15話
ユリアは全力で駆けた。
足元から微かな揺れを感じる。
それは強大な物体が地面を叩いた事による衝撃で、それに連動して背後から大きな音も聞こえていた。
振り向くと、暗黒竜がユリアを追って疾走していた。
「な、なんでっ!」
悲鳴のような声が喉から出た。
ルーディスが竜を足止めしてくれていたはずなのだが、現に竜は背後から迫っている。
その事実から連想される最悪の展開を幻視したユリアは絶望で顔色を失った。
(まさか、ルーディス。やられたの?)
思わず動いていた足が止まる。
あれほどの実力を持つルーディスが本当に暗黒竜に倒されたのなら、自分は恐らくもう逃げきれない。
ユリアは旋回して暗黒竜と向き合った。怖かった。
無謀だと判っていた。
それでも立ち向かう選択をした。自分を守るために他人が傷ついてしまった事が許せなかったから。
「あああああああああああああああぁぁぁっ!」
気がつくと絶叫と共に剣を振り上げ、暗黒竜に突撃をかけていた。
両の瞳に涙を溜めて。
それが恐怖の涙なのか、悔し涙なのか、悲しみの涙なのか、ユリア自身にも判らない。
暗黒竜とユリアの距離は転瞬で埋まる。
舞い踊ったユリアの剣は暗黒竜の鱗に激突して呆気なく砕け散る。
暗黒竜は前足でユリアの身体を拾い上げた。
それはまるで小さな女児が優しく愛しい人形を抱きかかえるように。
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暗黒竜がユリアを捕らえたその瞬間をルーディスは目撃していた。
右の前足を人間の手のように扱ってユリアを掴み上げたのだ。
その間、ルーディスは見ている事しか出来なかった。
ユリアが襲われている事が判っていても、距離が遠くて間に合わなかった。
「ユリアぁ!」
名を呼びかけながらルーディスは駆ける足に加速を促す。
声に反応してユリアと暗黒竜の視線がルーディスに向いた。
ユリアの表情が危機的状況にも関わらず安堵に変わった。
ユリアのその変化はルーディスに勇気を与えた。
背後から接近するルーディスに暗黒竜が尻尾を振り回した。
尻尾は鞭のように撓り、木々を薙ぎ倒しながら、ルーディスに迫る。
ルーディスは小さく飛んで尻尾を回避。着地と同時に暗黒竜の足元まで身体を滑り込ませた。
後肢の間を走り抜けざまにルーディスは右の後ろ足を斬り払う。
だが、浅かった。
竜の鱗に斬り込みを入れたが、肉には届かず出血もなく痛がる様子も見せなかった。
それに構わずルーディスは暗黒竜の胴の真下を潜ってユリアが捕らわれている前肢に向かう。
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自分が起こした事態を収拾する為に金髪の男は暗黒竜を追って山を降りていた。
だが、そこで目にした一部始終に二の足を踏んだ。
それは暗黒竜から逃げるブルネットの髪の女と、壁となって女を守ろうとするブラウンの髪の男。
暗黒竜は目の前の男を襲うかと思った。
だが、予想に反して暗黒竜は男を無視して逃げた女を追いかけた。
青年にはそれが奇異な光景として瞳に映った。
竜族の外見は魔物と大差ないが知能レベルは人間に近い。
しかし、知的生命体に分類されるかというと微妙だ。
理論を優先する人間と違い竜族は本能に忠実で、その点では魔物に近い。
高位の竜族ともなれば人語を解し理論的な行動をする種も存在するが、ごく一部に過ぎない。
視線の先にある暗黒竜は竜族の中では厄介な部類ではあるものの決して高位の竜ではなく、闘争本能に忠実な一般的な竜であるはずだ。
だから不可思議だった。
暗黒竜がまるで理論的な考えで男を避け、女を追ったように思えるからだ。
(外見に反して高位の部類なのか? いや、それなら俺の魔法に干渉するなんて大ポカやらかしたりしねぇはず。それにそもそもあの竜、目の前に獲物がいるってのに殺気が感じられねぇ)
あの2人に暗黒竜と真正面から戦えるだけの実力はない。
2人の命を救うならば自分が助けに入るべきだった。
青年にはそれが判っていた。
だが、暗黒竜の行動の意味が何か重大な事のような気がして介入を躊躇わせる。
暗黒竜に殺気がないのならば殺される事はない『かもしれない』という考えが判断を迷わせた。
(どうする。助けるか。ギリギリまで様子を見るか)
考え込んでいる間に逃げた女が暗黒竜に捕まった。
だが、暗黒竜は殺そうとはしなかった。
そのすぐ後に女の連れの男が暗黒竜を追って来た。
男は竜に背後から迫り剣を振る。
竜が尻尾を振って応戦する。
その瞬間、竜の瞳が赤く光ったような気がした。
(あの女に興味を持っているだけじゃねぇな。男の方を警戒している?)
