第七十四話 挨拶
俺たちは閉店してまもないフジミベーカリーへと寄ることにした。
トネリコが、ぜひ夫妻に挨拶をしたいと申し出たからだ。
確かにあの二人……里奈さんにはかなり迷惑をかけたわけで。
進さん? まああの人は別に――というのは、冗談だが。
「ごめんなさい。今日の営業は――
あら、みなさん。こんばんは」
奥からパタパタと里奈さんが現れた。
そのままちょこんと頭を下げる。
エプロンもバンダナも着けたまま。
絶賛閉店作業中の真っ最中だったのかもしれない。
なんだか、悪いことをした気分になる。
「売れ残りでよかったら、少し包んであげますよ?」
「いや、そういうのじゃないですから。
トネリコ、ほら」
俺はおっさんを前につきだした。
トネリコは肩を縮こませている。
なにか言いにくそうなように、口をもごもごとさせているだけだった。
全く埒が開かないぞ。
「トネリコさん、明日、帰るんだって」
痺れを切らしたのか、寧音が代わりに口火を切った。
「帰るって……元の世界に?」
彼女の問いに、俺たちは揃って頷いた。
里奈さんは、ちょっとだけ目を丸くした。
しかしすぐに満面の笑みが顔に広がる。
「よかったじゃないですか!
でも、明日だなんて、いやに急ですね……」
「色々と事情がございまして。
ホント、お世話になりました」
おっさんは深々と頭を下げた。
俺たちも合わせてお辞儀をする。
とたんに、里奈さんは慌てた様子を見せた。
目を見開いて、何度も何度も首を左右に振る。
「そんな、私の方こそ……
こうして、フジミベーカリーが賑わうようになったのは、トネリコさんのおかげだし」
そのままちょっと赤い顔で、彼女は謙遜の言葉を述べた。
「なんだ、なんだ。ずいぶんと騒がしいじゃねえか」
気怠そうな感じでようやくこの店の主人が姿を見せた。
めんどくさそうに頭をかいている。
俺たちの姿をみとめても、それを崩すことはなかった。
「進さん、トネリコさん、明日帰ってしまうんですって!」
「おっさんが、帰るぅ? どこにだよ」
「元いた世界に決まってるでしょ。
寝起きなのはわかりますけど、もうちょっとしゃきっとしてください!」
「俺はいつだってしゃきっとしてるさ」
「何言ってるんです! そこ寝ぐせ、ついてますよ」
「え、どこどこ?」
夫婦のじゃれ合いが始まってしまった。
俺はいたたまれない気持ちになる。
というか、今起きたってなんだよ。
何時だと思ってるんだ、この人?
よくもまあ、奥さんの方もそれくらいの反応で済むもんだ。
昼寝だと信じたい。
しかし、この時間までずっと寝てた可能性も捨てきれないのがなんとやら。
俺はただただ疑うような眼差しを進さんに送ることに。
「あの~、進殿。大変お世話になりました」
そこに容赦なく割って入るトネリコ。
俺たちにできないことをってやつだな。
「おうっ、いいってことよ。
世の中、やっぱり助け合いだからな!」
「なに調子に乗ってますか、この人は……
ごめんなさいね、一応照れ隠しなんですよ」
「馬鹿、里奈、滅多なこと言うなよ」
「わかってますとも、進殿」
「おっさんまで……」
さしもの進さんも少したじたじになっていた。
「やっぱり藤見さん夫婦は素敵ですねぇ。
ねっ、尾張くん?」
「それはやや同意するが。
ともかくもどうして俺に聞くのでしょう、安斉さん?」
「ふふっ、どうしてだろーね?」
「――てえっ!」
いきなり背中をつねられた。
慌てて振り返ると、むすっとした表情の幼馴染がそこにはいた。
目が合うと、すぐに逸らす。
そのまま何も言わずただ、時折ちらちらと謎の視線を送ってくるだけ。
「しかし、おっさんがいなくなると、人手不足の時困るなぁ」
「進さん、何の心配をしているのかしら?」
「いや、冗談だってば。
……だが、寂しくなるな。
でも、また来られるんだろ?」
「いや、それは――」
核心を抉るその言葉に、おっさんは言葉に詰まった。
さっきまでのどこか和やかな雰囲気が一転。
俺たちはたちまちに押し黙る。
自分の顔がどんどん曇っていくのがわかる。
それで夫妻も察したらしい。
心痛に顔を歪める里奈さんたち。
「もしかして、もう戻ってこれないんです?」
「……はい、残念ながら」
「そうか、もう会えないのか。
色々本当に世話になったな」
進さんはすっとトネリコに向かって腕を差し出した。
がしっ漢たちが固い握手を交わす。
「向こうに戻っても元気でな」
「進殿こそ、奥さんと仲良く」
