恋の狙い撃ち
これほどの、肌がひりつく様な逆境に陥ったのは、いつぶりだろうか。
これほどの、暴風雨のような理不尽にさらされたのは、いつぶりだろうか。
これほどの、全身の血流が、熱く踊り狂うような感覚は、いつぶりだろうか。
伊吹イブの、未踏の雪原のように白い肌は、ほのかに紅潮していた。
この絶体絶命の状況の中で、彼女の端正な容貌に浮かんでいたのは、紛れもなく歓喜だった。
どうすれば切り抜けられるか、どうすれば相手を叩きのめせるのか。
その頭脳は急速回転していた。
灰色の脳細胞は、喝采の声を上げながら、たった一つの冴えたやり方を見つけるために、スパークが起きそうなほどに生体電気を放つ。
本人に、その自覚はまったくないのだが。
イブは。
伊吹イブという少女は。
逆境を、そして理不尽を求めていた。
むしろ、それをいとおしく思えてさえいた。
今まで誰も、彼女を追い詰められなかったから。
今まで何も、思い通りにならないことなどなかったから。
この世の全ての事柄が、彼女の手の平の上を転がっていたのだから。
退屈だった。無為だった。倦怠だった。
もちろん、努力はしていた。
自分よりも優秀な人間はいくらでもいたし、その誰にも負けないよう努力はしていた。
しかし、こうすれば勝てる。ああすれば勝てる。彼女の頭脳には、悪魔のような頭脳には、全て、筋道が見えてしまっていた。
己の限界ぎりぎりに、擦り切れるまで、全てを使い果たしても、それでも勝ちが見えない強大な敵を欲していた。
試練を、苦難を、辛酸を求めていたのだ。
だから、初めて相対した強烈な理不尽に、彼女の眠れる魂が、覚醒を遂げようとしていた。
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乙女のキッチンコロシアムでは、悲喜こもごもの声が木霊していた。
「あはははーッ! あと、三分で何ができるのねーッ!」
「姐さん! 負けないでぇ!」
【もうだめビッチ! もうおしまいビッチーッ!】
しかし、イブには見下すような嘲弄も、切実なる応援も、諦めてしまった絶望の声も、何一つ届かなかった。
彼女が聞いていたのは、ただ耳を傾けていたのは自分の内なる声。
自分自身との会話。自分の中の六十兆の細胞一つ一つの声の聞く。
どうすればいいのか。どう戦うのか。
その答えが出た時、彼女は顔を上げた。桜色の唇が動き、そっと呟いた。
「……伊吹式パーフェクト恋愛術、『三分間クッキング』!」
その瞬間に、イブの脳内で、ドーパミンが、ベータエンドルフィンが、大量の脳内麻薬が分泌される。
彼女は自分自身の肉体との会話を繰り返した結果、脳内物質を自在にコントロールする術を持つ。
全ての脳細胞と、神経細胞の限界まで能力を引き上げる。
それにより彼女の体感時間は、ぐんと引き伸ばされる。
今から三分間、彼女はずっと『走馬灯』を見ているかのごとく、ゆっくりと時間が流れる。
これならば、たがが三分でも普段の五倍の作業量を賄えられる。
鋭敏に引き上げられた視覚野は、この空間を漂う塵の、一つ一つを視認することが出るまでに、高められていた。
強化した五感をフル活用して、今から三分で自分にできる最高の料理を作る。
しかし、それだけでは新房くいなの『卵かけご飯』には勝てない。
勝つためには、実際に料理を食べる斉藤エイジの味の好みを知らなければならない。
「伊吹式パーフェクト恋愛術、『乙女の熱いまなざし』!」
イブは強化した視力を持って、エイジを穴が開くほど見つめる。
急に超絶美少女でもあるイブに見つめられたエイジは、その身をよじる。
そして、イケメンは恥ずかしそうにギターをかき鳴らした。
「そんなに『ギャイン』、見つめられちゃ『ギュイン』、照れるぜベイベー『ギャンギャンギャイーン』!」
呑気な事を言っているエイジ。
だが、当然イブが見ていたのは、そんな表層的なものではなかった。
肌、体格、骨格、髪質、そして、細胞一つ一つに刻まれた年輪から、彼がどのような食生活送って来たか、分析・解析する。
相手のデータを丸裸にしてしまうのが、乙女の熱視線だ。イブの眼力に見破れぬものなど存在しない。
しかし、それだけでは足りない。
彼の送ってきた人生の核が見えない。
イブは右足を踏み込む。
「伊吹式パーフェクト恋愛術、『恋するルンルンスキップ☆』!」
次の瞬間、彼女の姿は消えた。
「えっ!?」
くいなは目を見開いた直後、自分のすぐ隣にイブがいることに気付く。
一瞬で、イブはくいなの恋人、斉藤エイジの側に移動したのだ。
恋する乙女のはやる気持ちは、百戦錬磨の格闘家でも見破ることは出来ないのだ。
(み、見えなかったのね!?)
