9球目 二人の約束
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翌日の明け方。ベッドに横たわる向日葵はうなされていた。額には薄っすら汗をかいて、呼吸は乱れ苦悶の表情を浮かべている。
向日葵は夢を見ていた。
夕日の優しい光が包む公園。そこには、小学二年生時の向日葵と叶夢の姿があった。
『ねぇ、向日葵。本当に行っちゃうの?』
『うん。ごめんね。パパがダメだって』
『そっか……』
『大丈夫だよ! パパにお願いして絶対戻ってくるから!』
悲しそうに俯く叶夢に、向日葵が笑顔で声をかけた。
叶夢は向日葵の言葉で笑顔を取り戻す。
『本当に? 絶対だよ!』
『もちろん! それで、一緒に心奏を助けよう!』
『うん! じゃあ、約束』
『わかった。約束ね』
叶夢は小指を差し出すと、向日葵もそれに応え手を出した。二人は、小指を絡ませ合い指切りをすると、向日葵が口を開く。
『それまで、みんなのことよろしくね』
『任せといてよ! このチームを守れるのはアタシしかいないもんね。これも約束』
『あはは。ありがと』
二人は再び小指を絡ませる。
『うふふ。でも、早く帰ってこないとアタシたちだけでエンジェルナインになっちゃうかもよ?』
『えぇー! そんなー』
叶夢がいたずらっぽい笑顔で言うと、向日葵は困った表情を見せて声をあげた。
『ふふ。冗談よ。このチームには向日葵がいなきゃね』
『もう。叶夢のイジワルー』
叶夢が満足そう微笑むと、向日葵が頬を膨らませて拗ねた様子を見せる。視線を交わした二人は、同時に笑いあった。
そこで景色は歪み、視界が暗闇に包まれた。
『あれ? 叶夢? どこいったの?』
向日葵は周りを見渡すが、真っ暗で何も見えない。
『ここ……どこ……? 叶夢! どこに行ったの? 叶夢ー!』
向日葵の声だけが虚しく響く。暗闇に一人取り残された向日葵は俯き、叶夢の名前を呟きながら嗚咽を漏らす。
すると、後ろの方から声が聞こえた。
『向日葵……』
『え? 叶夢?』
声のする方へ向日葵が目を向けると、そこには五年生となった現在の姿の叶夢が立っていた。
『向日葵……ごめんね……約束、守れなかった……』
『え?』
『アタシ、もう向日葵と一緒に野球出来ない……』
『どうして!?』
『ごめんね』
そういうと、叶夢は向日葵に背を向けて歩き出す。
『叶夢! ちょっと待ってよ! 行かないで!』
向日葵は必死に走って追いかけるが、歩いているはずの叶夢の姿はどんどん遠ざかる。
『叶夢! 待って! 叶夢ー!』
向日葵はめいいっぱいの声で叶夢の名を叫んだ。しかし、叶夢は振り向いてはくれない。直後、、徐々に小さくなる叶夢の周りを、光が包んだかと思うと、その姿は闇へと消えていった。
そこで向日葵は夢から覚め、叶夢の名を呼びながら勢いよく上半身を起こした。
荒い息遣いのまま周りを見渡す。
「夢か……」
向日葵は、大きく息を吐いた。
「叶夢……」
向日葵は、机の上の写真立てに目を向ける。そこには、サンフラワーズのメンバー全員が笑顔で並んでいる姿があった。
(叶夢……。やっぱり、もう一度ちゃんと話そう)
向日葵は、拳を胸に当て決意を固めた。
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休み時間。向日葵はさっそく叶夢の席へ向かった。
「叶夢、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「向日葵……な、なによ? もう話しかけないでって言ったでしょ」
叶夢は一瞬、嬉しそうな表情を見せたが、すぐに辛そうに目を逸らした。
「叶夢、あたしに隠し事してない?」
「いきなりなんなのよ。別に隠し事なんてしてないわよ」
叶夢は、向日葵の方へ向き直ると不満そうな表情で答えた。
「ホントに? だったら、どうしてクラブチームにいるの? なにか事情があったんでしょ? ちゃんと話してよ」
「別にそんなのないわよ。ただ、クラブチームのがエンジェルナインになるのに都合がよかったってだけ」
「嘘だ。そんな理由で叶夢があたしとの約束を破るなんて思えない」
「そ、それは……」
向日葵の真剣な表情に、叶夢は悲しそうに唇を噛んだ。
「なにかあったんでしょ? 力になるから、教えてよ」
「……向日葵……アタシ……」
向日葵が優しく微笑むと、叶夢はすがるような声で答える。
しかし、それを遮るように向日葵の後ろから声がかかる。
「おい、向日葵! 叶夢が困ってるだろ!」
「いじめちゃダメだよぉ」
向日葵がその声に振り向くと、そこには七乃と結花の姿があった。
「あっ! お前は……イマイチなの!」
「そう、あたいはイマイチなの……って! フルネームで呼ぶなぁ!」
「あはは。いやぁ、お決まりだからやっといた方がいいかと思って」
身を乗り出すように繰り出した七乃の渾身の乗りツッコミに、向日葵は頭を掻きながら答えた。
