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響かない声は雨に消える

作者: 律花

 人通りもなく、しんと静まり返った住宅街の一角。

 休業日のパン屋の軒先で、僕はぼんやりと空を見ていた。すこし前まで明るかった空は、突然迫ってきた雲に覆われて、いまは墨をぼかしたような灰色をしている。

 降りそそぐ雨が白く煙って景色を染めている。夏特有のじめじめした空気は苦手だけど、雨は昔からそんなに嫌いじゃない。穏やかにあたりを包み込む雨音は、どこか気持ちを落ち着かせてくれる。

 何度も頭をよぎるのは、二時間前、コンビニへ行くときに偶然会った(かなで)のこと。

 ――今日……言うことに、決めたから。

 そのときの痛みを押し隠したような笑顔が忘れられなくて、ずっとこんなところで待っているなんて、我ながらおかしいと思う。

 はあっとため息をついて、視線を空から道の先へ移す。そのとき、こちらに向かってくる人影が視界に入った。

 ――奏だ。

 奏はすこしうつむきがちに、傘もささずに歩いていた。急ぐ様子もなく、全身で雨を受け止めているその姿は、まるで雨の冷たさに気づいていないようだった。

「……陽介?」

 僕の姿を認めた奏がこちらに駆け寄ってくる。

「こんなとこで、雨宿り?」

 僕の隣に並んで、奏がたずねる。僕は黙ってそれにうなずいた。

「そっか。じゃあ、あたしも雨宿り」

「手遅れだろ」

 ひたいにかかった奏の前髪から、雫が滴り落ちる。奏は手でそれを払うと、改めて僕の顔を見上げた。僕の言葉を待っているだけだとは分かっているけれど、正面から僕を見つめる瞳に胸がざわめく。つい視線をそらしかけて、それじゃだめだとぎりぎりで思いとどまる。

「いつもの、折りたたみ傘は?」

 ゆっくりとたずねると、奏はすこし間を置いて、いたずらっぽく笑った。

「家に置いてきちゃった。まあ、暑いし、別に濡れてもいいかって……けっこう、気持ちよかったよ」

 自分の言葉を一つひとつ確かめるように、奏が言う。その様子はいつもと変わりなくて、僕の感情は行き場もなく、宙ぶらりんのまま。

 やっぱりあきらめたのだろうか。実際に顔を合わせたら、決心が鈍ったのかもしれない。

 あれこれと考えている僕を見て、奏がやわらかく微笑む。そして、小さく、だけどはっきりと耳に届く声で、つぶやいた。

「別れてきたよ」

 心臓が大きく跳ねて、言葉が出なくなる。

「気持ちがくじけるんじゃないかって、すごく不安だったけど……言えた」

 奏はそう言って、雨空を見上げる。僕はその横顔を見つめたまま、やっぱりなにも言えなかった。


 奏が恋人と別れることを決めたのは、一週間前。

「あの人、あたしのこと、すごく心配してくれてる。留学、高校のときからずっと考えてたはずなのに……興味がなくなってきた、なんてうそばっかり」

 二つ年上の恋人のことで、奏が最近ずっと悩んでいたのを僕は知っていた。

「あの人のそばにいられなくなるより、重荷になることのほうがいや。だから……」

 僕はその男と面識はなかったけど、駅の入り口で奏と一緒にいるところを見かけたことはあった。

 いまでもよく覚えている。突然の夕立に立ち往生する人たちの中、薄暗い雨空を見上げる奏と、それを優しい目で見守っている男の姿。男の手が奏の肩に置かれ、奏が振り向く。なにを言われたのだろう、楽しそうにくすくすと笑う。

 遠くからそれを見ていたら、ひどく胸が苦しくなって、僕は逃げるようにその場を離れた。

 家に帰ってからも、寄り添い合う二人の姿が頭から離れなかった。


「これでよかったのかなって……ずっと、考えてるの」

 水溜まりのできたアスファルトに視線を落とし、奏が独り言のように言う。

「よかったんだって思いたい。でも、最後にあの人の笑った顔が、頭から離れなくて……すごく、さびしそうで」

 僕はすこしためらったあと、奏の肩に手を置いた。奏がはっと顔を上げ、僕を見る。

 なにを言えばいいか分からない。だけど、つらそうに声を継ぐ奏を、これ以上見ていたくはなかった。

「なにがよかったのかは、俺にも分からないけど……奏はすごく悩んで、そのひとのことを考えて、そうするって決めたんだろ? だったら、それはきっと――」

 黙って僕を見つめる奏の表情から、戸惑いが読み取れて、僕はあわてて口をつぐんだ。反射的に自分のショルダーバッグに触れた僕の手を、奏がそっと押さえる。そして、聞かせて、とすがるような目をして言う。

