1球目 プロローグ
約二十年前、女子野球界を揺るがす伝説が誕生した。
全国女子小学生野球大会。その舞台に突如として現れた9人の少女たち。彼女たちは、無名校チームでありながら圧倒的な強さで、その頂まで上り詰めた。
そして、全国常連校や強豪校と呼ばれるチームを相手に生み出された数々の大会記録。それは、その後二十年間、なに一つ破られることはなかった。
その偉大なる功績を称えられた彼女たちは、天使の様な笑顔を振り撒き、華麗なプレイでグラウンドを舞う姿から、誰からともなくこう呼ばれていた。
『エンジェルナイン』
そして今ここに、新たな伝説の幕上げを告げる、一人の天使が舞い降りた。
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エンジェルナイン。女子野球界に突如として現れ、小学六年生にして数々の伝説を築き上げた九人の少女たち。
エンジェルナインは高校進学と共に解散となったが、彼女たちの活躍によって女子野球人気は一気に過熱することとなる。
その結果、今から十一年前。解散後も活躍を続けたエンジェルナインのメンバー数名を中心に日本の女子プロ野球リーグが創設されることとなった。そのリーグは、女子野球人気のきっかけを作ったエンジェルナインに因んでエンジェルリーグと名付けられた。
女子プロ野球は、男子のそれに比べると、よりエンターテインメント性の高いものになっていて、選手達はみなアイドルのような扱いだ。実際、人気選手になればアイドル活動を兼業する者も少なくはない。
観戦チケットは毎日のように完売し、球場には、まるでトップアイドルのコンサートにでも参加するかの如くファンが押し寄せ、それによる経済効果は計り知れない。
彼女たちの野球をする姿は、まるで地上に舞い降りた天使の様だと称賛された。
この女子プロ野球リーグの成功と、女子野球の競技人口の大幅増加を受けて、エンジェルリーグ創設から三年後、小学生から高校生までの女子野球大会は新たな形をとることになる。そして、それぞれがエンジェルリトル、エンジェルミドル、エンジェルハイと名付けられ、それらの総称をエンジェルトーナメントと呼んだ。
それまでの全国大会は、各地域の代表十六校が集って競い合っていた。それが、大会形式の変更に伴い、今では毎年夏になると各県の厳しい予選を勝ち抜いた代表五十六校が集い、日本一を決めるトーナメントが行われるようになったのだ。
今や、この大会は日本中を巻き込む一大イベントだ。老若男女問わず、多くの人が彼女たちのプレイに熱狂し、大会期間中は日本国内のどこにいてもお祭り騒ぎだ。
しかし、一方で、大会規模が大きくなった分、少女たちの頂点を目指す争いは、より熾烈なものとなっていた。今では、多くの野球少女が優勝の栄冠を手にするべく、互いに切磋琢磨している。
これは、そんなエンジェルリーグの誕生と共に産声を上げた少女たちの、野球への情熱と仲間との絆、たった一つの白球に込めた願いの物語である。
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――七年前。
そこは、歴史的瞬間を見届けようと押し寄せた多くの観客たちの熱気に包まれていた。割れんばかりの声援が、球場内の空気を震わせる。
横浜ベイスタジアムでは、男子プロ野球リーグの日本シリーズ第七戦が行われていた。
三年連続の日本一を目指す、横浜アクアマリンズ。対するは、この2年間マリンズに苦汁を飲まされてきた、福岡スカイホークス。
総力戦となった戦いは熾烈を極め、最終戦までもつれ込んだ。しかし、ここまで白熱した死闘も、終わりを迎えようとしていた。
九回の裏、二死満塁。一発が出ればサヨナラの場面。
先攻のホークスは自慢の強力打線でここまで四点を挙げ、盤石の投手リレーでマリンズ打線を1点に抑えている。