「ったく。それじゃあたいがイマイチみたいじゃんか。いや、苗字は今市なんだけど……って! そんなの今はどうでもいいんだよ!」
「どうでもいいっていうわりにはノリノリだったよね」
「う、うるさい!」
向日葵の指摘に、七乃は少し頬を赤らめながら言い返した。
(七乃ちゃん、自分からフルネームで名乗っちゃってるし、実はこのやり取り気に入ってるのかなぁ)
そんなことを思いながら結花は七乃の隣りで、にこにこ二人の会話を見守っている。
七乃は気を取り直して話を戻す。
「と、とにかく! あたいらはもうお前らとは野球やらないって決めたんだよ!」
「そうだよぉ。しつこい女は嫌われちゃうよぉ?」
結花も七乃に同調して向日葵を突き放す言葉を投げかけた。
「むぅ。邪魔しないでよ!」
向日葵は、二人の言葉に腹を立てて頬を膨らます。
「邪魔なのはそっちだろ」
「うんうん。邪魔しちゃダメだよぉ」
言いながら七乃と結花は、向日葵の横を通り過ぎ、叶夢の元へ歩み寄る。
「あたいらはもう、お前らみたいな弱小野球部とはレベルが違うんだよ! だよな、叶夢?」
「ア、アタシは……」
「ほら、こんな奴ほっといてあっち行こう」
七乃は口籠る叶夢の手を引いてその場を離れる。叶夢は、向日葵の方を気にしつつも、七乃の言葉に「え、ええ」と答えて後をついていく。
「ちょっと待ってよ!」
「向日葵ちゃんはお呼びじゃないよぉ」
手を伸ばし追いかけようとする向日葵の前に笑顔で結花が立ちふさがった。
「結花! なんで邪魔するの?」
「だってぇ、わたしたちって、もう敵同士なんだよぉ? 叶夢ちゃんを渡すわけにはいかないもん」
「敵同士……」
「そうだよぉ。だから、叶夢ちゃんの事は諦めてねぇ」
「そんな……どうして……」
「そんなの、野球部なんかにいたらエンジェルナインになれないからに決まってるでしょ?」
結花はにこにこと表情を変えずに言った。
「そんなこと――」
「ないって言いたいのぉ?」
向日葵の言葉を結花が遮る。
「え?」
「向日葵ちゃんの言いそうな事くらいわかるよぉ。……わたしもね……そう思ってた。サンフラワーズのみんなと一緒なら大丈夫って」
そこまで言うと、結花は悲しそうな表情を見せる。
「でもね、そんなに簡単な事じゃないんだよ。わたしたちは本気でエンジェルナインになりたいの。だから……ごめんね」
そう言うと、結花は七乃たちの元へと去って行く。
「結花……」
向日葵は何も言えずにその後姿を見送ることしかできなかった。
一方の七乃は、叶夢を連れて自分の席に来ていた。
「それにしても向日葵の奴、やっぱり叶夢のこと説得しに来たな」
七乃は、言いながら乱暴に自分の席の椅子を引くと、そのまま腰掛けた。向かい側に黙って俯いたまま立っている叶夢に気がつき声をかける。
「ん? 叶夢、どうした?」
「え? あっ、なんでもないわ」
覗き込む様に言ってくる七乃に、叶夢はハッとした表情で顔をあげた。
「そっか。ならいいけど。そういえば、肩の調子はどう?」
「え? えっと……それは……」
「叶夢には早く一軍に戻って来てもらわなきゃ。ウチのエースなんだからさ」
「……そのことなんだけど……」
「ん? なに?」
(本当の事を言ったら、二人はアタシの事をどう思うんだろう……もう今までみたいにはいられなくなっちゃうのかな……)
叶夢は、二人の反応を考えると急に真実を言うのが怖くなった。
「いえ、大丈夫よ。心配しないで」
「なんだよー。そんな言い方されたら余計心配するだろー」
「ふふ。アタシを誰だと思ってるの? すぐに一軍に戻ってやるわよ」
「はは。そうこなくっちゃ! 来年こそ県予選優勝して、エンジェルリトルに行こうな」
「……ええ」
七乃の言葉に叶夢は作り笑顔で答えた。その笑顔の下で叶夢は、真実を告げられなかった罪悪感と、いつまで隠し通せるのだろうかという不安に胸を締め付けられていた。
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翌朝、向日葵は昨日と同じようにうなされていた。
苦しそうに呼吸を荒くし、額には汗を滲ませている。その苦悶の表情が一際険しくなったかと思うと、向日葵は飛び起きるように上半身を起こした。
「また……同じ夢……」
向日葵は、呼吸を整えるように大きく深呼吸をする。落ち着いたところで枕元のスマホを手に取る。
「まだ六時か……目覚めちゃったし、ちょっと走ってこようかな」
向日葵は、スポーツウェアに着替えると、部屋を後にした。一階のリビングに行くと、そこには美穂子の姿があった。
「あら? 今日は随分と早いのね」
「うん。なんか目が覚めちゃって。せっかくだから、ちょっとその辺走って来ようかなって思って」
「そう。気をつけて行ってくるのよ」
「は~い」
向日葵は美穂子に返事を返すと、そのまま家を出て当てもなく走り出した。