第四話 その男、商人トネリコ
「待て待て待て待て、待ってくれ!
悪いんだけど、一ミリたりとも理解できない」
俺は苦悩に顔を歪ませ、激しく首を振る。
ひどい頭痛がする気分だ。
幾分か帰宅時の母の気持ちがわかった気がした。
人間意味不明な状態に直面すると、自然と顔が強張るらしい。
自分は異世界から来た、なんて頭のおかしい人の戯言にしか思えない。
この男、薬でもやってるんじゃなかろうか?
あるいは新興宗教の勧誘、詐欺師の可能性まである。
最悪を言えば、現実と妄想の区別のつかない類の人間――
なんにせよ、まともな人間ではない可能性が高い。
それこそまさに警察案件じゃないか。
……とんでもないことをしでかしてしまった気がする。
自分の軽はずみな行動がここにきて恐ろしくなってきた。
善人ぶって、行き倒れに手を差し伸べるべきではなかった。
あの時点ではこんなにおかしな奴だと知らなかったは許されない。
この男、どうしてくれようか?
射抜く様な視線で男を睨みつける。
「ぼっちゃんが信じられないのも無理ありません。
ですが、事実なんです!」
穏やかな外見には似つかわない強い物言いだった。
その目力も意外にも鋭く、まさに真実を訴えかけている感じだ。
必死な様子は伝わってくるが……
だが、この状況なら100人中98人が男の言葉を吐く。
ちなみに残った2人は良心に目覚めた人間だ。
……我ながら意味不明なことを想ったものだけど。
とにかく、彼の言うことには何ら信用に値する部分はない。
異世界なんて、あるはずない。
現実にファンタージーの要素は存在しない。
そんなのを信じるのは幼い子供くらいなものだ。
俺だって、昔は物語の世界がこの世のどこかにあるんじゃないかって思っていた。
しかし、大概は成長するにつれてすぐに気が付く。
現実は現実、フィクションはフィクションだと。
自らの経験で、あるいは周りからの刷り込みで、朧げにだが自分の存在する世界の像を掴んでいく。
だが、男は違った。
心の底から、異世界から来たと言っている様に見えた。
だから、この男を憐れに思った。
その幼稚さが、愚かさが、純真さが。
でも――
あり得ないと思いつつも、男の語る世界の話を聞きたいと思ってしまった。
渇いた自分の現実に、一滴でも波紋が広がることを期待してしまった。
何か日常を変える契機に思えたのだ。
「はあ、とりあえずあんたの話を聞かせてくれよ」
男と真面目に接しようという気持ちはなくなった。
だから投げやりな口調で先を促した。
どうせ晩ご飯までやることもないので、暇潰しと割り切ることにした。
ただぼんやりと話を聞くだけなら、特に害もないだろう。
「おお、ぼっちゃん! 信じて頂けるのですね!
あなたきっと大物になりますぞ!」
調子のいいやつだな、揉み手までしてやがる。
そしてさっきからずっと気になっていることがあった。
「……ぼっちゃんは止めてくれ。
俺には尾張晴信ってちゃんとした名前がある」
「おわりはるのぶ、なんだか不思議な響きですが力強さを感じますなぁ」
しみじみと男は頷きを繰り返した。
「では、晴信ぼっちゃんと。あ、申し遅れましたが、私はトネリコ、と申します」
男、もといトネリコは満面の笑みで言い切った。
結局、坊ちゃんは消えてないじゃないか。
だが、何を言っても無駄な雰囲気を感じて、抗議の声は胸の中にしまった。
まったくとんでもないおっさんだ。
「さて、どこから話したものですか」
おっさんは眉を顰め腕を組み、少し考える仕草を見せた。
「……わたしはモノウールという村に産まれました。
どこにでもある平凡な村です。そこでわたしは――」
「ちょっと待て。なんであんたの誕生から話が始まるんだ!」
「ええ、わたしトネリコという男の生きざまを知ってもらいたいと思いまして!」
その目にはめらめらと炎が燈る勢いである。
「はてしなくどうでもいいんだけど……」
「えぇっ、そんなー」
大げさにおどける仕草が腹が立つ。
「とにかくあんたのいた世界はどういう世界だったんだ?」
「……こんなに平和な世界じゃあなかったですよ」
そつない口振りなものの、どこかトネリコの表情は寂しげだ。
そこに彼の今までの苦労なんかが込められているみたいで――
「どういう意味だ?」
黙っていられず言葉が漏れた。
「すみません、当てつけとかではないんですよ」
「ああ、いや、わかってるよ。気になっただけさ」
「わたしのいた世界には魔物がうじゃうじゃいるんです」
今度は魔物ときたか。
本当に物語の世界、それこそゲームみたいな話だな。
「村の中はほぼ安全ですが、一歩でも外に出れば忽ち魔物に襲われる。
わたしたちは魔物に怯えて村で暮らすしかないんです。
屈強な戦士か豪運の持ち主でない限り、生きて目的地にたどり着くのは難しいですからな。
すると、町々の交易は減っていき、村の様子は寂れていきます。
それでも旅人はいましたけれど。でもわたしら一般人には度なんて夢の話――」
おっさんは寂しげに笑った。
トネリコの語る世界は随分と殺伐としている様に思えた。
少なくとも、今の自分の身からすればはっきりとその光景を想像はできない。
まるで歴史の教科書を読んでいる感覚だ。
そんな俺の想いを察してか、おっさんは軽く笑みを浮かべた。
「なあに悪いことばっかりじゃないですよ。
村の人たちは明るいし、旅人からは色々な話を聞けますし。
そして、いつしかわたしは一つの夢を抱きました――」
「夢? なんだろう、冒険家になることとかか?」
「いえ、世界一の商人になることです!」
誇らしげな表情で胸を張るトネリコ。
頭に疑問符が数多く浮かぶ。
なんだろう、この数分で頭が取っても悪くなった気がする。
「気持ちよさげなところ悪いんだけど、理論が飛躍し過ぎてないか?