「……間違いじゃない。奏のしたことは、間違いじゃない、って思う」

 声にした言葉は弱々しく、あたりを包む雨の音に吸い込まれていきそうで――

 もう一度口を開きかけたとき、奏がふと口元をゆるめた。

「……ありがと。陽介はやっぱり、優しいね」

 濡れた自分の髪に手で触れ、ふわりと微笑む。僕はいたたまれなくなって、かぶりを振った。

「優しくなんか、ない」

「優しいよ」

 はっきりとした口調で奏が言うから、僕は目をそらすことしかできない。そんな僕の耳に、やわらかな雨音に混じって、澄んだ声が染み込んでくる。

「今日だってほんとは、あたしのこと心配して、待っててくれたんでしょ?」

 僕はその問いかけに答えずに、軒先から滴る雨の軌跡を目で追う。

「あたし、いつも陽介に頼ってる。昔からそう。これじゃだめだって、思うんだけど……なんか、うまくいかなくて」

 昔という言葉に、僕は小学生の頃を思い出す。

 両親を事故で失った奏が、祖父母の家で暮らすことになったのは八年前。僕たちがまだ九歳だったときのこと。

 家が近所だった僕たちは、その日からこれまでいろんな話をしてきた。他愛のない話も多かったけど、お互いの悩みを話すことも多かった。

 奏との会話はいつもゆっくりだったけど、そのおかげで僕は、自分の考えや思いを焦らずに整理することができた。小さい頃からひとと話すのが苦手だった僕にとって、それはとてもありがたいことだった。

 それに、僕が口ごもったり、視線を合わせるのが怖くてうつむいたりしても、奏は絶対に僕をからかったりなじったりはしなくて……そのことが、とてもうれしかった。


 口を閉ざしてしまった奏が気になり、僕は横目で隣を見る。

 奏の身体はかすかに震えていた。夏とは言え、雨を含んだ服はかなり体温を奪うだろう。

 寒い? とたずねようと、肩に手を伸ばしかけたとき、奏は手の甲を目元に押し当てて、顔をうつむけた。

「ごめん、いまだけ……ごめん」

 雨のしずくと一緒に、ぽろぽろと落ちた涙が地面に吸い込まれてゆく。いまの奏に、きっと僕の声は届かない。だから、僕は伸ばそうとした手を下ろし、前を向いた。

 雨はさっきより激しさを増し、景色を真っ白に染めていた。軒を叩く音が強まり、向かいの家の垣根に雫が跳ねて、アスファルト全体に波打つような波紋が広がる。まるで世界が溺れているみたいだと思った。

「ごめん、奏」

 気がつくと、僕の口から自然と言葉がこぼれていた。

「奏が恋人と別れるって決めたとき、俺……ほっとしてた」

 ――いいやつなんだろ? 付き合ってみれば?

 そう言って、告白を断ろうとしている奏を後押ししたのは、他でもない僕だ。奏のことをあきらめたくて、わざとそんなことを言った。なのに、僕はあの日からずっと後悔ばかりしている。

 奏が笑っていてくれればいいと思っていた。その気持ちはいまも変わっていない。

 だけど、僕は自分で考えていたよりも欲張りな人間だったみたいで、そのせいでいつだって、どうしようもなく胸が痛かった。

 そのひとのことが好きなら別れる必要なんてないと、どうして言えなかったんだろう。

 奏が必要以上に、相手に気を遣ってしまいがちなことは知っていた。普通とはすこし違う自分に、いつも引け目を感じていることも。

 奏の恋人は、ただ奏のことが好きで、そばにいたかっただけで……きっと、奏のことを負担に感じたりはしていなかったのに。

「俺は奏が思ってくれてるような、優しい人間じゃない。最低なんだ。いつも、いやなことばっかり考えてる」

 奏にとって特別な存在になりたかった。でも、そう願うたび、無理だという思いが僕を縛りつけた。

 だって、僕はなにも持っていない。

 外見は冴えないし、頭だってよくないし、話だって下手で……いまも、奏に気の利いた言葉ひとつかけられない。

 思いを告げる勇気もないくせに、誰のもとにも行かないでほしいだなんて、身勝手なことばかり考えている。そんな自分に気づくたび、ひどい自己嫌悪に陥った。奏といるとき、僕はいつも自分の醜さを突きつけられる。

「俺、ほんと、なんの取り柄もないし……耳のことがなければ、奏は俺のことなんて見向きもしない人間だったんじゃないかって……いやで仕方ないのに、考えるの、やめられないんだ」

 あたりを包む雨の音が、僕の声をかき消してゆく。だけど、否定したい感情は(おり)のように、僕の中に積もりつづける。

 いつから僕は、こんなふうになってしまったんだろう。

「陽介……?」

 名前を呼ぶ声に驚いて振り向くと、奏はじっと僕を見ていた。瞳はまだ潤んでいるけれど、もう泣いてはいないようだった。

 ぎゅっと胸が締めつけられて、息が詰まりそうになる。聞かれた――いや、見られていた?

