8球目 エンジェルリーグ
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転校初日の夜。
「向日葵、晩御飯できたわよ」
「うん……」
美穂子の言葉に空返事を返す向日葵は、リビングの大型テレビの画面を心ここにあらずと言った様子で見つめていた。
向日葵の覇気のない声に美穂子がダイニングキッチンからやってきて声をかける。
「向日葵、どうしたの? 帰って来てからずっと元気ないみたいだけど、学校で何かあった?」
「え? そ、そんなことないよ! 学校楽しかったし!」
「そう。それならいいけど」
向日葵は、叶夢たちの事でいっぱいになっていた思考を振り払う様に首を横に振り、笑顔を作る。
心配をかけまいと笑顔を見せる娘の姿に、美穂子は調子を合わせるように微笑み返した。気まずい空気から逃れたい一心で向日葵は口を開く。
「そ、そんなことより、今テレビいいとこなんだよ! お母さんも一緒に見よ」
「しょうがない子ね。ちょっとだけよ」
美穂子は、向日葵の様子を気にかけながらも応じると、一般家庭ではまず置いていないであろう、世界のセレブ特集にでも出てきそうな巨大な白いソファーに腰掛ける。
一方、向日葵はというと、美穂子の座っているソファに合わせて置かれている、これまた高級そうなローテーブルに手を置いて絨毯に腰を下ろしている。
テレビには、エンジェルリーグの試合が映し出されていた。選手たちは、テレビ越しにも伝わるほどに活き活きと躍動した姿を見せている。
エンジェルリーグの選手は、帽子を被らない者も多い。試合の多くがドーム球場で行われるという理由もあるが、実際の所は彼女たちのアイドル性の高さによるものである。髪をなびかせながらグラウンドを走り回る選手たちに美学を見出し、ファンは熱狂するのだ。帽子を被らなくてもいいので、選手たちは思い思いのヘアスタイルを楽しんでいる。
また、ユニホームも邪魔にならない程度のフリルがついた、とてもかわいらしいアイドル衣装のようなものから、スタイリッシュなものまで、とてもデザイン性に富んでいるのだ。
これは、小学生のユニホームにも、少なからず影響を与えている。さすがにプロのようにアイドル衣装のようなものはないが、それなりにかわいらしいデザインの物が多い。もちろん、安全のためバッターはヘルメットを被るし、キャッチャーは防具もマスクも着用する。
ちなみに、男性と女性の身体能力はそこまでの大差はない。例えば、男子プロ野球の日本の最高球速は大谷投手の百六十五キロなのに対して、女子は上野投手の百五十七キロだ。といっても、百五十キロ以上の直球を投げる投手はエンジェルリーグの選手でも、上野投手も含め五指で数えられる程度なのだが。
さらに、医療が発達してからは、長年選手たちを悩ませてきた、肩や肘の故障やその他のケガで引退を余儀なくされる選手も少なくなった。投手で、余程の無理を重ねれば話は別だが、自身の選手生命を削ってまで登板し続ける選手は数少ない。
故に、今ではケガを案じての球数を考慮した采配はほとんど行われていない。結果、投手は自身のスタミナの続く限り投げられる。もちろん、それは小学生でも同様である。
また、成長期に変化球を投げるのは肩や肘に負担がかかり危険であるとされてきたが、正しいケアをお行えば危険が及ばないこともわかった。それにより、小学生の変化球使用が解禁された。
これらの医学の飛躍的な進歩もエンジェルリーグの人気を大きく後押しした要因である。
『さぁ、ミカエルズのエース、上野がエンジェルリーグの歴史を変えるべくマウンドへ向かいます。九回の裏、後三人で史上最速でのリーグ優勝。更には、プロ二年目にして早くも自身三度目のノーヒットノーランがかかっています。これは達成すれば女子プロ野球界では初の快挙となります! いかがでしょうか、解説の野室さん』
『いやあ、今日の上野は球が走ってますからね。やってくれると思いますよ。期待して見守りましょう!』
『なるほど。ますます楽しみになってまいりました。さぁ、迎え撃つのはガブリエルス俊足の二番バッター矢部です』
テレビからは興奮気味で話す実況者と解説者の会話が聞こえてくる。
向日葵はその実況に反応しテレビの方へ視線を移す。