驚愕するくいなを尻目に、イブは叫ぶ。
「伊吹式パーフェクト恋愛術、『耳かき』!」
恋人に一度はやってもらいたいのは、膝枕をされての耳かきだ。
しかし、暴力系ヒロインの耳かきはそんな甘々なものになるわけがない。
イブはエイジの耳の中に、人差し指を突き立てる。
「いっ『ギャン』!?」
エイジは悲鳴を発したが、イブの人差し指は構うことなく、エイジの鼓膜を突き破り、それは中耳にまで達する。
「な、何してるのねーッ!?」
「わぁあ! 姐さんが乱心したぁ!?」
【やめるビッチーッ! 暴力反対ビッチーッ!】
イブが、その指先で感じていたもの。それは脳内のシナプスを流れる微弱な電流。
脳に最も近い、耳の内部に指を突き刺し、内耳を直接触れることで、脳内の電気信号のやり取りを読み取るのだ。
限界まで強化したイブの触覚は、そこまで可能とする。
そうして、得られた電気信号を解読し、イブが知りうるのは相手の記憶だ。
「伊吹式パーフェクト恋愛術、『あなたのこと、全部、知ってます』!」
CIA(アメリカ中央情報局)を、KGB(ロシア国家保安委員会)を、SIS(イギリス情報局秘密情報部)を、恐れおののかせた技が。
いかなる拷問による自白の強要も耐えうる、世界各国のスパイたちをも震撼させた、イブのサイコリーディング術が今、白日の下に晒される。
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シンガーソングライター斉藤エイジは、母子家庭であり、幼少期は母親が働きづめだった。
無理がたたり、母親は若くして夭折する。エイジが十歳の時だった。
その後、天涯孤独になったエイジは、中学卒業まで養護施設で過ごし、上京する。
そこで、歌手として大成功をおさめるが、悲劇が彼を襲った。
脱税騒動だ。
彼は事務所に唆されて、脱税に関わらされたのだ。
ただの節税だと思っていたが、国税局からは悪質な脱税と判断され、スキャンダルとしてマスコミから叩かれることとなった。
すっかり傷心した彼は、謹慎期間として休業し、その間に母親と過ごした故郷、サンタナ市に戻ってきたのだ。
そこで、新房くいなと出会う。
複雑な家庭環境で過ごしていた、くいなは食べるものに困っていた。
裕福な現代日本において、『腹ペコヒロイン』が存在するということは大抵、複雑な家庭事情が背景にあるものだ。
同じく食べるのに困っていた青春時代を過ごしたエイジも、またそれを見過ごせなかったのだ。
小さなアパートで作曲をする彼の元に転がり込んだくいなは、エイジの作った飯を食べる。
それを見ながら、エイジは母親と過ごした日々を、楽しかった食卓を回想する。
そして、思ったのだ。
「おふくろの、手料理が食べたい『ギュイ~ン』……」、と。
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「見えた!」
イブはエイジの耳から、突っ込んでいた指を引き抜いた。
「エイジさん!」
どさっと倒れ込んだエイジをくいなが抱きかかえる。
七瀬とアダムも駆け寄った。
「鼓膜ならやぶれても、再生するよ!」
【はやく塩をかけるビッチ!】
二人はエイジの耳に、どっさりと塩を流し込む。
十キロ袋をどっさりと流し込み、耳から溢れ出した塩はエイジの顔面を塩で埋めた。
母なる海から作り出された塩は生命の源であり、海を臨むサンタナ市の特産物だ。
大抵の怪我なら塩をかければ治ってしまう。
この『情熱のサンターナ』においては塩は回復アイテムに当たるのだ。
塩をかければ大丈夫! それが、SHIOシステムだ!
