第七十五話 別れの前の
「お父様、お母様。本当にお世話になりました」
深々とおっさんは頭を下げた。
その眼前に立つ俺の両親は謎に目を潤ませている。
ここは我が家の玄関前。
まるでおっさんの旅立ちを祝うかの如く、空は青く澄み渡っている。
雲一つない快晴、吹き抜ける風は弱くて気持ちがいい。
まったくわざわざ一緒に出てくることはないと思うのだが。
トネリコは俺が学校に行くのと同時に家を出ると言い出した。
先に豊臣雑貨店で待機していると。
俺は少し呆れながら、その光景を見守っていた。
……ちょっと離れたところでな。
時折通りがかる、近所の人の視線が少し痛い。
寧音は珍しく今朝は迎えに来なかった。
別に今までだって来ない日もあったのだが、そういう時は連絡がある。
さらに言うと、あいつが寝坊するのも見たことない。
朝には無類の強さを誇るんだよなぁ……
ということで、遅刻という可能性もほぼほぼ消える。
昨日も結局、別れるまで口を利かなかった。
よほど俺の無謀な行動が腹に据えかねたらしい。
自分に非があるのはわかるが、やはり無視されると正直辛いわけで。
「いやぁ寂しくなるねぇ……」
「向こうに戻っても元気でね、トネリコさん」
「お二人こそ、お身体ご自愛ください」
またおっさんが深々と腰を折る。
それを見て、狼狽しながら両親もオウム返し。
……正直に言って似た様なやり取りを昨日見てるから、あまり感動するところはなかった。
二人にはトネリコの真実は結局伝えなかった。
ただ、急に国に帰ることが決まったとだけ告げた。
父はともかく、母を納得させるのには骨が折れたが。
今、目の前ではトネリコは親父と抱き合っている。
それを終えると、今度は母さんと握手を交わす。
挨拶が終わったのだろう、おっさんはゆっくりとこちらにやってきた。
「もういいのか?」
「はい。行きましょうか」
短く言葉を交わして歩き出す。
こうして共にこの道を歩くのも今日で最後なのだ。
通学路はいつもと変わらないように見えた。
それなのに、目に映る全てがどこか寂しげに見えるのはなぜだろう。
歩けば歩く程に、心が重くなっていく。
やがて、フジミベーカリーが見えてきた。
今朝も多くの客で賑わっている。
「ううん、いい香りですなぁ」
おっさんはわかりやすく鼻を動かす。
確かに辺りには、焼き立てのパンの匂いが漂っていた。
ほんの少し前までは、閑散としていたものの。
おっさんの働きによって、すっかり地域の人に指示されるようになった。
開店当初から知っている身としてはこんなに嬉しいことはない。
「いえいえ。私は大したことはしてません。
好きでやったことですから、感謝されるようなことではないですよ」
改めて、礼を告げるとそんな風に彼は言った。
俺からしてみれば、その好きでやったということだけで充分大したことだと思うが。
そのまま店の前を通り過ぎる。
あと少し行けば、商店街と学校の分かれ道。
やや億劫そうになっていると――
「トネリコさん、晴信君!」
後ろから声がした。
振り返ると、エプロン姿の里奈さんが駆け寄ってきた。
手には無地のビニール袋を二つ提げている。
仕事を抜けてきたらしく、少し慌てた様子だ。
「こっちはトネリコさんに。
そして、こっちは晴信君と寧音ちゃんって思ったんだけど……
今日は一緒じゃないのね?」
言いながら、彼女は袋を差し出してきた。
「ええまあ……てか受け取れませんよ」
ちらりと中身が見えたが、いくつかパンが入っている。
「ちゃんとお金払います――」
ポケットを探って財布を取り出そうとする。
しかしーー
「いいの、いいの。気持ちだから。
ほら、トネリコさんも遠慮せずに!」
こうぐいぐいっとおしつけられると、もはや断ることはできなかった。
仕方なく受けとる。
ずっしりと感じる重量感。
俺と寧音の分にしても多すぎる気がする。
「あのいつもいる女の子の分と、この間の男の子の分もあるからみんなで分けてね。
ーートネリコさん、向こうの世界でも頑張ってくださいね!」
彼女は小さく拳をぐっと握ると、駆け出していった。
「よかったな、トネリコ」
「ええ、大事に食べます!」
言いながらも奴は――
「すでに食べてんじゃねーよ!」
ポロポロとパンくずを地面に溢していた。
放課後。もう今日は散々だった。
自分が何を学んだか、何一つ頭に残っていない。
半分流れ作業のように、帰り支度を済ませて、学校を飛び出た。
俺が登校すると寧音はすでに教室にいた。
相変わらず知らん顔されたけど。
だが今はこうして、一緒に店に向かっていた。
まあ、四人並ぶうちの正反対の位置にいるけど。
「なあ、いい加減機嫌直せよ」
商店街を目指す道のりで、耐えかねて俺は寧音に話しかけた。
しかし答えはない。仕方ないので、首だけそっちを見る。
すると、挟まれている二人もそっちを見た。
「寧音ちゃん。あの、尾張くんが……」
「別に。機嫌悪くなんてないもの」
「やっと喋ったか。
二十四時間ぶりくらいだな」
「ちゃんと反省してるの?」
「何がだよ?」
本気でわからなくて聞き返した。
すると、寧音はちょっと怒ったような顔をした。
ぐっと眉を顰めて、しかめっ面を作る。
「あんな無謀なことして。
死んじゃったらどうするつもりなの!」
「死ぬって……そんな大げさな」
「大げさじゃないよ!
