3球目 親友のぬくもり
予鈴が鳴り響き、呆然と立ち尽くす向日葵を現実へと呼び戻す。
押し寄せる不安の波を振り払うように頭を振って、気持ちを落ち着ける。
「と、とにかく、先ずは職員室に行かなきゃ」
向日葵は上履きに履き替えると、足早に職員室へと向かう。
もうすぐ職員室に着くというところで、ガラガラと職員室のドアが開く。そして、中から一人の女性が姿を見せた。
髪はウェーブのかかったセミロング、背丈は美穂子と同じくらいだろうか。柔らかな表情で、どこかほわほわした雰囲気を持った女性だ。
向日葵は、一目でその女性が誰なのか分かった。彼女にとって忘れるはずもない、友人を除けば一番会いたかった人物だ。
「あっ、琴音姉! おはようございまーす!」
向日葵が沈んだ気持ちを隠すように精一杯の笑顔で声をかけると、その女性がこちらへ振り向く。
彼女の名は【壬生琴音】といい、かつて向日葵の担任をしていた教師だ。
「――あらあら~。向日葵ちゃん、久しぶりね。入れ違いにならなくてよかったわ~。向こうでも元気でやっていたかしら?」
少し……いや、かなりおっとりとした口調で琴音がにこりと返事をする。
琴音は見た瞬間、すぐに向日葵だと気がついたようだ。
「もちろん! 元気で野球しまくってたよ!」
「うふふ。相変わらず野球が大好きなのね」
「えへへ。あのさぁ、琴音……」
「ん? 何かしら?」
先程の叶夢が言った言葉が胸に引っ掛かり、琴音に野球部の事を訊こうとしたが言い出せなかった。答えを聞くのが怖かったのだ。
「ううん。何でもない」
向日葵は笑顔で首を横に振り、その場をやり過ごす。
「そう? 心配な事があるなら、何でも相談しなさいね」
「はーい!」
「うふふ。さぁ、それじゃあ教室に行きましょうか。みんなにはまだ内緒にしてあるから、二人でビックリさせちゃいましょう」
「……あれ? ってことは担任の先生ってまた琴音なの?」
「えぇ、そうよ」
向日葵の疑問に琴音は笑顔で答える。
「やったぁ! ねぇねぇ、琴音早く行こうよ」
「はいはい。でも、廊下は走っては駄目ですよ」
「はーい」
この朗報に向日葵は少し気持ちが軽くなるのを感じ、嬉しさのあまり、走り出そうとする。それを、琴音が優しく制止すると、向日葵はにひひと笑いながら誤魔化し歩き出す。
二人が、五年一組の教室の前までやってくると、琴音が口を開く。
「それじゃあ、私が呼ぶまでここで待っててね」
「はーい」
向日葵は琴音の言葉に、教室内に聞こえないよう小さく答えた。
琴音が教室へ姿を消すと、先程までの不安が蘇ってくる。
(叶夢、やっぱり私が転校したの怒ってるのかな。……他のみんなも怒ってたらどうしよう)
かつての仲間の反応が気がかりで、向日葵の鼓動は教室のみんなに聞こえるのではないかと思える程に大きく脈打っていた。
「はいはい。おしゃべりはそれくらいにして、委員長さん号令お願いね」
「はい。起立……礼」
『おはようございます』
委員長の号令に続いてみんなの声が一斉に響いた。
「着席」
ガタガタとイスを引く音が静まるのを待ってから琴音が口を開く。
「みんな夏休みの間は元気にしていたかしら? 今日から二学期が始まります。二学期は行事も多いので頑張っていきましょうね」
『はーい!』
「いい返事ですね。――それでは、出欠確認の前に、今日はみんなに特別なお知らせがありま~す」
琴音の勿体つけた感じの言い方に教室がざわめき出す。
「こらこら、静かに~」
みんなが静まったのを確認して、琴音が再び話し出す。
「なんと、今日からこのクラスに新しいお友達が来ま~す」
と、楽しそうな琴音の声が聞こえたと思ったら、教室内は一気に騒がしくなる。
「え? なになに? 転校生?」
「マジ? 男? 女?」
「女の子だったらいいなー」
「きゃー、カッコイイ男の子だったらどうしよう」
さまざまな声が聞こえてくるが、向日葵はそれどころではなかった。不安に押しつぶされそうになりながら琴音に呼ばれるのを静かに待った。
「はいは~い、静かにしましょうね~。……それじゃあ、入ってきてちょうだい」
琴音がゆったりとした口調で注意すると、静かになるのを見計らってから向日葵を呼ぶ声が聞こえた。
向日葵はそれに従い教室のドアを開けると、ゆっくりと黒板の前に歩みだす。教卓のすぐ横まで歩を進めると、みんなの方に向き直る。次の瞬間、懐かしい風景が目の前に広がった。
