エピローグ 旅立ちと出会い
職員室の扉をくぐるのはいつどんな時も緊張する。
別に何か悪さをしたわけではないが。
というか、そもそも呼び出しだけが唯一の職員室へのアクセス方法じゃない。
授業の質問に行ってもいいし、提出物を持って行ってもいい。
なのに、呼び出しがまず頭に浮かぶのは……幼馴染の顔が浮かぶ。
少し苦笑しながらも、俺は扉を開けた。
待ち受ける教師たちの顔ぶれの中に、目的の人物を探し求める。
直ぐに見つかった。彼は自席でのんびりとしていた。
つかつかとそのまま近づいていく。
「ご無沙汰してます。藤岡先生」
「おー、今度は尾張か。
仲良し四人組なんだから、一緒に来ればよかったのに」
「なんですか、それ。
センス無いネーミングですね」
「卒業後も絶賛煽られるんだな、僕は……
まあいいや。なんだ、連絡とってないのかい、あいつらと」
「いえ。でも今日はまあ……
もしかして、俺が最後ですか?」
その問いに元担任はこくりと頷いた。
ちょっとのんびりしすぎたか。
約束の時間にはまだ余裕はあるけれど。
三月だからといって、まだ寒さは尾を引いていた。
そのせいで、どうにも外に出るのが億劫で仕方がない。
「とにかく、合格おめでとう。
四月から新しい環境でも頑張れよ」
「ありがとうございます。
先生のおかげです」
俺は浅く頭を下げた。
藤岡もまた、それを適当に受け入れる。
こんなものは所詮社交辞令というか。
ただ形だけのものに過ぎないというか。
でも感謝しているのは、本当だ。
さすがに三年間付き合いがあったのだから。
「でも、尾張が商学部、ねぇ……
いきなり進路調査票を出してきた時には本当に驚いたさ」
「あの節はどうも、すみません。
締切も遅れちゃったし……」
「いいよ、そんなこと。
こうして、志望大学にも受かったわけだしさ。
……やっぱりトネリコさんの影響か?」
藤岡の表情が少し曇った。
躊躇いがちにその名を口にする。
あれからどれくらい経つだろうか。
半年はゆうに越え、でも一年というとちょっと言い過ぎ。
ほんの一月にも満たない短い時間だけれど、思い出はまざまざと脳内に焼き付いている。
でも、現実的な痕跡は全く残っていない。
あんなことなど、なかったように平穏な日常はすぐに帰ってきた。
魔法の絨毯騒動は、すぐに別の噂話に上書きされて。
魔物たちもあれから姿を表さない。
……人々の記憶には残っているが、その正体が明らかになることは永遠にないだろう。
トネリコが帰った後、その日の内に俺は進路調査票を書き上げたのだった。
おっさんの影響もあって、商売について深く学んでみたいと思った。
その点でいえば、あの出会いは俺の人生を大きく左右したことになるだろう。
しかし――
「まあそれもありますけど。
でも、時々思うんです。
これでよかったなのかなって。
商売について学びたいっていうのは、一過性のことにすぎないんじゃないかって、自分でも思うんです」
「そうか……でも、やってみたいと思った気持ちに嘘はないんだろう?」
俺は先生に向かって小さく頷いた。
「だったら、それでいいのさ。
今やりたいことはそれだというのは、真実なんだよ。
それがこの先変わったとしても、その想いが間違いになることはないさ」
その表情は真剣そのものだった。
普段飄々としているから、よりその言葉は真摯に感じられた。
「だいたい自分のやりたいことを誰もが見つけられるわけじゃないし。
ましてや、それをずっと続けてるやつなんて、もっと少ない」
「先生もそうなんですか?」
「さあ、どうだろうな?」
彼は誤魔化すように笑った。
そして、おどけた風に肩を竦める。
「まっ、人生は長いってことさ。
今からそんな思い詰めてると、しんどいよ」
その言葉に俺は唇を緩めた。
なるほど、この人らしい結論だ。
「それじゃあ、僕はそろそろ。
お世話になりました」
「ああ、元気で頑張れな」
短く言葉を交わして、俺は職員室を後にする。
なんとなく、胸の中の淀みが晴れたような気がした。
豊臣雑貨店のシャッターはしっかりと開いている。
それは店が営業中だということを示していた。
俺は迷わずその中に足を踏み入れる。
ちょうどお客さんはいなかった。
それがいつものことなのか。
それともたまたまのことなのか。
判断はつかなかったけれど。
「あら、ようやく来たのね?」
「ずいぶんな言い方だな。
待ち合わせの時間よりは早いと思うけど」
「そうね。でも、みんなもう――」
「来てるんだろ?」
図星だったようで、彼女は目を白黒させた。
だが、すぐにその顔を元に戻すと、カウンターから出てきた。
膝丈ぐらいまである深緑のエプロンを身に付けている。
珍しく髪を一つに結っていた。
そのまま俺の横を通りすぎて、店の外へ出る。
なにやら作業をしているのが、ガラス越しに見えた。
目が合うのが嫌で、すぐに顔を背けた。
なにげはなしに、棚に並ぶ商品を眺める。
「なにぼけーっとしてんのよ?