(上野選手……叶夢が好きなピッチャーだ……。そういえば、あたしが転校する前は、一緒に野球する度に『上野さんみたいなピッチャーになるんだ』って言ってたっけ)
向日葵は、テレビに映る上野選手と叶夢を重ね見ていた。
『さぁ、矢部、福野と倒れ残すは後一人です。ガブリエルス不動の四番、クリスタル・バルデスが今バッターボックスへ入ります』
実況が試合のクライマックスを告げると、向日葵はいつもの調子で美穂子に笑顔を向けて言う。
「あと一人だって! なんか緊張するね」
「向日葵はどっちを応援してるの?」
「もちろん上野投手だよ!」
「あら、向日葵は打つ方が好きじゃなかったの?」
「そうだよ! だから一番好きな選手は、ミカエルズの四番の桐生選手だよ! なんてったって、あの伝説のエンジェルナインの四番なんだから! 今日もホームラン打ったんだよ! すっごくカッコイイの!」
向日葵は、美穂子に心配をかけまいと叶夢の事を頭の隅に追いやり、いつも通り振舞う。美穂子は向日葵のそんな様子に気がつきつつも、調子を合わせて優しく微笑んだ。
「あっ、でもお父さんはもっと好きだよ!」
「あらあら。お父さんが聞いたら泣いて喜ぶわね」
二人がそんな会話をしている間に、テレビの方はエンディングを迎えようとしていた。
『ついに追い込みました。カウントツーツー。ピッチャー上野、振りかぶって……投げました! 決まったー! 空振り三振!! 最後は強打者バルデスを相手に見事、三振で決めました! この瞬間、ミカエルズのリーグ優勝が決定! 歴史が動きました! 上野が、三度目のノーヒットノーランと共に、歴史に名を刻みましたー!!』
はち切れんばかりの声量で、興奮しているというより、狂ったように上野投手の快挙を称える実況者。
「うわぁ、すごかったね! お母さん! あたしもいつかあんなところで試合してみたいな!」
「うふふ。向日葵なら本当にプロになれるかもしれないわね。お父さんの娘なんですもの」
にこにこと言う向日葵に、笑顔で答える美穂子の表情からは、建前などではなく本気でそう思っているのだということが伝わってくるようだった。
(向日葵、あなたならきっと大丈夫。こんなに真っ直ぐ育ってくれたんだもの。信じてるわよ)
美穂子は、娘が自らの力で壁を乗り越えてくれることを確信し、向日葵へ微笑みかけた。一息おいて、美穂子は胸元でパンッと手をたたきながら言う。
「さぁ、それじゃあご飯にしましょうか」
「はーい! あっ、そうだ! 今日ね、ゆいちーがね――」
向日葵が弾むような声で返事をすると、二人はダイニングへと向かった。
向日葵は叶夢の事を考えないように楽しい話題を選んで、美穂子に話して聞かせた。その笑顔の下では言葉にし難い感情が渦を巻いていた。
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その頃、叶夢は自室の勉強机で一人ため息をついていた。机には可愛らし小物やらアクセサリーが所々に飾られている。
「一度はもういいって思ったのに……向日葵ってば、なんで戻ってきちゃうのよ。その上、詞葉たちとあんなに楽しそうに野球の話しちゃってさ……あんなの見せられたらアタシだってまた野球したいって思っちゃうじゃない。本当なら今日、七乃たちに話してもうやめてたはずだったのに……」
叶夢は、左手で頬杖をつきながら、右手に持った野球ボールを悲し気に見つめる。
「野球は続けたい。でもこの肩じゃ、県内でもトップクラスのうちのチームで一軍を勝ち取るのは難しい……多分、このまま今のチームにいたら、ずっと二軍のままだ。そしたら、今まで一軍で一緒に戦って来た皆のことを外から見守ることしか出来ない……ダメダメ! そんなの絶対惨め過ぎる!」
叶夢は言いながら首を左右に激しく振って、思い浮かべた悲惨な未来を振り払う。小さく息を漏らし、叶夢は腕を組んでその上に顎をのせるようにして机に突っ伏して呟く。
「そんなことになるなら、いっそ野球部に……。でも、向日葵は約束を守れなかったアタシを許してくれるかな……しかも、みんなの前であんな八つ当たりみたいなことまで言っちゃったし……。そもそも、今のアタシを必要としてくれるかすらわからない……あー! もう! どうすればいいのよー!」
叶夢は言いながら天を仰いだ。その日、叶夢は悶々と悩み眠れぬ夜を過ごした。