7球目 翼を失った天使
「あらあら、こんな所にいたのね~」
現れたのは琴音だった。
琴音は傘を広げると、叶夢の所まで歩み寄る。
「もう始業のチャイムはとっくに鳴ったわよ。みんな心配しているわ」
琴音が言いながら叶夢を傘の中へ入れる。
すると叶夢は、ゆっくりと琴音を見上げた。雨が顔中を濡らし叶夢の涙を隠していたが、泣き腫らした目を見た琴音は事情を察した。
「何か、悲しいことがあったのね」
「先生……うぅ……」
琴音は、優しく微笑むと叶夢の頭を撫でる。それに抵抗することなく、叶夢はされるがまま身体を振るわせて嗚咽を漏らした。
「先生がついているから、もう大丈夫よ。さぁ、このままでは風邪をひいてしまうわ。保健室に着替えがあるはずだから、一緒に行きましょう。そこまで歩けるかしら?」
「はい……」
琴音は、理由を詮索することも叶夢を咎めることもなく、ただ優しく声をかけた。
叶夢は、弱々しく返事をすると、二人は保健室へ向かった。
二人が保健室に入ると、室内は静まり返っていた。琴音は辺りを見渡す。
右側には養護教諭用の机と、椅子が数脚。その奥には、薬やら着替がしまってある引き出し付きの収納棚が置いてある。左にはベッドが五台と、それを仕切るレールカーテンが備え付けられている。
琴音は誰もいない事を確認すると、叶夢に声をかける。
「あら? 誰もいないみたいね。少し待っていてちょうだい」
そう言うと、琴音は叶夢を椅子へ座らせ、着替えを探しに奥の収納棚へと向かった。叶夢は、何も言わずに着替えを探す琴音を見つめていた。
「確かこの辺りに……あったわ」
琴音は、着替え用の下着と運動着、タオルを持って叶夢の元まで戻ると、それを差し出す。
「じゃあ、これに着替えて、落ち着いたら今日はそのまま早退していいわよ」
叶夢は、無言でそれを受け取った。何も言わずに俯く彼女に、琴音は話を続ける。
「午後は新しい係を決めたりするホームルームだけだから、心配しなくても大丈夫よ。荷物は七乃ちゃんにでも持ってきてもらうから、それまでベッドで休んでいるといいわ。それじゃあ、先生は戻るわね」
笑顔でそう言い立ち去る琴音に、叶夢が声をかける。
「先生!」
「あら、どうしたの?」
琴音は、その声に足を止め振り向いた。優しく微笑む琴音に、叶夢は震えた声ですがるように訴える。
「まだ……行かないで……」
「わかったわ」
琴音は、穏やかな表情で目を閉じると、ゆっくり頷いた。
「でも、先に着替えてしまいなさいね」
「はい」
叶夢は、少し安心した表情を浮かべ、ベッドのある方で制服を脱ぎ始める。静まり返った保健室には、服の擦れる音と、二人の息遣いだけが聞こえている。脱ぎ終えると、タオルで身体を拭いていく。柔らかなタオルが雨で冷え切った身体を優しく温めてくれる。
着替えを終えると、叶夢はベッドへ腰を降ろし、レールカーテン越しに椅子に座って待ってくれている琴音に話しかける。
「先生……」
「なぁに?」
「少し、話を聞いてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろんよ」
琴音が快く返事をすると、叶夢はゆっくり話し出す。
「あるところに一人の天使がいました。その天使は、毎日の様に仲間たちと空を飛びまわって遊んでいました。しかしある日、翼をケガして飛べなくなってしまいます。それから翼を失った天使は、楽しそうに飛びまわる仲間の天使を地上から見上げて過ごしました。毎日毎日……遠くで見上げることしか出来ません……」
琴音は、口を挟まず目を瞑って叶夢の話を聞き続ける。
「それが辛くなった天使は、仲間たちの元からいなくなることを決めました。でもそんな時、事情を知らない仲の良かった天使が、遊びに誘ってきたんです。ですが、翼を失い一緒に遊べなくなった天使は、誘ってくれたその天使に辛く当たってしまったんです。そして、そのまま二人の天使はもう二度と会うことはありませんでした」
暫しの沈黙の後、叶夢は立ち上がり、カーテンを開けて琴音の前へ姿を現す。
「先生! 翼を失った天使は、どうすれば良かったんですか? 何をするのが正解だったんですか!?」