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ユリアの眼前に暗黒竜の凶悪な顔があった。
鋭い牙を口の隙間から覗かせ、しかし悪意を感じさせない赤い瞳でユリアを眺めていた。
ユリアの身体を捕縛している暗黒竜の前足に力は込められておらず、圧迫感はない。
暗黒竜の手の中で動こうと思えば動けそうだった。
多分、捕縛から抜け出そうと思えば抜け出せる。
けれど、ユリアは動かなかった。
ルーディスの自分を呼ぶ声が聞こえたから。
ルーディスの姿を確認できたから。
おかげで彼が倒されたわけではないと知って安心できた。
そして冷静になれた。
暗黒竜は自分が逃げたら追いかけてきた。
ならば、暗黒竜の束縛から逃げてもまた捕まえようとするだろう。
下手に逃げても意味はない。
でも、じっとしていたらルーディスが自分の元へ来てしまう。
また自分のせいで仲間を失うかもしれない。
そんなのは耐えられない。
だったら、自分がいなくなってしまった方がよっぽど良い。
「ねぇ、あなた。わたくしの言葉が理解できます? 理解できるのでしたら、わたくしを殺しなさい」
ユリアは自分でも驚くほど冷淡に死という安楽を口にする。
人語は理解していなくても言葉のニュアンスは理解したのか、暗黒竜は口を大きく開いた。
人間を丸呑みできるほどの大きく赤い口腔がユリアの視界を覆いつくす。
視界の上下から突き出した無数の牙がやけに白い。
竜の吐息がユリアの髪を掻き乱す。
暗黒竜の尖った舌がユリアに伸びて、顔から頭をベロリと舐めた。
生温い竜の唾液が頭と顔から垂れ落ちて身体全体に纏わり付く。
気持ちが悪かった。
(竜に喰われて死ぬ。我侭の顛末としては情けないわね)
ユリアは心の中で自嘲した。
喰われる覚悟が決まった。
後は飲み込まれるのを待つだけ。
だが、ユリアのその自己犠牲は果たせなかった。
「ユリア!」
自分を呼ぶ声。
それは頭上から聞こえた。
仰ぎ見たユリアは目撃した。
剣を掲げたルーディスの姿を。
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魔力は高密度になると光という形状を保ち目で見る事が出来る。
逆に言うと、空気中に含まれる微量の魔力や人間が無自覚に放出する微かな魔力などを目で確認する事は不可能だ。
だが、ルーディスには普通は視覚することが出来ない微細な魔力を観測できる能力があった。
だから暗黒竜が放っている魔力がはっきりと理解できた。
暗黒竜は身体全体から魔力を吐き出していた。
その流れの先にはユリアがいる。
口から魔力を含んだ吐息をユリアに浴びせて、舌で魔力に塗れた唾液をユリアに塗りつけた。
暗黒竜は自分の魔力をユリアに吹きかけているようだった。
(まるで犬のマーキングみたいじゃないか)
暗黒竜に所業にルーディスは激昂した。
暗黒竜の行動の理由など知った事ではない。
ただ許せなかった。
ルーディスは暗黒竜の前足近くまで接近すると天に向かって助走を利用して飛翔した。
弧を描きながら空に上り、地に向かって落ちる自分の身体。
眼下に暗黒竜と囚われたユリアの姿を確認する。
「ユリア!」
重力と自分の腕力を剣に乗せてユリアを捉えている暗黒竜の右前足、人間でいう手関節の部分に向かって振り下ろす。
剣の刃は竜の鱗を斬り裂き、肉を絶ち、骨にまで到達する。
だが、そこで剣の勢いはとまってしまった。
腕力が足りなかっただけではない。
暗黒竜が斬られた瞬間に前足に力を入れて、肉で剣を噛んだのだ。
押しても斬れず、引いても抜けない。
斬り口からは血が滴り落ちているが、竜が痛みを感じている様子はない。
暗黒竜は変わらず、ユリアをじっと凝視していた。
興味はあくまでユリアにのみあるようだ。
ルーディスは刺さった剣の柄を右手だけで強く握って、両足を竜の前足に着地させた。
空いた左手をユリアに差し出す。
ユリアもルーディスに向かって手を伸ばしてきた。
しかし、ユリアは苦痛の表情を浮かべてルーディスの差し伸べた手に触れる事を躊躇った。
不審に思ったが、考えている時間はない。
躊躇うユリアを無視してルーディスはユリアの手を強引に掴み、その身体を暗黒竜の前足から引きずり出した。
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男が捕縛された女を救い出した瞬間。
暗黒竜の瞳に殺意が宿った。
それを最初に気が付いたのは離れて観察していた金髪の青年だった。
だが、彼にその後の暗黒竜の行動を止める時間はなかった。
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ルーディスはユリアを抱きしめ、救い出した事に安堵したのも束の間。
