01話
空が淀んでいた。灰色に染まった雲は、世界から光を吸いとっていた。
朝方になってようやく雨は止んだものの、地面はぬかるみ、歩きにくい。
それが森の中ともなれば尚更の事だ。
凛々しく立ち並ぶ木々と生い茂る雑草の中を一人の女性――ユリア・フィナードが歩いていた。
ぬかるむ地面を踏みつける度に革製のブーツに泥がこびり付く。
褐色の髪は大量の水分を吸い込み、首筋に張り付いて重々しい。
毛先から流れる雫が、身に付けている革の鎧を伝って大地に落ちる。
「うぅ。最悪ですわ。何でわたくしがこんな目に……」
ユリアが街の側の森に足を踏み入れたのは昨晩の事だ。
宿に泊まる資金がなかったユリアは、風を凌げそうな巨木の下で一夜を過ごすことにした。
ところが、深夜になって雨が降り始めたのだ。
闇に沈んだ森を歩けば多くの危険を孕み、また迷う可能性も高いだろうと考えて動かなかったのだ。
巨木の枝葉が多少は防いでくれたとはいえ、明け方まで雨に打たれていたのだ。
全身は冷えきっていた。
野宿していた巨木から歩いて間もなく、木々が姿を消して目の前に細い道が現れた。
そこを伝って進むと連なった建物が姿を見せる。
森から繋がった細い道は街の裏道へと繋がっていたのだ。
ユリアは早足で街の中へ入った。
静かな裏道を進んでいくと、やがて大きな通りに出た。
大通りは行きかう人で溢れ返っていた。
ユリアは真っ直ぐにロデオンと呼ばれる広場へと向かった。
ロデオン広場。
大抵の都市にある公共の広場で、誰もが自由に商売できるようにと提供されている場所である。
そこには数多くの露店が並び大勢の人で賑わっていた。
その中でも圧倒的な割合を占めていたのがユリアと同じ旅人だった。
このレイトリバーサイドは冒険者協会本部がある街で、数日後にその入会試験が行われるのだ。
冒険者協会は巨大な国際組織であり、各国家にも多大な影響力をもつ。
そのため所属することは、それだけで社会的地位が保障され、仕事も保障されるのだ。
ユリアもその入会希望者の一人だ。
勿論ギルドに所属するだけなら、最寄りの協会支部で登録すれば良いだけなのだが、あまり良い仕事は割り当てられない。
というより仕事の保障も無いに等しい。
だからこそ、遠出をしてまで大陸中から腕に覚えがある者は今回の試験を受けに集うのだ。
ユリアは広場を歩き回り、食事の出来そうな店を探した。
そして見つけたのが石畳の上にテーブルを並べた野外食堂だった。
旅人で溢れ、席はほとんど埋まっていた。
しかし、幸いにも端に一人用のテーブルが空いていた。
ユリアは店員を呼び止めると「ホットミルクを一つ」と注文した。
しばらく待ってやってきたホットミルクを啜り、ユリアは一息つくことが出来た。
ミルクは程よい温かさで、冷えた身体を優しく満たしてくれた。
その安らぎの一時にユリアはようやく緊張が解けた。安堵すると今度は「食べ物も買えないのか」と空しさが込み上げてくる。
そもそもの始まりは実家を飛び出した半年前だ。
外の世界に出ても一人でやっていけると思っていた。
それなりに繁栄している街に行けば仕事は見つかるだろうと考えていたのだ。
しかし、現実はそんなに甘いものではなかった。
世間知らずで大した能力もないユリアを雇ってくれるような所は少なかった。
あったとしても、低賃金で一日の生活も危ういものや、割に合わない重労働で耐えられるそうもない仕事がほとんどだ。
惨めな生活を送る覚悟はしていたからある程度は我慢できる。
しかし、そろそろ限界かもしれないという情けない気持ちが生まれて来ていた。
資金も残り僅かで、食費に割く余力がない。
試験に合格するまでの間、この少ない資金で何とか生活しなくてはならないのだ。
ユリアがミルクの温かさに落ち着きを取り戻し、ほのぼのとしていると隣のテーブルで地響きが起きそうなほど豪快な笑い声が木霊した。
