10球目 本当の気持ち
その頃、叶夢はいつもの様に【永十自然公園】に来ていた。ここで朝練をするのが毎日の日課になっているのだ。
この自然公園は、宿泊施設が併設されていて、他にも子供たちの教育の為にさまざまな設備が備え付けられている。永十小学校でも、宿泊学習などで毎年のように利用している、とても規模が大きい公園だ。また、敷地内には野球グラウンドやサッカーグラウンドも完備してあり、付近の住民は自由に利用することが出来る。
叶夢は、いつもと同じようにストレッチをした後に走り込みをする。今までなら、ここで壁に向かってボールを投げ込むのだが、ここ最近は行っていない。その代わり、走り込みを終えた叶夢は、バックネット際で素振りを始めた。
誰もいない静かな公園に、バットが空を切る音と、叶夢の息遣いだけが聞こえる。額に汗を滲ませて、迷いを断ち切るかのように無心でバットを振り続ける。百回を超えようかというところで、遠くから叶夢の名を呼ぶ声が聞こえて、彼女は声のする方へ振り返った。その先に見た人物に、叶夢はハッとした表情を見せる。
「向日葵? どうして……」
叶夢が驚きと戸惑いの入り混じった声を漏らすのを尻目に、向日葵は満面の笑みで手を振り、叶夢の名を叫びながら駆け寄ってくる。
「はぁ……はぁ……やっぱり……叶夢だった」
「向日葵、なんであんたがここにいるのよ」
荒い息遣いで膝に手を置き呼吸を整えながら言う向日葵に、叶夢が不機嫌そうに問いかけた。
「ちょっと早く目が覚めちゃったからランニングでもしようかなーと思って。そしたら叶夢を見つけたから全力ダッシュしてきた!」
「なによそれ」
向日葵がグッと親指を立てて笑顔でウィンクして見せると、叶夢は呆れた様子で答え、一つため息をついた。
「用がないなら練習の邪魔だから帰ってちょうだい」
「えー! 今来たばっかりなのにー。ちょっと話するくらい良いでしょ?」
口を尖らせる向日葵を無視して、叶夢は再びバットを振り始める。
「昨日は七乃たちに邪魔されちゃったけど、あたしまだ叶夢の本当の気持ち聞いてないもん!」
向日葵は語尾を強めて訴えると、その声に叶夢は手を止めて右手に握ったバットを下ろす。そのまま一度だけ横目で向日葵を見ると、すぐに顔を背けて口を開く。
「だったら……なんだって言うのよ……」
「ちゃんと話してほしい。どうしてクラブチームに入ったのか。あたしには、クラブチームの方が環境がいいって理由だけで叶夢が約束を破るなんて思えない」
向日葵が声色を真剣なものに変えてそう言うと、叶夢はそちらに向き直る。二人が視線を合わせると、一時の静寂がその場を包み込んだ。
叶夢は、目を閉じて一息おくと、再び向日葵と視線を絡ませ口を開く。
「七乃と結花を野球部へ連れ戻す為にクラブチームに入った……そう言ったら信じる?」
「え……それってどういう……」
「信じるわけないわよね。こんなの言い訳にしか聞こえないもの」
困惑の表情を見せる向日葵に冷たく言い放つと、叶夢は荷物の置いてあるベンチの方へと歩き始める。
「ちょっと待って! 信じる! 信じるから行かないで!」
「嘘よ……そう言ってアタシに野球部に戻ってほしいだけでしょ?」
向日葵が一歩踏み出して呼び止めると、叶夢は立ち止まり俯いたまま振り向かずに答えた。
「違う! あーいや、野球部に戻ってほしいのは違わないけど、叶夢を信じてるのはホントだもん!」
「アタシは、結果的にあんたたちを裏切ったのよ? あんな酷いことまで言ったのに……どうして信じられるのよ!」
向日葵の必死な声色に叶夢は振り返り声を荒げる。その瞳には薄っすら涙を浮かべていた。
「だって、叶夢は大切な仲間だもん! あたしは信じてる」
「なんでそこまで……」
「仲間を信じるのに理由なんていらないでしょ? それに、大切なのは叶夢が今どうしたいかじゃないかな?」
「今……どうしたいか?」
「うん」
向日葵がにこりと微笑んで見せると、叶夢は唇を噛みしめて俯く。数秒の沈黙の後、叶夢は弱々しい口調で話し出す。
「もし……もしもアタシが野球の才能なんて全然ないダメな選手だったとしても、向日葵は今と同じようにアタシを連れ戻そうとしてくれた?」
「そんなの当たり前じゃん! そりゃー叶夢はウチのエースだったんだし、チームにいてくれたら頼もしいけど。でも、そんなの関係なく、あたしは叶夢と一緒に野球したいな」
「アタシは……アタシは……」
はっきりと答えた向日葵の優しい言葉に、叶夢は声の震えを堪えながら呟いた。
(今のアタシでも受け入れてくれるなら……アタシも……向日葵たちと一緒に野球をしたい!)
