運命のベンチ
ここは閑静な住宅街。駅でタクシーに乗り、ここの名前を言うと「緑があっていいところですよね」と、運転手が言うような、自然あふれるみどりの街。
そんな道を歩くのは、出版社に勤める編集者。このあたりに自宅を構える先生に、原稿の催促に来たご様子。
先生の自宅にある2階の書斎からは、家の前の道路が一望できるようになっている。編集者が来たのが、一目でわかるようにそんな構造にしたのかどうかは定かではないが、家を訪ねると留守だということがよくある。
どうせ今日も出てくれないと思いながら、編集者は家の前へやってきた。
チャイムを押そうとすると、思いもよらず玄関の扉が開き、先生の姿が現われた。
編集者は驚きながら先生に語りかけた。
「先生。なにをしていらっしゃるのですか?」
普通ならここで挨拶を交わすのが普通だろうが、どう見ても挨拶を省略しなくてはいけない場面だった。なぜならドアから出てきたのは先生だけではなかったからだ。
「見てわからないのか?」
編集者は正直に、目の前に広がる光景を言葉にした。
「ベンチを運んでいますね」
「そうだ。わかってるじゃないか」
ベンチを運んでいるのは小学生だろうとアメリカ人だろうとわかることだ。しかし、何故そんなことをしているのか、編集者はまったく答えを見出せなった。
「・・・・・・」
何も出来ずにただ呆然と突っ立っている編集者。それを見かねて先生、
「なにをしてる。さっさと手伝ったらどうだ」と、注文をつけた。
「ああ、申し訳ありません。よいしょ」
編集者はなぜ自分が謝ったのか、一瞬疑問に思ったが、それは、今朝みた夢のようにすぐに忘れてしまった。
「そこ、気をつけて。上げすぎだ。もっと下げて。よし、ここいらに置こう。よいしょっと。ふう」
先生は一仕事終えたみたいにベンチにどかっと座った。そして、編集者はここに来た目的を思い出した。
「先生」
「なんだ?疲れただろ。君も座ってみたらどうだ」
「原稿をいただけないでしょうか。締め切りが」
そういうと、先生は大きく胸いっぱいに空気を溜め込んでから口を開いた。
「はあーー……。これだから今の都会の人間はいかん。口を開けばやれ時間だの、やれ締め切りだの。いかんぞ時間に支配されるようでは。時間とは人生を豊かにしてくれるひとつのピースだと言うことを自覚せにゃならん」
先生はよく、いかにももっともらしい言い訳をする。よくもまあポンポンと出てくるなあと、感心することもあるが、まあそこは小説家として当たり前と言うものなのだろうか。
「先生、その時間を有効に使っているのなら、原稿がとっくに出来ていてもおかしくないと思うのですが」
締め切りはとっくのとうに過ぎているのである。ここは編集者の方が一枚上手だったようだ。
「……しょうがない。はいはい書きますよ。まったくせっかちなんだから。こんなに催促されたら書けるものも書けなくなる」
少々いじけながら先生はベンチを立ち、自宅へと戻っていく。
「先生」と、編集者が思い出した様にかばんの中身を手で探りながら話しかけた。
「今度は何だ。書くって言ってるだろうに。そんなにせかすな」
「この前いただいたのボツです。つまらないです」
原稿を片手に持ち、先生のほうを見る編集者。先生は振向いてまたなにか言い訳を考えているように思われた。それがいつものやり取りだからだ。
しばらくして先生が言葉を発した。
「…………ま、そうだろうな」
そのまま先生は自宅の中へ戻っていく。
少々拍子抜けしてしまった編集者は、さっきと同じように呆然と突っ立ってしまった。
どうしたのだろう。なにかいつもと少し変だ。
そう思った矢先、玄関から「ガチャッ」と鍵のかかる音が飛び込んできた。
現実に引き戻された編集者は、さっきの心配などどこへやら、ドアをたたきチャイムを鳴らして先生に入れてくれるよう頼むのであった。
平日の昼間から青年が一人電車に揺られていた。
空席もところどころ見受けられるが、そこには座らずに、ドアのところに寄りかかって外を見ている。