短く言葉を好交換して、その手が離れる。
「トネリコさん、本当にありがとうございました。
これからも、この人と一緒に店を盛り立てて行きます」
「ええ、お二人なら、大丈夫でしょう。
わたしが太鼓判を押しますよ!」
おっさんは腹を突き出すとポンと叩いて見せた。
そのコミカルさに、つい俺も口元が緩む。
店の中には、暖かな雰囲気が戻ってきていた。
だが、こんな時間も今日で終わりなのだ。
だからこそ、俺はこの瞬間を永遠に忘れたくないと思ったのだった。
最後の夕食が終わり、俺はおっさんと自室にいた。
親父たちにはまだ別れを告げていない。
この後、折りを見て話そうと考えていた。
今は、トネリコと二人で話がしたかった。
おそらく落ち着いて話せるのは今しかない。
いろいろと話したいことで一杯だった。
「晴信ぼっちゃんには大変お世話になりました」
「そうだな。大変なことだらけだったよ。
でも今にして思うと、どれも楽しい日々だった」
ろくな思い出がないけれど、しかしそのどれもがかけがえのない大切なものだった。
「お前まだ帰りたくないのか?」
「ええ。
私はこの世界でまだ何も成し遂げられていませんから」
「向こうの世界ではそれなりに大きな店を経営してたんだっけ?」
「そうです。世界中から大勢の人がやってきてくれました。
ですからこっちの世界でも、と思ったんですけどねぇ……」
おっさんはどこか悔しそうだった。
きっと本気で言ってるんだろう。
「お前、そんなに商売が好きなのかよ」
「私の生きがいですから。
晴信ぼっちゃん、わたしはね、物を売るということは、幸せを売るのと同義だと思ってます」
そう語る顔はとても真剣だった。
幸せを売る、か。なぜだか、その言葉は俺の胸によく響いた。
それが正しいなら、おっさんは多くの人を幸せにしてきたということか。
それをこっちの世界でもやりたかった。
今までのことを思い返しても、納得できるものはあった。
最後の不思議なアイテムとなってしまった、性格を変える本はともかく。
絨毯も目薬も、俺たちを楽しい気分にしてくれた。
……なんとなくいいなと思ってしまった。
その事実が。それでだけでなくて。
「おっさんが羨ましいよ。
そうやってやりたいことがはっきりしてて」
「はい? どういう意味でしょう?」
「そのまんまの意味さ。
俺はもう十八になるっていうのに、自分がどうなりたいか一向に見えてこない」
「ううん、別にいいんじゃないでしょうか?」
「え?」
思わず聞き返してしまったほどに、その答えは予想外だった。
俺はしげしげと、もはや見慣れたおっさんの髭面を見つめる。
一体何を言ってるんだろう、こいつは。
その胸の内は、よくわからなかった。
「この世界には、本当に色々なものがあります。
それは私の世界よりもずっとたくさん。
その中で、ゆっくりと探せばいいんです。
ぼっちゃんは、まだ十八なんですから」
「見つかるかな、俺に……」
「大丈夫です。まだまだ時間はありますから。
それに、別にそんな切羽詰まって探す必要はないと思いますよ」
なおも優しく語ってくれるトネリコ。
しかし、俺は素直にそれを受け入れることができなかった。
それは、それは――
「トネリコがすでにやりたいことがあるから言えるんだよ。
お前には、お前にしかできないことがあるし」
「自分にしかできないことは、必ずしもいいことじゃありませんよ。
現に私は自分しか、魔王を倒せないとわかってもいい気はしないですし」
「どうしてだ?」
「それは自分の道を縛るだけになるからです。
だって、いついかなる時も自分の道は自分で選びたいじゃないですか?」
そう言って、おっさんはどこか照れくさく笑った。
それはある種自分本位と言えるのかもしれないが。
しかし、俺はそうは思わなかった。
一理あると思ってしまった。
必ずしも、やりたいこととやれることは合致しない。
でも、人はそれをいつしか曲げてしまう。
だから、俺も本当にやりたいことが見えないのかもしれない。
「でも俺は自分の力で世界を救えるってのはかっこいいと思うけどな」
「それでお金が稼げればいいんですけどね」
おっさんは茶化すように笑った。
もしかすると、未だにそれが信じられないのかもしれない。
パーティから疎まれていた自分が世界を救えるなんて。
でも整理はできているのだろう。
だから、旅立ちが近づいている今も彼はどこか穏やかに見えた。