叶夢は言いたいことを口に出せずに心の中で叫んだ。
「あたしの気持ちは伝えたから、今度は叶夢の番。叶夢の気持ち、聞かせてほしいな」
向日葵に真っ直ぐな笑顔を向けられ、耐えられなくなった叶夢は目を逸らす。
(向日葵……昔となんにも変わってない……仲間思いで、バカみたいに正直で。アタシも、向日葵みたいに素直に自分の気持ちを伝えられたら……。一言……たった一言、野球部に戻りたいって言えばいいだけ。……よし!)
叶夢は、心を落ち着ける様にゆっくり深呼吸すると、握りしめたバットの先を向日葵に向けて言い放つ。
「そんなにアタシを野球部に連れ戻したいなら、アタシと勝負しなさい!」
(ちがーう! そうじゃないでしょ! アタシのバカバカバカー!)
叶夢は、表情には出さないものの、思ってもいない事を口走った自分に心の中でツッコミを入れた。
「勝負?」
叶夢は、右手のバットを降ろし左手を腰に当て向日葵の疑問に答える。
「そ、そうよ。アタシに勝ったら野球部に戻ってあげてもいいわ」
「えー! なんでそうなるのー!? 確かに久しぶりだし、勝負はしたいけど、それは叶夢が野球部に戻ってからでも……」
「なによ? 負けるのが怖いの?」
「そ、そんなことないもん!」
叶夢が挑発的な表情を見せると、向日葵は頬を膨らませて言い返した。
「それなら問題ないじゃない。それで、やるの? やらないの?」
「やるよ! あたしが勝ったらちゃんと野球部に戻って来てよね!」
「ええ。もちろん」
「それで、どんな勝負をするの?」
「アタシの投げる球を三球中、一球でもフェアゾーンに打ち返したら向日葵の勝ちよ。もちろん、ボール球はカウントしないわ。セルフジャッジになるけど問題ないわよね?」
「わかった、それでいいよ」
「決まりね」
叶夢が満足そうな笑みを浮かべてバットを差し出すと、向日葵はそれを無言で受け取った。
「それじゃ、さっそく始めましょう」
叶夢はグローブをはめ、ボールを三球持つとマウンドへ向かった。それに合わせて向日葵もバッターボックスへと歩を進めた。
落ち着いた表情の叶夢だが、内心は複雑な想いだった。
(どうしてこうなっちゃったのよー! これで勝っちゃったら、野球部に戻る口実なくしちゃうじゃない! でも、手を抜いたら向日葵は絶対気がつくだろうし……)
叶夢は大きくため息をつくと、右バッターボックスに立つ向日葵を見据えた。スタンダードに構える向日葵から放たれる気迫に叶夢は思わず息をのみ口元を緩ませる。
(ふふ。凄い威圧感ね。不思議だわ……さっきまで手を抜いて負けることを考えていたのに、今はアタシの本気の球で勝負したいと思ってる)
向日葵の気迫に答える様に、叶夢も自然と勝負師の表情へと変わっていた。
「準備はいい?」
「いつでもいいよ!」
叶夢は、向日葵からの返事を聞くと、ワインドアップポジションで構える。
「それじゃあ、いくわよ!」
叶夢はそういうと、ゆっくり振りかぶる。そのまま流れるようなフォームで右手を振り抜いた。
放たれたボールは、ど真ん中から外角低めに鋭く曲がり、向日葵のバットは空を切った。
「ふふ。先ずは一球ね」
「むぅ。速い……相変わらず凄いカーブ投げるね」
「これがクラブチームで鍛えた成果よ」
「なるほどね。でも、あたしだってアメリカでいろんな強敵と戦ってきたんだから!」
「ふふふ。打てるものなら打ってみなさい」
二球目、似たようなコースへのスローカーブ。向日葵はタイミングをずらされるが、かろうじでバットに当て、ボールはフラフラっとファースト方向のファールゾーンへと落ちた。向日葵の反射神経に、叶夢は感嘆の表情を見せる。
「よく当てたわね。でも、試合だったらファールフライってところかしら」
「うぅ。凄い球速差……そんなのも覚えたんだ?」
「まぁ、これでも今のチームでもエースなのよ。これくらいはね」
「はは。そうこなくっちゃね! さぁ、次は打つよ!」
向日葵は笑顔で叶夢にバットを向けて言うと、ゆっくりと構えた。叶夢は、それを見て少し驚いたような表情を見せる。
(追い込まれたのに全然動揺してない……それどころかあんなに楽しそうに笑って。……そっか、向日葵は単純にこの勝負を楽しんでるんだ。ふふふ……それはアタシも一緒か。やっぱり、野球って楽しい)
叶夢はゾクゾクする感覚に思わず笑みを見せる。
既に叶夢には野球部に戻る云々というのはどうでもよくなっていた。今はただ、向日葵との勝負を楽しむこと、自分の最高の球を投げ込むことしか頭になかった。
叶夢は一つゆっくりと深呼吸して最後の一球を決める。
(この肩じゃアレは使えない……でも、今のアタシの全力を向日葵にぶつける!)