「うふふ。そうね~。一緒に遊べば良かったんじゃないかしら?」
涙を浮かべ、声を震わせ、飛び掛かりそうな勢いで言う叶夢に、琴音は笑顔を崩さずに答えた。
「その天使はもう飛べないんですよ! 一緒に遊ぶなんて……出来ないんですよ……」
「あら。それは誰が決めたのかしら?」
「……え?」
「翼が使えなくても、遊ぶ方法はたくさんあると思うのだけれど。一緒に走りまわったり、また空を飛んで素敵な景色を見たくなったら、お友達の天使さん手を引いてもらえばいいわ。それでは、ダメだったのかしら?」
「それじゃ……他の天使に迷惑ばかりかけちゃいます……」
叶夢は俯き、悲痛な表情を見せる。
「それは、お友達の天使さんが迷惑だと言ったのかしら?」
その言葉に、叶夢はハッとした。琴音に視線を向けて声を絞り出す。
「……アタシは……アタシは……」
上手く言いたいことが纏らずに握った手を震わせる叶夢。そんな彼女を落ち着かせる為、琴音は立ち上がると叶夢に歩み寄る。目の前で立ち止まった琴音は、叶夢と目線を合わせる様に屈むと優しく話しかける。
「すぐに答えを出そうとしなくてもいいのよ。ゆっくり考えて、最後にあなたが笑顔でいられる答えを見つけてね」
「うぅ……先生……」
優しく微笑む琴音。叶夢は、いろいろな感情が沸き上がって来て耐えられなくなり、琴音の胸に顔を埋めて抱き着いた。
「あらあら。今日の叶夢ちゃんは甘えん坊さんね」
叶夢は、暫く琴音の胸を借りて涙を流し続ける。声が廊下に響くのも気にせず、溜めこんだ物を全部吐き出すように声を上げて泣き続ける。
琴音は、そんな叶夢が泣き止むまで優しく抱き止めていた。
一頻り涙を出し切った叶夢は、琴音から離れると、右腕で目を擦り薄っすら残った涙を払い穏やかな表情を見せる。
「先生……ありがとうございました」
「うふふ。どういたしまして。いつもしっかり者の叶夢ちゃんがこんなに甘えてくれて、先生嬉しかったわ」
「そ、その言い方、恥ずかしいからやめてください!」
叶夢は顔を赤く染め抗議する。
「あらあら。恥ずかしがらなくていいのよ。生徒は先生に甘えるものだもの」
「うぅ……」
実際、琴音を独り占めして存分に甘えていた叶夢は、それ以上言い返せなかった。顔を赤らめつつ不本意そうな表情で目を逸らす。
「それじゃ、先生はそろそろ行くわね」
「あっ、はい。わかりました」
琴音が立ち去ると、叶夢はベッドへ身を投げた。
「翼がなくても遊ぶ方法はいくらでもある……か」
叶夢は、一人呟き天井を見上げる。暫くそのまま考え込んでいた叶夢は、いつの間にか眠ってしまっていた。
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その日の夕刻。学校近くのファーストフード店には、クラブチームの練習帰りの二人の少女の姿があった。
「向日葵ちゃん、本当に戻ってきちゃったねぇ」
両手で頬杖をつきながら向かい側に座る少女にほわほわした口調で話しかけるのは、元サンフラワーズのメンバーの【鹿沼結花】。セミロングの髪をおさげにして前に垂らしている。温厚そうな顔立ちが印象的な少女だ。
「うん。ちょっと面倒なことになってきたねー。早めに手を打たなきゃ」
ジュース片手にイタズラっぽい笑顔で八重歯を覗かせて答えたのは、同じく元サンフラワーズのメンバーだった【今市七乃】だ。ショートヘアーでやや釣り目の彼女の表情は、どこか小悪魔的な印象を与える。
「手を打つって、叶夢ちゃんのことぉ?」
「もちろん! せっかく取り戻したのに、向日葵の奴に邪魔されたくないからね」
「うん……でも、どうするのぉ?」
結花が首を傾げると、七乃がにやりと笑い答える。
「賭けはウチらが勝ったんだ。叶夢だってもう強気には出られないはず。後は、余計な事を吹き込まれない様に、叶夢を野球部の連中と近づけない様にするよ」
「わかったぁ。野球部が廃部になれば、もうそんな心配しなくて済むもんねぇ。それまで頑張ろぅ」
結花が胸元で両手を握って笑顔を見せる。
「うん。もう向日葵の好きなようにはさせない」
七乃は、残ったジュースを飲み干すと、それをテーブルに乱暴に置いて不気味に笑った。