思わず身震いして視線を声のしたほうに向けた。
そこには一組の旅人達がいた。
リーダーらしい巨人のような筋肉質の大男。
その隣には装飾品をふんだんにぶら下げた派手な女性魔法使い。
そして長身で鋭い表情をしている剣士の三人組だ。
耳を傾けることをしなくてもその図太い声から内容は聞こえた。
どうやら、大男が自慢話を仲間達に披露しているらしい。
最初はユリアも周囲の人間と同じように無視を決め込むつもりだった。
しかし、空腹で苛立っていたユリアには自制心が足りなかった。
気がつくと両手でテーブルを叩き、立ち上がっていた。
「あなた方、うるさいですわよ。いい加減になさい!」
凛としたユリアの警告に食堂内が一瞬にして静まり返った。
三人組が一斉に振り向く。
そればかりかユリアの大きな声は食堂内の視線を集めてしまった。
募った怒りが思わず出てしまったことにユリアは後悔したが手遅れだった。
静寂の中で皆が好奇の目でユリアを見ていた。
注目を浴びるユリアはどうして良いか判らずにうろたえていると、三人組の一人が声を上げた。
「あらあら、お高くとまっちゃって。でもまぁ、そういうの全身ずぶ濡れで言われても困るわね。それに勘違いは良くないわよ、お嬢ちゃん。ここはただの食堂、濡れ場はあっちよ」
からかうような口調で言ったのは三人組で唯一の女性だった。
言いながら指差す方向は東側。その向こうには寂れた風景が広がっている。
そこは花街がある場所だ。
その意味を理解してユリアの頬が真っ赤に染まる。
女性は半眼でそんなユリアを見据えてから、小さく笑った。
それにつられて仲間達が一斉に笑い出す。
馬鹿にした彼らの態度にユリアは怒りを覚えた。
「な、なんですの、あなた方は! わたくし……いえ、あたしの格好なんてどうでも良いでしょ! あなた達こそ、こんな場所で騒いでんじゃないわよ。周囲の迷惑ぐらい考えたらどうなの!」
ユリアは三人組のテーブルに乱入して怒鳴った。
すると、大男がいきなりユリアの右腕を掴んだ。
その力強さにユリアは小さな悲鳴を上げた。
「可愛い声出すじゃねぇか。良いねぇ。俺は好きだぜ、気の強ぇ女も起伏の激しい身体した女もなぁ」
まるで得物を見つけた獣のような目つきで大男がユリアを舐め回すように見あげた。
ユリアは嫌悪で総毛立った。
身の危険を感じながらも、体が恐怖で硬直して払うことが出来ない。
大男はユリアの反応が楽しくてたまらないのだろう。
下卑た笑みを浮かべながら空いているもう一方の手をユリアに向けて伸ばした。
ユリアの意志は拒絶を示すが恐怖に固まって動けなかった。
耐え切れなくなってユリアは思わず目を閉じた。
その時、ユリアの真横でいきなり「ハックシュン」という気の抜けるようなくしゃみが響いた。
場にそぐわぬ異音に思わず大男の手が止まる。ユリアも無意識に瞼を上げてくしゃみの主へ目を向けた。
そこに居たのは全身泥水まみれの茶髪の少年だった。服装はきっちりとした旅装束なのだが、泥と水を被っている為に浮浪者のような印象を与える。
少年は大男とユリアを真摯な眼差しで見つめていた。
ただ、食堂の横を通り過ぎようとしてくしゃみが出てしまった、という状況ではなさそうだ。
故意にくしゃみをして注意を引いたようであった。
「彼女から手を離してください。皆さん試験前で色々と過敏になっているんです。軽々しい行動は身を滅ぼしますよ、クリストフ・ゴーダさん」
姿に相反した穏やかな口調で少年が大男――クリストフを見つめていた。
その顔には笑みすら浮かべている。
しかし、ユリアには少年の笑みの中に怒気を感じ取って息を呑んだ。
「あはは。こっちのお嬢ちゃんもそうだけど、そっちのお兄さんもまたすごい格好ね。いったい何があったのかしら?」
「大したことではありませんよ、マステラ・ミーナさん。向こうの川岸で間抜けなことに躓いてしまいまして、氾濫しかけていたレイト川にダイブしてしまったという情けない話です」