叶夢は「いくわよ!」と声をかけて投球モーションに入る。それに対して向日葵は「こい!」と答えて身構えた。
叶夢は、最後の一球に、初球と同じ高速カーブを選んだ。内角低めのストライクゾーンに鋭く入り込むコース。向日葵からしたら、目の前に来るまで自分に向かってくるように感じる難しい球だが、動じることなくギリギリまで引き付け真芯で打ち返す。
響き渡る金属音と共に弾き返された打球は、レフト方向へ大きく飛んでいった。
辺りを静寂が包む中、叶夢がそれを破る。
「ふふ……ふふふふ」
「どうしたの?」
「ううん。ちょっと嬉しくて」
「ん?」
向日葵は、不思議そうに首を傾げた。
(これで、アタシも迷わず前に進めそうよ。ありがとう、向日葵)
叶夢は、野球部へ戻れることも嬉しく感じていたが、それよりも自分の最高の球を向日葵が打ち返してくれたことの方が嬉しく思えた。この一打で投手への未練を向日葵が絶ちきってくれたように思ったからだ。
一息おいて、叶夢は微笑み口を開く。
「なんでもないわ。約束通り野球部に戻るから、よろしくね」
「ホント!? やった!」
向日葵は、叶夢の言葉を聞き嬉しさのあまりバットを放り投げてぴょんぴょん跳びはね、その勢いでマウンドへ駆け寄る。
「ただ、監督やチームメイトにも話さないといけないし、手続きとかもあるから、そっちに合流するのは来週になるわよ」
「うん! わかった。早くみんなに教えてあげなきゃ」
「それはいいけど、七乃と結花にはアタシから言うから、そっちには伝わらないようにしてよ?」
「わかってるよ。よーし! 叶夢も一緒にエンジェルナイン目指して頑張ろうね!」
「え?」
向日葵の言葉に叶夢は動揺した表情を浮かべた。廃部に寸前まで追い込まれてまでそんな目標を掲げているなんて思いもしなかったのだ。
「ちょっと待って、あんたそれ本気で言ってるの? 今アタシがいるストロベリーメイデンズでさえ県予選では準優勝止まりなのよ?」
「本気に決まってるじゃん! その為に帰って来たって言ったでしょ?」
「そう……だったわね……」
戸惑う叶夢をよそに、向日葵はなんの迷いも見せずに笑顔で答えた。
小さく息を漏らしながら、叶夢はゆっくり目を閉じた。
(本気……なんだ……。アタシ、なに考えてたんだろ。ただ野球部に戻ってみんなと楽しく野球が出来ればなんて……バカみたい。それじゃダメ……みんなに迷惑がかかる。向日葵たちがまだあの時の約束を果たそうとしてるなら、アタシも……覚悟を決めなきゃ)
叶夢は、目を開けると真剣な瞳を向日葵に向ける。
「わかったわ。アタシも、もう迷わない」
「じゃあ、仲直り」
「ええ」
向日葵は、右手で拳を握り突き出す。叶夢はそれに応えるように拳を合わせた。
二人の表情は、その日の空と同様に一点の曇りもなく晴れ晴れとしていた。
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その日、向日葵が学校に着くと、優音の席には既に詞葉と一愛が集まっていた。
「おっはよー! ふふふーん」
「あっ、向日葵ちゃん、おはよう」
「みぃー! おはよー」
「おはよ。どうしたの? そんなニヤニヤして、なんか良いことでもあった?」
詞葉が問いかけると、向日葵は満面の笑みで今朝の出来事を話し出す。
「実は今朝、叶夢と会って話したんだけど、野球部に戻って来てくれることになったんだ。来週中にはこっちに参加出来るって!」
「え? ホントに!?」
優音が驚きの声をあげると同時に、詞葉と一愛も驚きの表情を見せる。
「叶夢、昨日はあんな態度だったのに。いったい何があったのよ?」
「ん? えーと……そういえば結局、叶夢からいろいろ聞きそびれちゃったな。勝負に勝ったら野球部に戻ってくれるって言うから、勝負して勝ったんだけど」
「また、あんたはすぐ勝手に無茶なことするんだからもう」
「あはは~。だって相談してる余裕なんてなかったし、許してよー」
「まぁ、上手くいったのならいいけど。それにしても……どういうつもりなのかしらね……」
詞葉は、訝しげな表情で前の入口付近の席で友人と談笑している叶夢の方へ目を向ける。それに気がついた叶夢は、詞葉と視線を交えるが、何事もなかったようにすぐ友人の方へ向き直った。その反応に、詞葉は少し考え込む様な素振りを見せ、口を開く。
「まぁ、詳しい話は後でゆっくり訊きましょう。とりあえず、今日はあの二人を連れ戻さないとね」
「そうだね。せっかく叶夢ちゃんが戻って来てくれるのに、廃部にするわけにはいかないもんね」
「うん! 頑張ろう!」
優音の言葉に向日葵が答えると、予鈴が鳴り響いた。
「さぁ、先生が来る前に席に戻りましょ」
「みぃー! また後でね」
そう言うと、詞葉と一愛は、それぞれの席へと戻っていった。