横六列、縦五列に規則正しく机が並ぶ。ちょうど左奥は机はなく、右奥の左隣に空席が一つ。向日葵はそれを確認すると、恐らくそこが自分の席になるのだろうと思い、その隣に座る生徒を確認する。すると、ガタン! という音と共に、その席に座る少女が机に手を付き、勢いよく立ち上がった。
「……ひ、向日葵!?」
そこにいた少女は間違いなく、向日葵が一番大切に思う大親友【一宮優音】の姿だった。
小柄だがほどよく肉付きのよい、健康的な印象を与える容姿に、くりくりとした大きな瞳が子犬のそれを思わせる。もともと幼い顔立ちだが、少し長めのショートヘアに左側だけちょこんとサイドアップにしている髪形が幼さに拍車をかけている。
優音が驚くその様は、まるでクリスマスの深夜に目を覚ましたら、プレゼントを置きに来たサンタを見てしまったかの如く目を丸くしていた。
しかし、この時点では、叶夢と優音以外の生徒は目の前の転校生が向日葵だとは思えなかった。向日葵は、それくらい転校前よりも成長していた。半信半疑の生徒たちは、互いに顔を見合わせている。
「優音、ただいま」
向日葵は笑顔で優音に声をかけた。
それを見た優音は、待ちきれないといった様子で向日葵の元へ駆け寄ると、その勢いのままに向日葵の首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。それと同時に、優音のミルクのように甘く優しい香りが向日葵の鼻腔をくすぐる。
「ホントに向日葵なんだよね? 夢じゃないんだよね?」
「もう、優音ってば、そんなに心配しなくても夢じゃないから大丈夫だよ」
「だって、こんなに早く会えるなんて思ってなかったんだもん。向日葵、会いたかったよ」
優音は言いながら、向日葵の胸元に顔をすり寄せてくる。その瞳にはうっすらと輝きを放つ雫を浮かべていた。
「あたしも、会いたかった」
向日葵は、叶夢の時とは違う優音の反応に安堵し、目頭が熱くなる。そのまま優音の頭を優しく撫でた。
「優音、あたしがアメリカ行ったの怒ってない?」
「そんなことあるわけないよ。だって、わたし向日葵のこと大好きだもん。ずっと待ってた」
とても安心する声だ。幼さの中にも透き通った透明感のある声。この世界に妖精という存在がいるとしたら、こんな声をしているのだろうか。向日葵はそんなことを感じながら瞼を降ろした。
優音の言葉と温もりに、先程までの不安は完全に払拭された。向日葵は優音の存在を噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「よかった。あたしも大好きだよ、優音」
向日葵と優音が、昔と変わらぬ互いの気持ちを確かめ合っていると、そんな二人を黙って見守っていた琴音が口を開く。
「うふふ。感動的な再会で素敵だわ~。でも、そろそろ終わりにしてくれないと、ホームルームが終わってしまうわ。それに、みんなも目のやりどころに困っているみたいよ」
その言葉に、二人は我に返り今の状況を把握するのに数秒の時間を要した。
優音は、向日葵から離れ後ろを振り向くと、みんなの視線が自分たちに集まっている事に気がつき、顔を真っ赤に染めて慌ててその場を誤魔化そうとする。
「ふぇ!? あわわわ、えっと、その、あの……」
上手く言葉が出ない優音に変わって向日葵が口を開く。
「あははー。ちょっと見せつけ過ぎちゃったかなー。あっ、優音は、あたしの嫁だから手を出したらダメだぞ」
向日葵は恥ずかしがる様子も見せずに、みんなに向かって人差し指を突き立てて言い切る。それを見て優音が慌てて抗議する。
「ち、ちょっと向日葵! 恥ずかしいからやめてよぉ」
「あはは。冗談だよ、冗談」
「もぅ!」
「優音の方から抱きついて来たのに、照れちゃって。かわいいんだからー」
「そ、それは……はぅ~」
向日葵がからかいながら優音の額をツンツン突く。すると優音は、羞恥のあまり両頬に手を当て顔を逸らす。
「あらあら、相変わらず二人は仲良しさんね。じゃあ向日葵ちゃん、そのまま挨拶も済ませてちょうだい」
「はい! えっと、今日からまた、このクラスで一緒に過ごせる事になりました! みんなよろしくね!」
向日葵が笑顔で言うと、教室が騒めく。向日葵に掛けられる声の大半は温かく迎えてくれていることが伝わってくるものだった。
……数名を除いては。