第二十六話 おっさんの妄言
街灯の薄明かりしかない闇の中、肌をさらう空気は冷たくて。
暑い雲が空を覆って、星の輝きは殆ど見られない。
辛うじて、月はその存在感を仄かに匂わせるだけ。
時刻は夜の九時を過ぎたばかりだろうか。
少なくとも家を出た時には、ぎりぎり八時だったけれど。
とにかく夜闇の中に俺はいた。
いや、俺だけではない。
おっさん、寧音、さらには慎吾とで謎の四人パーティを結成したのだ。
そして今とある場所を前にしている。
ある目的を達成するために――
「それで? さっきのはどういう意味だ?」
俺は少しばかり食傷気味にトネリコに尋ねた。
おっさんが意味深な一言を残した後のこと。
後は帰るだけだったのに、気になって場所を移した。
本当は寧音を撒きたかったが、彼女の好奇心レーダーにスイッチが入ったみたいで。
どうしてもついてくると言って聞かなかった。
そのため奴も巻き込む羽目に。
とりあえず移動先は俺たちの教室を選んだ。丁度良く誰もいなかった。
ただ一つ、見覚えのある鞄が置き去りにされていたけれど。
それも俺の席の一つ後ろのところに。
しかし、それに構うことはなく俺たちは手近な場所に陣取っていた。
「いや初めて見た時から引っかかってはいたんですけど。私、この建物に見覚えがあるんですよ」
これまた妙なことをいう。
学校というものが、トネリコの世界にないことは確認済みだ。
おかげで、この場所について散々説明させられたわけで。
だからこのおっさんの言っていることはおかしい。
「やっぱ頭がおかしくなったか……」
「凄い落したもんね、あの時」
金属のタライが、おっさんから僅かに残った正気を奪い去ったのだろう。
まあ元々あまりまともじゃなかったからいいか。
「さ、帰るぞ」
俺はつれなく立ち上がった。これ以上構っていられない。
意味深なことをいいやがって、性質の悪いかまってちゃんだ。
「いやいや、待ってください! マジです、マジなんですってば!」
「全くどこでそんな言葉覚えたんだか……」
大層異世界人に似つかわない言葉遣いだことで。
しかしその雰囲気から真面目な部分を察して、仕方なくまた席に着いた。
「あの金属の物体で頭を打った瞬間に記憶が蘇ったというか……」
それが本当だとしたら、あの校長余計なことをしてくれたものだ。
内心毒づかずにはいられない。
「じゃああれだ。デネブってやつ!」
盛大な勢いで間違える幼馴染。今日は絶好調である。
「それは星の名前だ。デジャヴ、元はフランス語で日本語で既視感を意味する。
未経験な事象なのに、なぜか体験したことがあると錯覚するってやつだな」
「うーん、それかもしれませんねぇ……」
おっさんは眉間に皺を寄せて顔を曇らせている。
言葉とは裏腹にどうにも納得いっていない様子だ。
ひとまず順を追って話を聞くべきか。
この時点では、全くおっさんの言葉なんか信じていなかったけど。
しかし万が一ということはあるかもしれないのか?
心に疑問符を宿しながら、話を続ける。
「そもそも初めのきっかけは何だったんだ?」
「外観ですなぁ。その時、頭の片隅に引っかかって」
じゃあその時言えよ。そう思ったが、その前にあれこれ聞くのを禁止していたことを思い出した。
このおっさんなりに気を遣ってくれたのかもしれない。
「お前の国に似たような建物があったんじゃないか?」
それと勘違いしたという説は濃厚である。
「いえ、そんなことはないです。晴信ぼっちゃんもご存じの様に、私田舎の村の出なので。
城下町でもこんな建物見なかったですしなぁ」
しかしおっさんは苦い顔をして、顎髭をさするばかり。
どうにもしっくりきていないみたいだ。
「城下町!? おじさんの国にはお城があるの?」
寧音は目を見開いた。驚きの中に凄いという感情が混じっている様だ。
「城くらいこの国にもあるだろ。行かなかったか大阪城? 修学旅行で」
関西に行ったのだが、自由行動の時に俺の班は寄った。
すると、彼女は、あれどうだったかな、と考え始めるそぶりを見せた。
よし、これでしばらくはおとなしくなる。
「でもぼっちゃん。ここには国王はいないって、前におっしゃってませんでしたかな?」
徐々にだが、この国の常識をおっさんに仕込んでいるのだ。
王政が敷かれているおっさんの世界に対して、この世界は必ずしもそうではない。
この国がまさにそうで、なんて、そんな話をした覚えはある。
「ああそうだよ。だから昔のものさ」
「そうですか……」
「なんでしょんぼりするんだよ」
「やはり権力者に取り入るのが商売の早道ですからな」
さすが二ヵ国の間の軍備増強を加速させたことのある男の言葉だ。その重みが違う。
しかし、それを活用することは決してないけども。
「とすれば、行き倒れる前にここを通りがかったとかじゃないのか?」
「いえ、違うと思うんです。そもそも、あの日はどこをどう通ったか全く覚えていないので!」
トネリコは鼻息を荒くしながら言い張った。
自慢することじゃないだろうに……
すると、やはりおっさんがここに来たことがあるというのは無理がある。
つまりはただの妄言に過ぎないわけで。
これ以上、相手にするのは非常に馬鹿らしい。
「やっぱりあのタライのせいで、頭が変になったのさ。
この話はお終いだ」
「えー、冷たいなぁ、晴信。おじさん、本気で言ってそうだよ?」
ようやく記憶の世界から帰ってきた寧音はおっさんの見方をした。
腕組をして、目を細めてこちらを睨んでくる。
全くこの男の手腕について、怪しんでいたのは誰だったか。
それが昨日今日の活躍を目の当たりにして、その考えは改めたらしい。
彼女もすっかりこのおっさんの存在を受け入れていた。
まあそれは別にいいんだが。
「実はずっと昔に来たことがあるとかじゃないですか?