中入ればいいのに」
「店はいいのか?」
「せっかくみんな来てんだから、いいの。
それともあんただけ、店番してる?」
「いえ、結構でございます」
即座に首を振って、俺は休憩室の方に向かっていった。
後ろからちょこちょこと幼馴染みもついてくる。
今日は、四人がしばらくぶりに集まれる日だった。
冬休みになる頃には、学校の通常授業が休みになった。
講習はあったが、みんな同じ内容を受けているわけでなく。
さらに、慎吾に至っては何一つ受けていなかったらしいし。
受ける大学が一人だけ違ったから仕方ないかもしれないけれど。
その割には合格発表は同じだったから、この日を選んだわけだが。
がらりと扉を開けると、二人はのんびりと座っていた。
久しぶりに二人の姿を見た気がする。
……いや、卒業式以来か。
どちらにせよ、久しぶりという感覚は間違いではないが。
「おっ、来たねぇ」
「こんにちは、晴信くん」
「ああ、こんにちは。
そうだ、合格おめでとう」
予めそのことについては聞いていた。
「それはそっちもだろ。
でもよかったよ、みんな合格して」
「辰見君だけ地元を離れちゃうのは残念だけどね」
「こっちに残ってよかったんだけどね。
やっぱり挑戦してみたくなってさ」
「ま、それで受かってるからいいよな。
これで落ちてたら、話にならない」
俺は友人の方を見ながら、ちょっと揶揄う様に笑った。
「手厳しいね、大将は」
「晴信君、そう言う言い方はどうかなって」
「冗談だよ、冗談。
そんな怖い顔しないでくれよ、琴乃」
「あらら、二人とも名前で呼び合っちゃって、いい雰囲気じゃあないの?」
「慎吾、今度余計なことを言ったら、その口を縫い合わせるぞ?」
彼は大人しく口笛を吹くだけで、それ以上何も言わなかった。
別に何があったというわけでもないけど。
そもそもは、向こうが名前で呼んでいたから、俺もそれに合わせただけだった。
……未だに照れくさいのは内緒の話だけれど。
「それにしてもここに来るのは久しぶりだなぁ」
「うん。私もそう。二人は?」
「あたしはだってほら。
またおばあちゃんがお店始めるようになって、何度か手伝いに来るから」
「俺まで引き摺って連れてきてな」
「あんたが暇そうにしてるから、付き合わせてあげてるのよ!」
「へいへい。それはありがとうございました」
おっさんは意外と、豊臣雑貨店の仕事をちゃんと果たしていたらしい。
また店を休んでいたら、寧音のところに連絡が行ったとか。
それで、彼女の祖母がやる気を出したということらしい。
今では身体も無事でぴんぴんしている。
春休みの現在、寧音は毎日のように顔を出している。
いずれ店を継ぐ準備だと言って。
俺も用事がなければ手伝った。
社会勉強の一環、いや、おっさんの真似がしたかった。
「後はトネリコさんがいれば完璧なんだけどねぇ……」
しみじみと慎吾が声に出す。
それはこの場の雰囲気を暗くするには十分すぎた。
「仕方ないよ。もう来られないって言ってたし」
「あーあ、今なら一緒に世界進出だってするのになぁ……」
「まずは日本一の雑貨店を目指そうな」
俺はことりとテーブルの上にある置いた。
それは最後に彼からもらった不思議なアイテムの残り香だ。
なんとなく肌身離さず持っていた。
そうしていないと、どこかに消え去ってしまう。
そんな風に感じてた。
同じ様なものをみんなも持っていた。
次々にテーブルに置いていく。
四つの小瓶が不揃いに並んだ。
「もっと別なのをもらっておけばよかったなぁ。
魔法の絨毯、いやペガサスの羽根でもよかった」
「どんだけ空飛びたいんだよ、お前」
「恋愛成就系の何かが欲しかったな……私は」
「むっ、いくら琴乃ちゃんでも聞き捨てならないわね」
俺たちはつい笑い出した。
あいつのいた証拠はここにある。
俺たち四人だけは忘れない。
トネリコが、ちょっとおかしな異世界の商人がここにいたことを。
どんどんどん。
その時、表から扉をたたく音が聞こえてきた。
「おかしいわね、看板提げておいたんだけど」
「急ぎの用じゃないのか? さっさと行って来いよ」
「うん」
すると、寧音は急いで立ち上がり足早に部屋を出て行った。
「引っ越しはいつなんだ?」
「下旬かな。詳しい日は忘れた」
「うーん、じゃあ盛大に見送らなきゃだね」
「いいって、いいって。照れくさいし」
「じゃあ止めるか」
「そうだね、止めよう」
「おいおい、二人とも、そりゃ――」
「みんな、早くこっちに来て!」
今度は寧音が叫ぶ声が聞こえてきた。
一体何だろう、少し顔を見合わせながらも、揃って部屋を出る。
短い廊下を抜けて店舗部分に出た。
すぐさま、入口の様子が目に入ってくる。
そこにいたのは――
「すみません、忘れ物しちゃって」
おかしな格好をした太っちょの男は恥ずかしそうに笑った。
相変わらずぼさぼさの口髭を蓄えて、人の良さそうな顔をしている。
目の前の光景が信じられなかった。
でも、すぐに勝手に口が動く。
「いらっしゃいませ、豊臣雑貨店へ。
一体何をお探しですか?」
それはずっとあの男に伝えたい言葉でもあった――
これにて完結です。
本当にありがとうございました!