 そんなことを考えている僕に、奏が困ったように笑って言う。

「いま、なんて言ったの?」

 僕はあわてて目を伏せて、首を横に振った。

「なにも言ってない」

「うそ。言ったよ」

「言ってない」

 奏の視線から逃れたくて、僕は思わず顔をそむけた。

 奏はいつも、まっすぐに僕を見る。卑屈で後ろ向きで、弱音ばかり吐いている僕を、励ましてくれるときもそう。

 ――陽介は、陽介が思ってるような、だめな人間なんかじゃない。

 僕はそんな奏の目が好きだった。なのに近ごろは、自分の醜い感情を見透かされてしまう気がして、怖い。怖くて、痛くて、思わず目をそらし、顔をそむけてしまう。奏がそんな僕の姿に、戸惑っていることを知りながら。

「いじわる。……それじゃ、分かんないよ」

 そう言った奏の声は、笑いを含んでいたけれど、どこかさびしそうにも聞こえた。


 奏が事故で失ったものは、両親だけじゃない。世界にあふれるさまざまな音を、同時に失ってしまった。

 補聴器をつけても、まわりの音は混ざり合って耳に届き、歪んだ声は言葉として認識できない。それでも、「聞こえる」だけいいと奏は言う。補聴器がないと、車のクラクションにも、すぐ近くで自分を呼ぶ声にも気づけないからと。

 雨で濡らさないようにだろう、いまの奏は補聴器を外していて――だから、僕の言葉なんて届かない。そんなときでもなければ、僕はまともに言いたいことも言えない。自分の情けなさに心底嫌気がさす。


 僕たちの間に沈黙が落ちる。雨音も風の音も、自転車が水溜まりを跳ね上げる音も聞こえない奏にとって、この静寂はもっと深いのだろうか。奏の感じている世界は、これまで何度も想像してみたけど、どうしても手が届かなかった。


「雨、止みそうだね」

 ふとつぶやかれた言葉に、僕はゆっくりと空を見上げた。確かに雨足は随分弱まっていて、空もさっきより明るくなっている。

 それからほどなくして、雨は止んだ。だけど、奏は軒下を出ようとしない。僕もその場に立ったまま、視線のやり場もなく、空を映し出す水溜まりを眺める。

「陽介……あのね」

 すぐ隣から、奏の穏やかな声。

「あたし、陽介と話してると、ときどき声が聞こえるの。昔みたいに。そんなの……気のせいに決まってるって、分かってるんだけど」

 奏の声が、かすかな笑いに揺れる。照れくさそうな、だけどうれしそうな表情が自然と頭に浮かぶ。

「いま、こんな声であたしを呼んでくれたのかな、とか、こんな声で笑ってるのかな、とか……陽介の顔を見たら、分かる気がする。それが、すごくうれしくて」

 空気中の塵や埃が洗い流されて、あたりの景色は鮮やかだった。

 薄雲を透かす淡い光が路面に当たって眩しい。息を吸い込むと、濡れたアスファルトの匂いがする。

「だから、あたし……陽介のこと、まっすぐ見ていたいよ」

 僕はなにも答えられずに、もう一度空を見上げた。

 雲の割れ目から覗く空は、夏らしい鮮やかな青色だった。雨が上がるのを待ち焦がれていたように、どこからか蝉の鳴き声が響く。

 僕は小さく息を吸い込んで、だけど胸の奥の思いを言葉にはできなくて、口を閉ざした。どうしたらこの苦しさが消えるのか、分からなかった。

 手を動かすと、奏の手に一瞬だけ触れた。僕はその手を掴んで、そっとたぐり寄せる。

 僕がそんなことをしたのは初めてだったからだろう。奏の手が驚いたように揺れて……そのまま、僕の手の中におさまった。

 情けないな、と思う。たったこれだけのことで、心臓は壊れそうなくらい鼓動を速めていて、指先だって馬鹿みたいに震えている。

 僕は奏のほうを振り向き、渇いたのどで名前を呼んだ。

「返事は、しないで」

 不思議そうな顔をした奏が小さくうなずく。

 たくさんの言葉をやり取りしたノートでも、向かい合っての会話でも、伝えられなかったこと。

 拒絶を恐れて、関係が壊れることを恐れて、言い逃げなんて汚いけれど。

「奏が好きだ」

 一瞬、気が遠くなりそうな沈黙。

 奏がそっと手で目元を拭う。

 そして、いつものように僕を見て、眩しそうに目を細める。

「ちゃんと、聞こえたよ。……ありがとう」

 陽光の中、その笑顔は透明で、泣きたくなるほどきれいだった。



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― 新着の感想 ―
[一言] 読ませていただきました。胸がぎゅうってなりました。 律花さんのお話はどれもそうなんですが、静かで優しい空気が流れていて、私もこんなお話を書きたいなぁっていつも思っています。 二人とも優しくて…
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