プロローグ
「はっ……はっ……はっ……はぁっ……」
森の中を、息を切らせて少女がひた走る。
もうどれくらい走っているのだろう。
追い立てられ、行く手を塞がれるたびに、どんどん村から離れていっている。
助けを呼ぶことなんてできっこない。
誰か自分を助けてくれるようなヒーローとばったり出会うなんてあるわけない。
森の行く先は次第に暗く重く澱んでいく。
地元の村人さえ立ち入らぬ奥地へと入り込んでしまっているのだ。
昔から、森の奥地にはあの恐ろしい怪物が住んでいると言われている。
森の奥に行って生きて帰ったものは誰一人いないのだと――。
「はっ……はっ…………きゃぁっ!?」
落ち葉の下に埋もれていた木の根に足を取られて少女が転がる。
早く立ち上がって逃げなければ。そう思ってはいるのだが、一度歩みを止めた足は鉛のように重く、最早立ち上がることさえ困難だった。
少女の脳裏に暗い未来に対する絶望がよぎり、あきらめと共に全身の力が抜けていく。
――どうせもう、逃げ切れはしない。
落ち葉を踏みしめる音が鳴り、少女を執拗に追い続けた連中がぞろぞろと姿を現した。
小柄な少女よりもさらに小さな緑褐色の体躯。身体に比してやけに大きな頭には尖った耳に尖った大きな鼻。そして小さな牙が見え隠れする大きな口。
ゴブリンと呼ばれる、邪神が生み出した醜悪な怪物である。一匹一匹はその身体の大きさからわかるようにたいして強くないものの、非常に好戦的で群れをなして人や家畜を襲う危険な生物だった。
「ひっ――」
予想していたよりも多いゴブリンの数に改めて恐怖を感じた少女が尻餅をついたままに後ずさる。だが、すでに周りを囲まれている。どこにも逃げ場はない。
さび付いてボロボロになったナタや鎌、木を荒く削っただけの棍棒など、様々な得物を手にゴブリン達がにじり寄ってくる。
黄色く変色した乱ぐい歯の間からよだれが糸を引いてこぼれ落ちた。
「いや……来ないで……お願い…………誰か、誰か助けてぇっ!」
少女の叫びを合図にしたかのように、先頭に立っていたゴブリンが手にした棍棒を振り上げて少女めがけて飛びかかった。
身を固くして目を閉じた少女の耳に聞こえてきたのは鈍い殴打の音。
次いで悲鳴と共に落ち葉の上を何かが転げていく音を聞いて少女は恐る恐る目を開いた。
棍棒を持ったゴブリンはいない。
優に十メートルは向こうでピクピクと手足をけいれんさせているのが恐らくさっきのゴブリンなのだろう。
突然のちん入者に戸惑うゴブリン達の間を駆け抜けるように、銀色の影が目にもとまらぬ速さで飛び回る。
その度にゴブリンが「ぎゃっ!」と短い悲鳴を上げてあちらこちらへと吹っ飛んでいく。
ほんの数秒も経たずに、八匹いたゴブリンが全員地に倒れていた。
一匹とて立ち上がってくる気配はない。
「ふぅ……やれやれ、間一髪だったな、お嬢ちゃん。怪我はないかい?」
ゴブリンをあっという間にやっつけてしまった銀色の影が少女に優しく問いかける。
「――――!? あ、あぁ…………いやっ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
と、少女は先ほどまでの疲れなど忘れたかのようにものすごい速さで逃げ出していった。
その悲鳴の大きさたるや、ゴブリンに襲われていたときの比ではない。
「えっ――。お、おーーい、ちょっとぉ!?」
戸惑う銀影を尻目に、少女はもう森の木々の向こうへと消えつつある。
「おいおい、まじかよ……」
銀影は呆然としたままご自慢のひげがピンと伸びた己の顔を撫でた。
ふさふさの毛で覆われた右手の平に見えるのはまごう事なきぷにぷにの肉球。
「そんなにしゃべる猫が怖かったんかなぁ? 俺的にはけっこうラブリーだと思うんだけどなぁ……」
そう言って、美しい銀色の毛並みを持った猫は、優雅に伸びをしながら一つ大きなあくびをするのだった。