遠くのほうをボーっと見つめている彼は、電車のゆれに抵抗することなく、ゆらゆらと揺らいでいる。
ドアが開き、ゆっくりと地面に足をつけた。
駅を出ると左右を2回ずつくらい確認して、ゆっくりとあたりを見渡しながら歩いていくのであった。
「あら、編集さん。どうしたのそんなところに座って」
「ちょっと締め出されまして……」
かれこれ一時間経っただろうか。編集者はベンチに腰をかけて待っていた。その時、考えていたことはいうまでもなく、「このためのベンチか……」というものだった。
そんな時、先生の奥さんが帰ってきたのだ。
「もうあの人ったらいつもこうなんだから。なんでいつもこう意地悪するんでしょうね。待っててくださいね、いま開けますから」
部屋には入れたが、書斎の扉は硬く閉ざされているのであった。
「ちょっとあなた。編集さんが来てるのに鍵を閉めて。かわいそうじゃありませんか。あなたのために来てくださっているのに。聞いてるんですか?」
「そんな、大丈夫ですから奥さん。待ってますからお気遣いなく」
「あら、そうですか?それでも悪いわよう。あ、そうだ。いま買ってきたドーナッツがあるの。一緒にいただきましょ。それがいいわ。あの人には内緒で」
コーヒーのほろ苦さと、ドーナッツの甘さを味わいながら、奥さんの話を編集者は時々相づちを打ちながら聞いていた。
「最近あの人元気がないのよねえ。前からしゃべる人ではなかったんだけど、最近はホントに口を開かないのよ」
編集者は思い出していた。原稿がボツだと言うのに反論しなかった先生のことを。
「なんだか最近はひらめくことも少なくなっちゃったみたいだし。今までなんて何か良いストーリーが思い浮かんだら、何をしててもすぐに書斎に入って黙々と書いてたのよ。お風呂に入ってたときは大変。体も拭かないし服も着ないでしょ。もうお風呂から書斎の廊下がびしょびしょなんだから。それが近頃は駆け足で書斎に入ることがなくなったのよ。いったいどうしちゃったのかかしら」
ほとんど一息でしゃべった奥さんはコーヒーを一口飲んだ。
編集者はふと窓の外に見えるベンチに目をやりながら、コーヒーを一口飲んだ。
そして、『ふー』と、二人で息を吐いた。
かすかにコーヒーのにおいがした。
あたりを見回しながら歩く青年。
時々立ち止まり、ポケットから、雨にぬれたようにシワシワな、一冊の本を取り出して読んでいる。
そして、本を閉じると再びゆっくりと歩き出す。
すると、目の前から編集者が、奥さんからいただいたお茶菓子を原稿の代わりにぶら下げてやってきた。
二人はすれ違う。
目をあわせることもない。
当たり前のことだ。
書斎の中で、先生は背もたれにもたれて、ギーコギーコと音を鳴らしたり、くるくるイスを回したりしていた。
先生はなおも、肘掛にひじを置いて、あごひげをジョリジョリ言わせたり、大きくひとつため息を吐いたりしている。
そして思うのだ。
何で私は書くのだろうか。
今までの私はどうだった?
なぜ書いていた?
なにか作り出すことが楽しかったような気がする。
だれも考え付かない物語。
現実の世界では起こるはずのない奇跡を作り出す。
確かにそれは面白い。
ただ、それだけなら誰かに見せる必要もないはずだ。
締め切りだって、なくても良いじゃないか。
私が作って楽しければ、それで良いじゃないか。
ふと、外のベンチに目をやると、一人の青年がいつの間にか座っている。
「お、釣れたか」と、先生は少々身を乗り出してベンチに座る青年を観察しはじめた。
しかし、一向に動こうとしない。
ボーっと空を見上げ、時々キョロっと左右に目をやることがあるが、ほとんど同じ姿勢だ。
先生は再びジョリジョリ音をさせ始めた。
飽きはじめている証拠だ。
しばらくして、先生は重い腰を上げ、ゆっくりとドアの鍵を開けたのだった。
なんなんだあいつは。
さっきから微動だひとつせんではないか。
編集が嫌がらせに人形でも置いて帰ったか?