相手は魔物なんだよ!
普通の動物とは違う」
そう言われると、俺は答えに窮した。
あの時はそんなこと考えもしなかった。
目の前に、あのバケモノ鳥が迫ってきている時でさえそうだ。
頭の中にあったのはあの子どものことだけ。
あの時の怪物の姿を見て、改めて震えた。
確かに、あの鋭い嘴は俺を容易く貫けただろう。
死は間近まで迫っていたのだ。
「でも晴信は目の前の困ってる人は放っておけない性質だから。
だから、あんな怪しいおじさんを拾っちゃって」
「しょっちゅう誰かにノート貸したり、委員会の仕事代わったりしてるよね。
いつも頑張ってるなぁ、って思うもん」
一緒にいた二人がすかさず味方をしてくれた。
どこか寧音を宥めるように。
「それはわかってるけど、あの時はちょっと怖かったの。
こいつはこんな簡単に命を投げ出しちゃうんだなって。
相手関係なく、ただ困ってたら手を差し伸べるんだって」
いつの間にか、俺たちは足を止めていた。
初めに歩みを止めたのは、寧音だった。
今はばっちりと俺のことをその瞳に捉えている。
身体もしっかりとこちらに向けて。
俺に詰め寄る幼馴染の表情は激しかった。
一番強く伝わってくるのは怒り、しかしそこに失望とさらには哀しみが混じっていて。
その一番底の部分にあるのは、悲壮感というか……
とにかく、そんな顔、これまでの付き合いで初めて見た。
返す言葉は見つからなかった。
ただ俺はじっと、その複雑な眼差しを受け止める。
沈黙は気まずくて、突き刺さるように痛くて、ここから逃げ出したいくらいだった。
「……店を手伝ってくれるのもそれが理由でしょ?」
ついに出た言葉に、俺は思わず首を傾げた。
「あたしが困ってなかったら、手伝ってくれなかったよね?
あるいは、おじさんが関わっていなかったら。
ずっと考えてた。それで答えが出たのが昨日だった」
そう言うと、寧音は再び歩き出した。
どこか諦めた様な顔を最後に残して。
つられて俺たちも歩みを進める。
商店街はもうすぐで。それはおっさんとの別れが近づいていることを意味して。
でも、俺の頭を占めるのはそんなことではなかった。
寧音の指摘は……当たっているのだろうか。
俺はなんで、こいつらの悪巧みを手伝うことにしたのか。
自分のことなのにすぐに答えが出なくて、そのままよく考える。
心に次々と疑問を浴びせていく。どうして、なぜ、なんで――
「いや、それはないな。
俺は、ずっと楽しい何かを探してた。
今の自分の日々をがらっと変えてくれるような何かを。
それがこれだと思った。ただそれだけさ。
そしてそれは間違いじゃなかった」
俺はただ思いつくままに喋った。
気が付けば、周りの風景はすっかりアーケード街の姿になっていた。
「――それはさ、あたしとじゃなくてもよかったってことだよね?」
「違うよ。誰でも、いや、このみんなとだからなおさらよかった」
「私は途中からだけどね……」
「そうだけど、安斉も一緒で楽しかったさ。
そしてそれは変わらない。
おっさんがいなくなっても、俺たちの関係が変わるわけじゃないだろ」
足を止めた。豊臣雑貨店の前についてた。
「そっか、そうだよね。
晴信、ごめんね。昨日からずっと」
「いいよ、そんなこと。
それより、ちゃんとトネリコのやつを笑顔で見送ってやろうぜ」
俺は店の扉を開けようとした。
しかし――
「開かないね。あれ、でももう来てるんだろ?」
「そのはずなんだが」
「ちょっと待ってね」
寧音と入れ替わる。彼女が鞄から出して鍵を開けた。
中に入ると、おっさんの姿はどこにもなかった――