次の刹那。
ルーディス達は暗黒竜の左前足に真横から殴られていた。
人間の倍はある鉄より堅い前足による打撃はルーディスとユリアの身体を空に吹き飛ばした。
森の中に突っ込み何本かの木々を薙ぎ倒し、最後には地面に激突した。
地面に背中を強く打ち付けて上手く呼吸が出来ない。
背中が熱い。
自分では確認できないが多分、背中は出血している。
呼吸を整えようとしていたら口からも血が吹き出した。
木々に激突した際に脇腹に枝が刺さり、出血もしている。
殴られたときに左腕の骨とアバラを何本か折られた。
咄嗟の事でユリアを庇いきれなかった。
地面に接触した際にユリアの右足が変な角度に曲がって血で染まっている。
ルーディスの耳元に激痛に悲鳴を上げるユリアの声が飛び込んでくる。
眩暈がした。
それは怪我のせいであり、状況のせいでもあった。
守るつもりでいたのに傷つけてしまった。それも大怪我だ。
「くそっ」
ルーディスはユリアを優しく地面に横たえさせると、自分は自力で立ち上がる。
足を怪我したユリアはもう立ち上がれない。
だから逃げるという手段は選択できない。
その上、戦う術がなかった。唯一、暗黒竜に対抗できる自分の剣は竜の右前足に刺さったまま。
しかもルーディス自身も大量出血のせいで頭がふらふらしていた。
どうしていいのか判断が出来なかった。
ふと、小さな地響きがした。
視線を上げると暗黒竜は天を仰いで、咆哮を発していた。
暗黒竜の声は大地を刺激し、空気を振動させて鼓膜を圧迫する。
その直後、暗黒竜の全身から膨大な光の粒子が放出された。その光は魔力だ。
それも人にも見える意識して放出された魔力。それは瞬く間に広がり、森全体を覆い尽くす。
視界は高密度の魔力の光に支配された。
それはまるで光る霧だった。
濃霧のように一歩先が見えない。
平野ならまだしも、ここは森の中だ。
木々が邪魔な上に足元が不安定ではまともに歩く事が出来ない。
動きを封じられたも同然だった。
(たしか、暗黒竜は竜の中では空間感覚が鋭敏で大気に漂う魔力の流れで相手の動きを把握できるって話だった。本格的にマズイかも)
こちらは気配を探れば暗黒竜の大まかな位置は把握できる程度だ。
だが、相手はこちらの位置を自分が放った魔力を使って詳細に感じ取る事ができるはずなのだ。
逃げる手段も戦う手段もない。
動きも封じられた。
竜のたった一撃で、ルーディス達は絶体絶命に追い込まれていた。
(いや。まだ何か手段があるかもしれない。僕だって)
ルーディスは自分の感覚で魔力の流れを追ってみた。
魔力は暗黒竜から放射状に流れていた。
とくにユリアのいる方向に対して放たれる魔力は他の箇所より大きいようだった。
その中に大きな魔力の塊がいくつかあった。
その魔力の塊は着弾すると膜のように広がりユリアを覆っていた。
(またマーキングみたいなマネをっ!)
ルーディスはユリアを庇うようにして立つと飛んでくる大き目の魔力の塊を右手の拳で乱暴に払った。
魔力の塊はルーディスに殴られて四散した。
こんな事をして意味があるのか判らなかったが、不快で放ってなどおけなかった。
(ユリアに触れるな。彼女はお前に渡さない)
ルーディスが魔力の塊を破壊する度に飛んでくる魔力の塊の数と速度が増していった。
その内に、防げない塊が出てきた。
何発か、魔力の塊がルーディスの身体に直撃する。
だが、魔力の膜はルーディスの身体に広がる事無く、魔力の粒子となって飛び散り消えていった。
ふと、突然に白濁とした魔力の霧を突破して不自然に長細い魔力の塊が飛来してきた。
出血による集中力の欠落と魔力の塊の迎撃がルーディスの判断力を鈍らせた。
避けきれると思って飛び退いたが、長細い魔力の塊の飛翔速度が他の魔力の塊に比べて遥かに速く、回避し損ねてルーディスの左足で受けてしまったのだ。
「がっ!」
それは予想外の衝撃。
足に生まれたのは激痛。
ルーディスはたまらず悲鳴を上げた。
見下ろすと、ルーディスの左太股に自分の剣が深々と突き刺さっていた。
血が噴出し痛みで立っていられなくなり、倒れそうになるが右手を地面に付いて激突は回避した。
(暗黒竜が僕の剣に魔力で目隠しをして投擲してきたのか)
ルーディスは竜が器用で『人間に近い知能を持っている』ことを思い出していた。
暗黒竜は的確に剣を投げてルーディスを狙ったその意味は、人間にたとえて考えれば簡単な話だった。
目的があってそれを守る者がいる場合、普通は障害となる守る者を最初に排除するという結論を出す。
(暗黒竜の標的が僕の方に切り替わってるのかっ!)
気が付いた時には手遅れだった。
魔力の濃霧に紛れて暗黒竜の巨体がルーディスの眼前に迫っていた。
次回19日予定です




