第三十話 旧校舎の異常
とりあえず顔をひょこり出して、中を照らしてみた。
入口周辺には、不気味なほどに何もない。
とりあえず、おずおずと中に足を踏み入れることに。
相変わらず、背中には小柄な女子高生がしがみ付いたままである。
「と、扉閉めないでね」
「はいはい」
全くいつまでこんな状態なんだか。
あまりのか弱さに調子が狂う。
入ったばかりの所に立ち尽くして、適当に明かりを振り回してみた。
見た限りでは、この部屋はがらんとしている。
やはり理科室と同様にある程度の物品は撤去されているらしい。
だが、そんな中に一つだけ目を惹くものがあった
空っぽの部屋のど真ん中に鎮座している人体模型。
半身は薄い肌色の皮膚に包まれ、もう一方は赤黒い筋肉が剥き出しになったオーソドックスなタイプである。
顔に光を当てた時、がんぎまりの瞳と目があって流石に来るものがあった。
それでも後ろの震える少女の存在が悲鳴を押し留めてくれた。
思えば、俺は初めて人体模型を見たかもしれない。
高校はおろか、中学にも小学校にもそれはなかった。
言うなれば、俺にとってはテレビやマンガ、アニメなどで見るフィクションの存在だった。
間近にすると場所柄もあって中々に恐ろしい。
とりあえず、一度彼から視線を逸らす。
改めて、部屋の中にぐるりと光を当ててみた。
やはりここには、他に何もない。
となると、あの物音の正体はーー
「ないない」
再び模型君を照らしてみたものの、こいつが動き出すとはとても思えない。
やっぱりさっきのは気のせいだった。俺はそう結論付けた。
濡れ衣を着せるのも可哀想で、奴にライトを向けるのは止めてあげた。
「な、何かあった?」
背後から震え声が伝わってくる。
消え入りそうな程か細いそれは、俺にしてみれば軽いホラーである。
「別に。やっぱりさっきのは空耳だったみたいだ」
「ホント?」
彼女はまるで亀の様にのっそりと首を出した。
「きゃああああああああ!」
またしても大きな悲鳴が上がった。
人体模型に光が当たったところを見ると、彼女は奴を直視してしまったらしい。
俺の胴体をかなりの強さでつねって来る。痛い。
ちゃんと教えてやればよかったと流石に反省する。
別に意地悪するつもりは全くなかったけど。
「落ち着け、ただの人体模型だ」
軽く頭をはたいてやって、どうどうと宥めてやった。
「な、なにが、ただの人体模型よ! 滅茶苦茶怖かったわよ、嘘つき!」
声は小さくても、その中にいつもの負けん気の強さが滲んでいる。
「へいへい、悪うござんした」
いつもの様にテキトーに謝罪の言葉を述べる。
最早癖になりつつある。
「ところで、あれ動かないの?」
この期に及んで、まだ噂の真偽を確かめるつもりなのか。
「いやいやあり得ないだろ、普通に考えて」
俺は若干呆れながら言葉を返した。
「でも一応調べてみるくらい――」
「いやだよ。面倒くさい」
「あ、怖いんだ」
まだ俺を煽る余裕はあるらしい。
腹の立つ笑顔を浮かべて、横からひょっと顔を出してきた。
その目が明らかに俺を軽んじているのがわかる。
「怖がってるのはお前だろ。そんなに気になるなら、自分で調べるんだな」
俺は寧音を引き剥がして、前に押し出してやった。
すると、自然と人体模型と向き合うことになるわけで。
彼女は硬直したまま、身体を戦慄かせることしかできていない。
「……イジワルっ!」
やはり勇気を持てなかったらしく、やがて寧音はこちらを振り返った。
悔しそうに唇をかむのに加え、上目遣いのおまけまでついていた。
そして半泣きだった。意外と可愛く見えるが、正体はただの幼馴染である。
「ったく、そんなに怖いならもう帰ろうぜ」
「でも、まだおじさんの道具袋が見つかってないし」
この期に及んでまだ人の心配ができる辺りはさすがではある。
もちろんただの強がりでしかないけど。
「とりあえず慎吾たちの所に戻るか」
「そうね」
準備室の探索を切り上げて、俺たちは再び隣の部屋に。
ばたんとしっかり扉を閉じて慎吾たちの所に歩いて行った。
「大丈夫か?」
言いながら、おっさんは復活した様なのはわかった。
「ええ、何とか。すいません、醜態をさらしてしまいまして」
「気にするなよ。それにしても、本当に苦手なんだなおば――」
「口に出さないでください!」
凄い拒否反応である。
「あーあ、せっかく僕が落ち着かせたってのに」
「悪かったって。それにしても、もっとヤバそうなの相手にしてきたくせに情けないぜ?」
「そういうこと言わないの。誰だって、苦手なものくらいあるわよ」
どうやら、同じ幽霊恐怖症の持ち主ということで通じるものがあるらしい。
「それより、そっちこそまたなんか悲鳴がしたけど?」
「こいつにイタズラされたのよ!」
とんでもない言い回しをしやがるな、この女は。
「全くお盛んだねぇ」
「お前なにか盛大な勘違いをしてるな」
揶揄する笑みを浮かべる友人をきつく睨んだ。
それから気を取り直して、俺が今背中を向けている準備室内での出来事を説明した。
誤解のない様に、寧音が人体模型に驚いた様は詳細かつ臨場感たっぷりに話した。
おかげで、奴からはずっと射抜く様な視線を向けられたけれど。
「……で、他にはなにもなかったよぜ」
「あの、晴信ぼっちゃん。そのじんたいもけいというのは、人体の内面がわかるものですか?」
「良く知ってるな、トネリコ。異世界にもあったのか?」
そうまだ俺は人体模型が何かを詳しくおっさんに説明していなかった。
だからその特徴を端的に表現したのは意外だった。
しかしおっさんの反応は意外なものだった。
なぜか青い顔をして、口をパクパクさせていた。
その目はあらぬ方向を見ている。
そして、他の二人も似た様な表情をしていた。
寧音は今にも泣きだしそうなほど怯え、慎吾も顔を強張らせている。
そしてやはり、彼らの目もこちらには向いていない。
俺の背後をただじっと見つめている。
そこでようやく俺も嫌な予感というか気配を感じて、ゆっくりと振り返ってみた。
するとそこには――
さっきの人体模型がいた!