ボーっと何をしとるんだかあいつは。
なんか面白いやつが来ると思って置いたんだがな。
うーん…。
……しかしだ。
普通じゃないことは確かだ。
それは面白いということだ。
ガチャ
先生は、一歩、また一歩とベンチへと近づいていく。
青年は相変わらずボーっと一点を見つめている。
ベンチの横に先生が着いた。
青年もやっと気配に気づいたのだろう。
ゆっくりと先生に顔を向けた。
するとどうだろう。
青年はまるで石像にでもなったかのように、先生の顔を見たまま固まってしまったのである。
声をかけようと思っていた先生だが、そんなに見られていては調子が狂ってしまう。
先生も黙ってしまった。
しばらくすると青年のほうに動きがあった。
いままで開けているのか瞑っているのかもわからなかった目が、まるでネズミを見つけたフクロウのように開眼したのである。
おもわず後ずさりしそうになる先生。
(やばい奴に近づいてしまった)
そう思った矢先、再び青年の様子が一変した。
顔の眉毛がへの字に曲がり、口は震え、顔は紅潮し、瞳にはあふれんばかりの涙が蓄えられていった。
先生は「大丈夫か」と、声をかけようとした。しかし、「だ」と、言葉を出しかけた瞬間に青年がいきなり立ち上がったのだ。
そして、右手と左手と、手のひらと甲を使って涙をぬぐう。
体を震わせながら、声を漏らしながら、涙は枯れることを知らない。
先生はあまりの泣きっぷりにどうすることも出来ずに立ち尽くす。
青年は大きく息を吸ったり吐いたりして息を整えようとしているようだ。
そして、青年は搾り出すようにして一言だけ口にした。
「ありがとうございました」
いつこの本を手にし、なんで読んだのか。
今は思い出すことが出来ない。
ただ、その時、僕はいつものように電車に乗って、会社から家に帰っていた。
別に最初から期待なんかしてなかったけど、予想通り社会と言うのはとてもめんどくさくてつまらないところだった。
通勤時間が倍に伸びて、あまりにも暇だったからだろうか、本を読もうなんて思ったのは。
新人研修で「何か本を読め」と、言われたからじゃないことは確かだ。
そう、確かなことは、僕は本を読み、たくさんの乗客の目も気にしないで泣いたということ。
泣いたということ。
泣いたということ。
一言一言が胸に突き刺さった。
心に響き渡った。
ぼやけきった視界で、僕は必死になって一文字一文字を脳に送り込んだ。
そのたびに心の泉からあふれ出る涙。
涙。
涙。
この感動を味わうために僕は生まれた。
この感動を味あわせるために両親は僕を生んだ。
世界が変わった。
いや、
この本が
世界を変えてくれた。
その本を書いた人のことを知りたくなった。
今、僕はその人の育った街の中にいる。
この景色を見て、この空気を吸ってこの本を書いた。
そう思いながら、僕はベンチに座り、とても穏やかな気持ちになっていた。
ふと、人の気配を感じて横を見ると、その人は立っていた。
立っていた。
立っていた。
な……?
へ……?
なんだこれ?
意味がわからない。
わけがわからない。
目の前には、生きてきて本当によかったと思える感動をくれた人。
両親が僕を生んでくれて、育ててくれて本当によかったと思える感動をくれた人。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
全身からあふれる涙。
涙。
涙。
感情が全身を突き抜ける。
駆け巡る。
はじけ飛ぶ。
伝えなくちゃ。
僕は立った。
言わなくちゃ。
言わなくちゃ。
書いてくれて。
生まれてくれて。
生きてくれて。
出会ってくれて。
本当に
『ありがとうございました』
ガチャッ
ダッダダッダッダダダッ
「あなた。廊下を走ると転びますよ」
バタンッ
「なにか、久しぶりにいい話でも思いついたのかしら」
そういうと、奥さんは「そうだとしたら」と、何か思い出したかのように席を立ち、玄関へ続く廊下へ出た。
「あっ、やっぱり。ちょっとあなた。廊下が砂だらけじゃないの」
砂の感触をスリッパ越しに感じながら玄関へ進む。
「まっ、靴がないじゃない。ちゃんと靴を脱いでからあがってくださいな。アメリカじゃないんですからね。あなたっ。聞いてるの?あなたっ」
2階にある書斎の扉は硬く閉ざされているのであった。
「ほんと、しょうがない人ねぇ」
そういいながら、ほうきとチリトリを持って廊下の砂を取りはじめ、集めた砂を捨てるためにドアを開けた。
「そういえば、このベンチはなにかしら。さっき編集さんが座ってたけど・・・・・・そうだ、編集さんに電話してあげましょ。もうすぐ出来ますって」
そう言って奥さんは家に戻っていく。
バタンッ
本当に出来上がるのかなあ。思いつけば早いけど、思いつくかが問題だからなあ。こんな短時間で先生の調子が回復するとは思えないんだけど。
編集者を乗せた電車は再び駅に止まる。
ドアの向こうには、目を赤くした先ほどの青年。
プシュー
二人はすれ違う。
目をあわせることもない。
当たり前のことだ。