それこそ幼い子供の時、とか」
これが普通の人間の話であれば、その可能性もあるだろう。
子供の時の記憶がふと蘇る。そんなことはあっても不思議ではない。
しかしおっさんは異世界の住民なのだ。
以前にここに来れるはずがない。
これが初めての異世界転移っぽいから、それはありえないのだ。
しかしそんなことは言えるわけもなく。
「やっぱり俺は、どこかでこの学校と似た外見の建物を見たことがあるという説を推すね」
「いえ、でもこの内部にも見覚えがあるんですよ」
うーん、だとすると謎は深まるばかりである。
いっぱい部屋があるという点では、それこそ城と似ていそうだが。
しかし教室と近い機能を持つ部屋がそう何個もあるとは思えない。
「身に覚えのない記憶を誰かに、植え付けられでもしたんじゃないのか?」
考えるのに飽きて、ついにはそんな突拍子もない思い付きが口をついた。
「あんた、少しは真面目に考えてあげなさいよ」
「とはいってもなぁ……」
相手は異世界から来たおっさんだから、ある種なんでもありな気がするのだ。
「実はですね、私一つ心当たりがありまして」
「なんだよ、それ? 先に言えよ」
「いえでも――」
するとおっさんは口ごもって、寧音の方をちらりと見た。
彼女がいると言いにくい内容なのかもしれない。
視線を向けられた本人はというと、不可解そうに首を傾げていた。
「なあに?あたし邪魔なの?」
と、不服そうに文句を垂れた。
席を外してもらおうか、そう思ったけれど。
トネリコが何を言わんとすることもわからないこともあってそうしないことにした。
何より、この女がそう簡単に応じてくれるとは思えない。
事実、彼女の目には意地でもここにいるという強い意志が見える気がした。
「いいから、おっさん話してくれよ」
いくらか不安を感じながらも先を促した。
一体どんな爆弾発言が飛び出るのか、考えただけでも気が重い。
「……はい。あのですね、私が目覚めた場所はここじゃないか、と」
おっさんは自信なさげに言い放った。
少しの間、沈黙が訪れる。
予想だにしていない一言に、俺は完全にフリーズしていた。
あまりの出来事に、暫く目を白黒させることしかできなくて。
それでも徐々に自体が呑み込めてくる。
それにしても、また意味の分からないことを言ったものだ。
目が覚めたというのは、異世界から来た瞬間の意識が覚醒した時のことを差すのだろう。
だとすれば、寧音を気にする素振りも納得のいくもので。
そこはいいのだが、問題は学校で目が覚めたという部分である。
事情聴取をしたとき、おっさんは言っていた。
気が付いたら、荒廃した場所にいたと。
しかし、うちの高校は決してそんな所でない。
もしそうだとすれば、この三日間の出来事は軽いホラーになるわけで。
とにかく、その矛盾がある限りおっさんの指摘を受け入れることはできない。
ふと気になって、寧音の方を見た。
やつもまたひどく混乱している様で、ギューッと目を閉じて何かを考え込んでいる。
当たり前だ。『目が覚めた』の真意はこの少女には到底わかりえない。
彼女にしてみれば、所謂ないいってんだこいつ状態だろう。
「もしかして、おじさんここで寝泊まりしてるの?」
ようやく彼女が考え付いた答えはそれだった。
自分でも意味が分からないらしい、眉間には浅い皺が残ったままだ。
「寧音、後で事情は説明してやるから。ちょっと黙って聞いててくれるか?」
寧音に配慮していては、トネリコの言葉の意味を捉えられない。
だから、俺も覚悟を決めた。バレることになってもいい、と。
しかし話す度に余計な茶々が入っては溜まったもんではないので、こうして幼馴染に釘を刺した。
「は、はい。わかったわよ」
俺の迫力にやや気圧されながらも、寧音は頷いてくれた。
真剣さが伝わった様で何よりである。
さて、早速切り込んでいくか――
「そもそもおっさんが目を覚ましたのは荒廃した建物って話だろ?」
「ええ、そうなんです。だから、ここじゃないとはわかってはいるんですけど」
この男にしては珍しく弱気だ。自分の発言のおかしさは十分に承知しているということか。
「それに学校で目覚めていたとしたら、もっと大騒ぎになっているはずだ」
誰にも見つからないことなんてあり得ない。
しかもおっさんは幽霊の気配を察して錯乱していたようだし。
「ですな。それにあの建物には人気が全くなかったです」
やはりこの点を鑑みても、うちの高校で目が覚めたということはなさそうだ。
しかし、おっさんの既視感が正しいとするならば。
俺には一つ心当たりがあった。
いったん会話を止めて、自分の思考の中に深く深く飛び込んでいく。
目覚めの場所が学校かどうかはこの際おいておこう。
とにかく、既視感を感じた原因が目覚めの瞬間くらいしかないのは理解できる。
あらゆる可能性をつぶした結果、残ったのがその時しかないからだ。
おっさんはここと似た外観・内装の場所で目が覚めた。
されにそこは荒廃した場所でもあった。
つまり、おっさんの目覚めの場所は高校に似た廃墟ということになる。
「だとすれば――」
「旧校舎だね!」
その時、俺の出した結論を横取りした奴がいた。
それはずっと放置してあった鞄の持ち主でもあった――