七瀬は額の汗を拭った。
「ふう、危なかった。塩がなければ中耳炎とか悪い病気になるところだったよ」
【音楽家は耳が命! でも、聞こえなくなったら、それはそれで儲かるかも知れないビッチ!】
「アダム! それは言っちゃいけないよ!」
二人がかなりグレーゾーンなやりとりを行っている中で、イブは料理を作りはじめていた。
イブの極限にまで高められた嗅覚は、残された卵の中から、最も美味しい卵を正確に選び出す。
そして、鍋に水を入れ、コンロに火を灯す。
残り時間はもう少ない。
【イブさん! あと一分しかないビッチ! もう間に合わない! そんな時間じゃお湯も沸かせないビッチ!】
しかし、イブの目には迷いもない。
彼女には不可能なんて文字はない。恋する乙女の起こす奇跡を見よ!
「伊吹式パーフェクト恋愛術、『不安で震える夜、あなたがそばにしてくれたなら』!」
イブは鍋の取っ手を両手で握りしめる。
すると、瞬く間に鍋の水が、湯気を立てて、沸騰しはじめたではないか。
なんということなのか! 火にかけて、十秒も立っていないというのに!
「さすが姐さんだっ! もうお湯を沸かしてしまったよ!」
【どういうことビッチ!? あのコンロの火力ではありえないほど沸騰が早いビッチ!】
その秘密は、彼女の腕にある。
彼女の腕は、小刻みに震えていた。振動していた。
細胞単位で起こした振動は、鍋の取っ手を伝わり、水を振動させる。
それは、水そのものを揺らしてはいない。水分子を揺らしていたのだ。
電子レンジの仕組みをご存じだろうか。
レンジはマイクロ波を出すことにより、水分子を揺らし、加熱させるのだ。
つまり、イブはその腕を振動させることにより、マイクロ波と同じ波長を疑似的に再現し、鍋の水をあっという間に沸騰させたのだ。
ああ、なんと熱い乙女の情熱か! その柔肌の熱き血潮は、ひとたび触れれば火傷は必至なのだ!
そして、沸騰した水に卵を入れる。
【まさか、イブさんが作った料理って】
「そ、そんな、そんなシンプルなものでいいのかい?」
「ああ、これでいい。完成だ」
そこに、調理終了のブザーが鳴る。
イブが残りわずか三分で作った料理。
それは、ゆでたまご。
絶妙のゆで加減で作られたゆでたまごで、イブは勝負をかける。
しかし、そこに立ちはだかるは驚異の『腹ペコヒロイン』、新房くいな。
二度もイブに立ちふさがった彼女が、三度その牙をむく。
「まさか、たった三分で料理をつくってしまうとは、驚きなのね。
でも、そんなものであたしの卵かけごはんに勝とうとは片腹痛いのね!」
「……大した自信だな。ならば、これは食べないということか?」
「いいや。食べるのね! むしろ片腹減ったといったところ! お腹すいたのね!
例え、わずかでも負けの可能性は摘み取る!
そのゆで卵もあたしがペロリと食べてしまって、お前を不戦敗にしてやるのね!」
「これを食べるだと?」
「そのとおり!
さぁ、殻を剥くがいい。
その瞬間に、『卵を食べられてしまった』という結果しか残らない!
それが『腹ペコヒロインへの鎮魂歌』なのね!」
「そうはさせるか!」
イブはゆで卵を殻も剥かずに、アダムのケツに突っ込んだ。
【アッー!】
「な、何をするのね!?」
「伊吹式パーフェクト恋愛術、『恋の狙い撃ち』!」
イブはアダムを肩に担ぐと、アダムのケツをエイジに向ける。
その異様な光景に、くいなは正体不明の恐れを抱いた。
「な、なんてプレッシャー……。何だかわからないけど、ただならない予感がするのね」
「『筋肉』は信用できない。ライフルは『骨』で支える」
しかし、イブは思いっきり、筋肉でライフル(アダム)を支えていた。
これが脱いだら(筋肉が)すごいの真骨頂。
鋼のように練磨された筋肉はいかなる外的影響にも微動だにしない。
むしろ射撃補正がついて、命中精度と射程距離と威力が上がる。
「い、一体何を狙っているのね!?」
「いけ! アダム! 狙撃!」
アダムの腸内で、メタンガスの圧縮により、ゆで卵には超高圧の圧力がかけられる。
卵は腸をすべるようにして滑走していき、発生したプラズマによるローレンツ力が加わり、さらに腸内ガス爆発による加速度的加速がゆで卵におこった。
【う、生まれるーッ!】
アダムの叫びと共に、アダムのケツから射出されたゆで卵の圧倒的速度は、まさにとある科学の腸電痔砲!