状況を説明する少年に対して女魔法使い――マステラが嘲るように失笑する。
「まぁ、それはお気の毒ですこと。それにしても私たちの名前を知っているってことは、あなたも冒険者協会の入会希望者かしら?」
「そうですよ。あなた方ほどの有名な方に御目にかかれるとは思ってもいませんでしたけれど」
「あら、有名ですって。嬉しいこと言ってくれるじゃない。ねぇ、クリストフ」
「黙れよマステラ。小僧、俺たちのご機嫌とりでもしようってのか。あ、何のつもりだ?」
「そんなつもりは毛頭ありません。それより彼女が嫌がっています。その手を放して下さい」
静まり返った食堂と通りに少年の糾弾が響く。
批難の目がクリストフに注がれた。
クリストフはその雰囲気に不快感を示すように険しい表情になって「ちっ」と舌打ちした。
「ふん。善人気どりかよ、気にくわねぇ」
そう言いながらもクリストフはユリアを掴んでいた手を離した。
ユリアは慌てて、そのクリストフから距離をおいた。
「けっ。なんか、なえちまった。行くぞ」
クリストフは仲間達にそう言って立ち上がると、少年を睨みつけた。
そして、いきなり少年を殴りつけた。頬を打たれた少年の身体は空に舞い、地面に落ちた。
「あんまり出すぎた真似すんなよ、小僧」
クリストフは尻餅を付いている少年を一瞥して言い放つと、仲間を引き連れて立ち去っていった。
しんと静まっていた食堂がそれをきっかけに急に騒がしくなる。
だが誰もユリアと少年に関わろうとはしなかった。
「大丈夫?」
ユリアは倒れたままの少年の元へ走っていくと、手を差し伸べた。少年は「ありがとう」と言ってユリアの手を借りて立ち上がった。
「あなたも無茶をするね。彼らに喧嘩を吹っかけるような行動に出るなんて」
「あの人たちって有名なの?」
「冒険者協会の試験を受けに来た冒険者志望で協会から推薦があったチームだよ。あの巨漢はデルモン教会区のゴーダ枢機卿の甥で、今回の試験の主席候補らしいよ」
そのことを知っていたから食堂にいる人間は傍観を決め込んでいたのだ。
それに気付いたユリアだが、すぐに首を傾げる。
この少年は判った上で助けてくれたというのか。根性があるのか、はたまた何も考えていないのか。その穏やかな表情からは読み取れない。
「性格はあまりよくなさそうだったわね」
「そうだね。僕もそう思ったよ。それはともかく。怖かっただろ。大丈夫?」
少年は振り向いてユリアに向かって優しく訊いてきた。
泥で汚れた顔と殴られた跡が残る頬はあまりにも情けなかったが、瞳は輝き力強かった。
その瞳にユリアは見惚れてしまう。
けれど、それは一瞬のこと。
少年と見詰め合っていることに気付いてユリアは慌てて視線を反らした。
「あのぉ、そのぉ、だ、大丈夫。助けてくれてありがとう」
ユリアはぎこちない口調で礼を言って頭を下げる。
「いや、当たり前のことをしただけだよ。それより、ここは出たほうが良いかな」
さりげなく店内に視線を向ける少年。
ユリアがその視線を追いかけてみると食堂の客達の視線が自分と少年に集まっていた。
その視線はまるで見世物を見ている観客のようで見られる側としては不快だった。
「そうみたいね」
「いこう」
ユリアは茶髪の少年に手を引かれて食堂を後にした。
カップに残ったホットミルクに密かな未練を残しながら。
後書き担当 ぷりん・A・らもーど より
最初の話って事で作者それぞれのコメントを残そうと思ったのですが、龍矢くんが「何書いていいのか判らん」との事だったので、私から一言…。
長年に渡って2人で書いてきた作品です。手直ししながら投稿していく予定ですので、「この説明がわからん」「これについての説明がほしい」など有りましたら忌憚ないご意見、ご感想お待ちしています。どうぞ、よろしくお願いします。