どうしてそんな結論になるのか、全く分からない」
「ええっ、そうですかね?」
おっさんは眉間に皺をよせた不可解そうな表情を一瞬浮かべた。
こちらを小馬鹿にするある種の優越感がその顔に宿っていた。
そのむかつく顔をやめろ、とは言わなかったけれども。
「いいですか、晴信ぼっちゃん。
閉じられた世界とはある種のチャンスなのです。
ここでわたしが様々な商品を持ち色々な町村城を回れば――」
ぐふふ、と邪悪な笑みが漏れる。
「億万長者、世界一の大富豪、ああ考えただけでも素晴らしい!」
おっさんは恍惚とした表情を浮かべた。
やっぱりやべー奴じゃねえか、こいつ。
先ほどから感じ始めた同情心が一気に冷めた。
むしろそんな感情を抱いてしまったことをひどく後悔した。
「で、結局のところ、おっさんは商人なのか?」
「はい、近所の武器屋で長い下積みを経て――ああ、思い出しただけで腹立たしい。
雑用雑用アンド雑用、たまにカウンターに立てば、ちんけながらくたを売りに来る客ばかりで……何の変哲もない木の棒を売りに来る人もいましたよ!」
「それはなかなか大変でございましたねー」
おっさんの愚痴がヒートアップすると同時に、俺の興味は薄れていく。
だって俺が期待したのは、ファンタージーな冒険物語みたいなあれだ。
それがなんで、おっさんの仕事の愚痴を聞かなくちゃいけない。
酔っぱらった親父の話だけで十分だ。
それでもおっさんは話すのを止めない。こちらの反応など眼中にないのかもしれない。
「まあしかし稀に自分の売ろうとする者の価値がわからない人もいるもので。
なので、それをめちゃくちゃに買い叩いて、法外な値段で売りつけたりもしましたな」
そう、おっさんは楽しそうに述懐する。
……いや、後半それ、なんて犯罪?
いや、よくよく考えてみれば、商売とはそういうものか。
騙される方が悪いってやつなのかもしれない。
このおっさん見かけによらずなかなかしたたかなならしい。
「まあ、でも結局は私は雇われ商人の身。売り上げは親方がかっさらう。
いくら働いたところで、私の賃金は変わらないんですよ~~~!」
かと思うと、今度は悲しそうに訴えかけてきた。
喜怒哀楽の激しい男だ。
情緒不安定と言ってもいいのかもしれない。
なるほど、どの世界にもブラック企業なるものはあるらしい。
こういうのを、確かやりがい搾取とかって言うんだっけ?
世知辛いなぁ……
「じゃあ自分で店、開けばいいじゃん」
「ええ、そうです! わたしもその答えに辿り着きました。
ただそうすると、親方の店との競争に勝てる気が……」
げふん、とおっさんはもっともらしい咳払いをした。
「親方に悪いなと思いまして」
「つまり勝算がないから日和ったと」
「む、違いますな。機が熟すのを待ったのです。
危ない橋を渡る趣向は持ち合わせていないので」
「機が熟すねぇ……」
半信半疑な眼差しでおっさんを見る。とても胡散臭い。
「いいですか、お店を構えるためにまず必要なものがあります。
なんでしょう?」
「金」
「正解! しかし今の生活だとお金はたまらない。
私だいぶ考えました。時には売り上げを偽造しようかとまで」
それこそ本当に犯罪行為なんだよなぁ……
奴の表情から察するにとてもジョークにも思えない。
「も、もちろんそんなことしてませんとも!」
訝しがる俺の視線に気づいたらしく、そんなにかという程トネリコは狼狽える。
「それにそもそもこの村には新しく店を開ける様な場所もないんです」
「うーん、それは確かに困ったな。
ほかの街に行くとしても、外には魔物がいるんだろ?」
とてもじゃないが、おっさんが闘いに精通しているようには思えない。
「はい、一度やけくそに出て行こうと思いましたが、結局踏ん切りはつきませんでした……」
おっさんはしょんぼりと肩を丸めた。
「しかし、悶々と過ごす日々の中、ある夜わたしは不思議な夢を見ました」
『あなたは世界に選ばれし者。今こそ旅に出て己が夢を叶える時です!』
「そんな慈愛に満ちた柔らかな女性の声を聞いたんです!」
嬉々として語るおっさんにややひいた。
なんともまあ宗教染みた話である。
なんだろう、このまま俺、壺とか買わされるのかな。
「そのお告げに背中を押されて、わたしは旅に出ることを決めました」
「待て待て、ただ言葉を聞いただけで、問題は解決してないだろ?」
「いいえ、神の加護がもたらされました。それだけで十分です!」
こいつ、とんだ狂人だな。
あるいは彼の世界の人間はみんなそうかもしれない。
「そして、世界最大の城下町を目指すことにしたのです!」
ようやく商人トネリコの冒険譚が始まるらしい。
ここだけ聞くと、打ち切り漫画のエンディングみたいだけど。
これからのトネリコ先生の作品をご期待ください的なあれだ。
俺としては最早うんざりしきっていたものの、まだ夕食までには時間がある。
それに続きが気にならないわけでもない。
もう少しおっさんの与太話に付き合ってやるか――