眼にも止まらぬ速度で、正しく弾丸のような速度で飛んで行ったゆで卵は空気摩擦により殻が燃えて、つるりとした剥き身になった。
ゆで卵は正確にエイジの口まで飛んでいく。
しかし、その進路に遮る黒い影が。
「させないのね! エイジさんには、それをたべさせないのね!」
腹ペコヒロイン、新房くいな。
我々は忘れてはならない。彼女の力を。
全ての『料理』は、彼女の目の前では存在できないことを!
全ての『料理』は、彼女の胃袋の彼方に消えてしまったという結果しか残らない、恐るべき『腹ペコヒロインレクイエム』を!
そこに『料理』がある限り、それがどんな高速でも、たとえ光速さえも意味をなさない。
光の速度を超えて、物理法則すら凌駕して、ペロリと平らげられてしまうという事実しか残さないのだ。
パクリ!
そんな間抜けな音がした。
思わず七瀬は目をつぶった。
またしても、腹ペコヒロインが上を行ったと思ったのだ。
しかし、くいなの勝利の雄叫びが、あの「旨いーッ」という咆哮が聞こえない。
七瀬は恐る恐る目を開き、その光景を見た。
「……旨い」
ポツリと言葉をこぼし、涙を流すのは斉藤エイジ。
レールガンはくいなを乗り越えて、エイジの胃袋へと至ったのだ。
「旨い。これは、おふくろの味。……おふくろが作ってくれたゆでたまごだ」
エイジはギターも弾けなかった。
それほどまでに胃に、そして、心に染みわたるゆで卵だった。
イブが作った最後の料理。それは、おふくろの味。
それはどんな至高の逸品も、どんな究極の名品も叶わぬ味だ。
それに、くいなの卵かけご飯が叶うはずもない。
エイジは手を合わせて、静かに呟いた。
「ごちそうさまでした」
【ごちそうさまをしたということは、もしかして、くいなさんの卵かけご飯は……】
「食べる必要もありません、この勝負はイブさんの勝ちです」
エイジはそう語った。
アダムはホイッスルを吹く。
【テクニカルNTR成立! 勝者伊吹イブ!】
イブは右手を突き上げる。七瀬がそこに抱き着いた。
「やったー! 姐さんの勝ちだっ!」
「ふん、またつまらない男を惚れさせてしまった」
はしゃぐ七瀬たちの、その脇にはがっくりと膝を落す、くいなの姿があった。
「ど、どうしてなのね? このあたしが料理を食べれなかった? どういうことなのね?」
呆然とするくいなに、アダムがゆっくり諭すように語りかける。
【全ての『料理』を、食べたという結果しか残さずに胃袋に消し去る『腹ペコヒロインレクイエム』は、確かに恐ろしい能力ビッチ。
しかし、それを『料理』と認識していなければ発動しないビッチ!】
「ま、まさか」
【そうビッチ。
僕のケツから出てきたゆで卵は、あなたは潜在意識の中で『料理』と認めることはできなかったビッチ。
ウ〇コと認識されたビッチ。そこに着目するとはイブさんの読みは、異端の発想。逸脱した感性。
しかし、これが『腹ペコヒロインレクイエム』を破る、『たった一つの冴えたやり方』ビッチ」
「な、なんてこと。それを、このわずかな期間に見抜くなんて……」
【イブさんの恐ろしいところはその凶暴性ではなく、悪魔のような頭脳。
一度ならず二度までもイブさんに技を見せてしまえば、途端に対策を練られてしまうビッチ。
くいなさんの敗因は己の能力を過信しすぎたことビッチ】
「く~」
悔し涙を流しながら俯くくいなを見ながら、アダムはイブの方を窺った。
【それにしても、凄まじきはイブさんビッチ。
『ライスイズビューティフル』、『腹ペコヒロインレクイエム』の、二つの能力を持つ恐るべき強敵くいなさんを、鮮やか過ぎる逆転劇で退けてしまったビッチ。
しかも、たった三分で、くいなさんより二倍も旨い料理を作り、さらに、作った料理をくいなさんに喰わせないという厳しすぎる条件を、乗り越えてしまったビッチ。
これが、この世の全てのヒロインの頂点に立つ女、伊吹イブという人なんですねぇビッチ。
この人なら勝てるかもしれない。痴皇帝カイザービッチに!】




