞いただろう。嫌々やっている訳じゃないのに、私は妹をこんなにも誇りに思っているのに。心に一方的な不織布を着けた大人たちは、私達に揶揄するみたいな同情の眼差しを向ける。理不尽と云うのは、そう言った悪気を持つことすら拒絶する無責任な人間の眼球にあるのであった。彼ら彼女らほど、マスクの似合う人間は居ない。
「今日はみさとの好きなシチューにするね。」
「ありがとうお姉ちゃん。…いつも、ごめんね。」
マスクが似合うのは、私も、私の愛する妹も、例外ではない。