主人公はピンチにならない
「しっかし、あっけなかったな……」
町外れの小高い丘の上にある、昼下がりのライオット農場。青い空の合間に浮かぶ真っ白な雲が、地平線の向こうまで伸びてとても美しかった。農場の片隅にいた黒髪の少年・エルムが、暇そうに欠伸を連発した。
「何が?」
黒いオーブ姿のマチルダが苛立たしげに聞き返した。さっきからエルムは燈芯草の上であぐらをかいたまま、一向に作業しようとしない。このままでは、夕日が沈むまでにマチルダのおじさんから頼まれた仕事は終わりそうになかった。しかめっ面するマチルダの様子はどこ吹く風で、エルムは遠く空を見上げながらポツリと呟いた。
「王様がだよ。普段から威張ってたくせに、他所者にあっという間にやられちゃってさ……」
「転生者、でしょ。他所者なんて、そんな言い方したら怒られるわよ」
マチルダが口を尖らせた。燃えるような赤髪を後ろで結び、彼女はせっせと燈芯草の塊を倉庫へと運んでいた。エルムは無言で、退屈そうにそのまま草の上に寝っ転がって、働き者の見習い魔女を眺めた。
「ちょっとは手伝いなさいよ」
「マチルダ、まだその箒持ってるのかよ」
エルムが素っ気なく尋ねた。視線の先には、彼女が背中に担いだ、小麦の彫刻が施されたボロボロの箒があった。マチルダが手を止め、腰に手を当ててエルムを見下ろしながら言った。
「当たり前じゃない。私もいつか『転生者』達みたいに、大空を飛んでみたいの」
「いつかっていつだよ?」
「うっさいわね。毎日サボってるアンタにあーだこーだ言われたくないわよ」
マチルダは頰を膨らまして、エルムを諦めて仕事に戻っていった。
エルムは、マチルダが空を飛ぶことに憧れていることを知っていた。
だけどそれは、彼の目にはとても無駄なことのように思えた。
「空を飛べる」のは、元々は一部の魔法使いや、よその世界からやって来た『転生者』達……このファンタジアの新しい支配者達の『特権』だった。
『転生者』達は、この国に様々な技術革新をもたらした。火を起こす、明かりを灯す、水を汲む……今までほとんど全て人力でやっていた煩雑な作業が、彼らの力で一瞬で出来るようになった。それだけでなく、空を飛ぶ、海を渡る、薬を作るなど、今まで魔法使いにしか許されていなかった特殊な能力も、彼らの手によって、エルムのような一般市民にまで簡単に扱えるようになった。今や市販の「空飛ぶ箒」を買えば、子供でも空を飛べるような時代にまでなった。
「…………」
白い雲が、彼の視界の先でゆっくりと風に流されていく。もちろん「空中浮遊」にも、ある程度の練習や素質は必要だ。決して口に出しては言わないが、エルムには、幼馴染のマチルダに空を飛ぶ資質があるとはどうしても思えなかった。毎日毎日飛べやしないのに、お母さんの置いてったお古の箒を持って擦り傷を作ってくる彼女が、何となく気に食わなかった。転生者のことで、彼女と毎回喧嘩になるのも嫌だった。確かに恩恵は大きかった。誰もが新しい支配者を歓迎はしているが……。
「……貢ぐ先が変わっただけで、俺達のやることは変わってないんじゃないの」
「ごちゃごちゃ言わない! 手を動かす!」
遠くの方でマチルダが声を張り上げた。エルムはようやく重い腰を浮かし、マチルダとともに今月分の燈芯草をまとめにかかった。
◾️
「うおおおおおおお!!」
「!」
大樽二つ分は優に越える巨大な男の怒号が、赤い絨毯の敷かれた宮廷に響き渡った。太い腕に握られているのは、男の二倍はあろうかというこれまた大きな剣だった。一体どこに潜んでいたのか、巨大な剣を悠々と振り回し、大男は真っ直ぐ突進していった。
切っ先にいたのは、王冠を被ったまだ幼い青年だった。向かってくる男と比べると、大人と子供ほどに小さい。
「先代の仇!」
「危ない! トウドウ様!」
近くにいた臣下が冠の青年に叫んだ。遠く離れた入り口から、見張りの兵士達が慌てて二人に駆け寄ってくる。だが、もう遅い。男が王冠に向かって重そうな剣を振り下ろした。絶対絶命の瞬間に、青年は何をするわけでもなくただ椅子に頬杖をついたまま笑みを浮かべ……次の瞬間、吹き飛ばされていたのは大男の方だった。
「!?」
王座にいたはずの巨躯が、見えない力によって数メートル先まで吹っ飛ぶ。さらに青年が笑いながら指を鳴らすと、巨大な剣は粘土のように縮こまり丸まってしまった。無様に吹き飛ばされた大男は驚いて、団子になってしまった自らの武器を睨んだ。
「く……この妖術使いめ……!」
「そういう君は、王国兵士の生き残りか、親族か何かかな? 分かっていないな、僕の『チート能力』が……」
青年はまだ、王座に座ったまま微動だにしていなかった。不気味な笑みを浮かべたまま、彼はもう一度指を鳴らした。すると、大男の体がゆっくりと宙に浮き始めた。
「や、やめろ!! 何をする気だ……!?」
「『何でもあり』なんだよ、僕は。この世界じゃ、文字通り何でも。それで、何をしてほしい? 望みの死に方があれば、叶えてあげるけど……」
「貴様……! うわあああああああ!!」
男の返事を待つ前に、青年が指を鳴らすと、宙に浮いていた男はパン生地のようにぐにゃぐにゃに捏ねくり回され、やがて破片となって赤い絨毯の上に飛び散った。辺りでは、集まった兵士や臣下達が、恐怖に顔を引きつらせそれを見守っていた。
「陛下、お怪我は……」
「ないよ」
ここで青年はようやく立ち上がった。椅子に座ったままで、指を鳴らしただけで襲ってきた暴漢を一掃した王様に、誰もがさらに顔を引き攣らせた。
「やれやれ。全員消したと思ったのに、中々憎しみの連鎖が断てないね。どうして敵わないと分かっているのに、わざわざ向かってくるんだろう?」
「…………」
「こうなったら、元を断つしかないのかもしれないな。大きな争い事に発展する前に、不穏な芽は先に摘む……村ごと」
「!」
暗い笑みを浮かべる青年に、兵士達は思わず唾を飲み込んだ。青年はゆっくりと歩き出し、先ほど飛び散った男の残骸へと目を向けた。静まり返った宮殿に、靴音だけが不気味に響き渡った。
「さっきの男、何処からやってきたか誰か知ってる?」
「あ……この装飾は、た、確かライオット地方の……!」
「おいバカ……!」
怯えきった臣下の一人が、飛び散ったブレスレッドに刻まれた小麦の彫刻を指差して呟いた。青年はブレスレッドを広いあげると、ニッコリと微笑んで『密告』した臣下の肩に手を置いた。
「ひ……!」
「そ。ありがと。そんなに怯えなくていいよ。えーっと……ところで君」
「…………!?」
「……ところで君、名前なんだっけ?」
〈続く〉