一方のマリンズは絶対に負けられないこの大一番を、第一戦を完封勝利、第四戦を一失点の完投で勝利に導いたシーズン最多勝のエース【戸塚光希】に託した。しかし、さすがに疲労の色を隠せないエースは九回を投げて四点を失う。満身創痍で奮闘するエースを何とか援護したいマリンズ打線であったが、それも叶わず三点を追う苦しい展開だ。
そんな緊迫感に満ちた球場のスタンドに、一人の少女がいた。
「ねぇママ。パパ、負けちゃうの?」
「大丈夫よ。パパたちは強いわ。だから、パパに届くように大きな声で応援してあげてね」
少女は心配そうな面持ちで尋ねる。母親は、そんな我が子を安心させようと笑顔で答えるが、表情に不安の色は隠せない。
「うん! パパー! がんばれー!!」
「あなた……頑張って……」
母親の「大丈夫」という言葉に安心したのか、少女は無邪気に声援を送る。あらん限りの力を込めて。その隣で母親は、祈るように手を組み、目を瞑っている。もう見ていられないのだろう。
バッターはマリンズの四番、二回裏にソロホームランを放っている【真岡英雄】だ。対するピッチャーはホークス守護神の鹿原。
フルカウントから二球続けてファウルで粘る。
八球目……鹿原は渾身の力で白球をキャッチャーのミット目掛けて投げ込んだ。決め球のフォークボールだ。140キロを超えるその球は、打者の手元でガクンと落ちる。内角低めのストライクゾーンギリギリの完璧な球だ。
しかし、英雄はそれを読んでいた。空間を切り裂くような鋭いスイングで内角の難しい球を真芯で捉える。彼は神主打法の使い手だ。バットコントロールが難しい分、手首を十分に使える為、ボールを捉えてさえしまえば長打力がある。
打球は美しい放物線を描き左中間の方向へぐんぐん伸びる。その白球はファンの声援を追い風にそのまま場外へ消えていった。
その刹那、球場は静寂に包まれたかと思うと、間も無く地を揺るがすような歓声が上がる。
「うわぁ……パパすごい! かっこいいね! ママ!」
「そうね。パパは私たちの英雄ね」
「ヒーロー……うん!」
少女は感嘆の声を上げ、キラキラと目を輝かせて、ダイヤモンドを誇らしげに走る父の姿に見入っている。その隣では、母親がうっすらと涙を浮かべていた。
「ママ! あたしもパパみたいになりたい! バーン! ってボール打つの! それで、ヒーローになる
!」
「うふふ。そうね。いつかあなたも、パパみたいになれるかもしれないわね。あの人の子なんですもの」
屈託のない笑顔で夢を語る少女。そんな彼女に母親は、愛する夫、英雄の姿を重ね見ていた。
この光景は、少女にとって忘れられない記憶になった。そしてそれは、彼女の物語を大きく動かす歯車の1つとなったのだ。
そして、時は流れる――
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「――帰ってきたんだ」
小高い丘の上にある公園の展望デッキに一人の少女がたたずんでいる。彼女はそこから見える、かつて自らが住んでいた街並みを眺めていた。
「変わってないな……」
そんな言葉と共に彼女はにこりと微笑んだ。
かわいらしい花柄がプリントされたTシャツの胸元に付いたビジューが、夏の夕日にきらりと輝く。展望デッキの木製の低めの柵に手をつき彼女が足を浮かせ身を乗り出すと、ワインレッドのフレアスカートがひらひらと揺れる。
八月も終わりだが、夕方といえどまだまだ蒸し暑い。そんな暑さを忘れさせてくれるような優しい風が、彼女の腰上まで伸びた艶やかなストレートの髪をさらさらと撫でる。
「いよいよ明日か。早くみんなに会いたいな」
――そう呟くと、彼女はぴょんと柵から飛び降りて自分の家へと走り出した。
かつて、共にこの地を駆け回って遊んだ友人たちの顔を思い浮かべながら――