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「ぬわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
四者四様の叫びをあげて。
堪らず俺たちは部屋を飛び出した。
そのままの勢いに任せて廊下を駆ける。
俺たちを突き動かしているのは圧倒的な恐怖感だった。
こうなると俺も認めるしかない。
あいつは――あの人体模型先輩は動く!
もはや心の中には焦りと恐怖しかなかった。
心臓が激しく脈打つのは走っているからだけではない。
おぞましさを全身に感じて、心がふわふわする感覚に襲われている。
それでも廊下の真ん中ほどまで来たところで足を止めた。
流石に体力が持たない。必死に肩で息をする。
全身が新鮮な空気と小休止を求めていた。
こんなに走ったのは体育の短距離走以来だ。
寧音と慎吾も必死に呼吸を繰り返していた。
膝に手をついて、肩が大きく隆起している。
しかしトネリコのおっさんだけは全く疲れた様子はない。
何度か深呼吸をしたところで、ようやく息が整ってきた。
それでも心臓のバクバクは収まらないけども。
少し落ち着いたところで、後方を振り返ってみたが――
「追ってくるぞ、あいつ!」
安堵を得たのは僅か一瞬でしかなかった。
ここから少し離れた所を奴はのっそりと歩いていた。
誰に確認するまでもなく、俺たちは再び足を動かし始めた。
悲鳴を上げる元気すらなかった。
「やっぱり動いたじゃない!」
「今そんなこと言ったって、仕方ないだろ!」
「ねえどこまで逃げればいいのさ?」
「あ、あれがじんたいもけい……」
息も絶え絶えの中、なんとか言葉を交わす。
やがて廊下の端まで来てしまった。
目の前には体育館へ続く大扉がある。そして右手には上へと続く階段が。
後ろに戻れない以上は、どちらかを選択するしかない。
「とりあえず上の階に行こう」
「それがいいと思いますな」
体育館には遮蔽物がないから、奴を撒くことはできない。
となると、とりあえずは二回を目指すしかないわけで。
足元をしっかり照らしながら、俺たちは急ぎ足に階段を進んだ。
登り切る頃には、先ほどの激走も相まって極度の疲労感に襲われていた。
このまま地面に崩れ落ちたいとすら思える。
「ま、撒けたかな?」
「わからん」
「ねえ、あそこに隠れない?」
寧音は丁度目の前にある教室を指さした。
「賛成。悪いけど、もう少しも走れないよ」
慎吾が力なく手をひらひらとさせた。
俺もそうだが、二人とも全身から汗が噴き出していた。
ライトを照らすと、その顔にはびっしりと水滴が滴っている。
俺も頭から足先まで汗が止めどなく流れているのを感じていた。
まあおっさんは全然余力ありそうだけれど。俺たちを心配する顔をしている。
「そうだな」
一言口に出して、俺は身体を引き摺る様にして歩き出した。
たった空き教室までの数歩がこの上なくしんどい。
一歩一歩踏みしめる毎に疲労感が増していく。
ようやく寧音が示した教室の前と辿り着いた。
表示板を確認する余裕はない。俺はそのままドアの取っ手に手をかけた。
やはりここにもカギはかかっていなくて、滑りが悪いながらもなんとか開いた。
「待って!」
そのまま闇の中に踏み込もうとした時、後ろから寧音の声がした。
一体何なんだとうんざりしながらも、動きを止めて彼女の方を向く。
「どうした?」
「ね、ねえ、何か変な音がしない」
彼女は青ざめた顔で目の前に広がる闇に指を突きつけた。
その手は少し震えている。
言われて耳を澄ますと、確かにがさがさと音がする。そして、床が軋む音も。
理科室での謎の物音の件もあって、嫌な予感しかしない。
その場に緊張が走る。
よせばいいのに、俺は入り口から中を照らしてみた。
素早くライトを動かしていく。
とりあえず直線方向には何もいない。
しかし――
「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
謎の巨大な影が目について、俺は叫んでしまった。
小学生低学年くらいの背丈、横幅は丸みを帯びてデブっとしている。
尻尾の様なものが伸びているのもわかった。
頭部には二つの巨大な耳あり、全身毛で覆われている。
その頭が突如こちらを向いた。
闇の中に、真っ赤な瞳が浮かび上がる。
その正体は、巨大なネズミだった――




