【短編】白無垢の生贄は、あやかしの神に愛されすぎて帰してもらえない
第一話 『雪葬の白無垢』
しん……と。世界が音を失っていた。
さらさらと流れる清水の音。はらりはらりと舞う雪の儚さ。
頬を撫でる風は刃物のように鋭く、体温を容赦なく削ぎ落としていく。
けれど、寒いとは思わなかった。
感覚はとうに凍り付き、指先の位置さえもはや定かではない。
ただ、重い。
ずしりと肩に食い込む、幾重にも重ねられた絹の重みだけが、私がまだこの世に繋ぎ止められている事を教えてくれていた。
白無垢。
嫁入りのための、あるいは死出の旅路のための、純白の衣装。
村一番の美しい着物を着せられ、紅を差され、そして――。
私は今、霊峰の頂に近い朽ちかけた鳥居の前。
現世と幽世の狭間の手前に縛られ、背筋を伸ばし、礼節の証を立てさせられている。
「……あぁ」
細く吐き出した息が、白く濁って消える。僅かに残されたこの身の残り火が鳥居をくぐっていく。
視界を埋め尽くすのは、舞い散る雪と、どこまでも深い夜の闇。
月も姿を隠す、雪夜。
村人達の経を読む不揃いな声はもう聞こえない。彼らは私をここに置き去りにして、神”白銀様”を逃げるように下山して行ったから。
恨み言の一つも浮かんでこない。あの薄暗い座敷牢で、怯えと侮蔑の混じった視線に晒され続ける日々に比べれば、ここは天国のように静かだ。
『穢れを見る娘』と気味悪がられ、石を投げられた日々。
それら全てから解放されて、こんなにも美しい雪の中で終わるのなら。それはきっと幸福な事なのだ。
ふと、視界の端が揺らいだ。
雪ではない。もっと濃密で、ねっとりとした『闇』が、滲みだしてくる。
また、視えてしまった。
鳥居の向こう。幽世から溢れ出す、どす黒い瘴気。
人の業が凝り固まった、吐き気を催す穢れ。
村の人達が恐れた『祟り』の正体。
(ああ、来る……)
地面が、微かに震えた。
ズン、ズン、胃の腑を直接叩く重低音が、雪を踏みしめて近づいてくる。
闇達が蜘蛛の子を散らすように去って行く。
私は目を閉じた。
頭から齧られるのか、鋭い爪で引き裂かれるのか。
どちらにせよ、痛みは一瞬で終わってほしい。そう願って首を垂れる。
――けれど。訪れたのは、痛みではなかった。
ふわり。
幽かに香る金木犀の爽やかな甘い香り。
それに、仄かに隠れる、けぶるような香りは何かしら?
座敷牢に焚き染められた胸の悪くなる、燻し焼きにされる干物の気分を味わう、質の悪いそれとは違う。
高貴で、どこかほっとする香り。
恐る恐る、瞼を持ち上げる。
「……ひっ」
声が、喉の奥で凍り付いた。
目の前に、月があった。
いいえ。それは、黄金に輝く巨大な瞳。
私の全身など容易く飲み込めそうなほど巨大な、白銀の狼が私を見下ろしていた。
家屋ほどもある巨躯。月光を吸い込んだかのように輝く、ふわふわとした綿毛みたいな長い長い毛並み。
神々しいまでに艶めく白。
私の着ている白無垢など霞んでしまうほどの、純粋な白銀。
それは圧倒的な『死』の具現でありながら、息を呑むほどに美しかった。
グルルゥ……と、喉を鳴らす音が響く。巨大な鼻先が、私の顔に近づく。
熱い。
吐き出される呼気が凍えた私の頬を撫でて、痛い。
ちりちりと、溶ける氷がひび割れるような痛みを伴う熱。
(あぁ、これでお終い。この美しい生き物、いえ、神様の一部となれるのなら……)
本能が警鐘を鳴らす。けれど、身体は縛られたまま、指一本動かせない。顔を背ける事すら、できない。
狼の口が、ゆっくりと開いた。
鋭利な刃物のような牙が、月明かりにぎらりと光る。
終わり。
私はせめて苦しみが一瞬で終わるようにと願いながら、ぎゅっと目を瞑り、その時を待った。
ざらり。
「……んぅっ!?」
頬に走ったのは、熱く湿った、ざらつく感触。
巨大な舌が、私の冷え切った頬を、顎を、無防備に晒された首筋を、舐め上げた。
べろり、べろり。
まるで、愛おしいものを味わうように。あるいは、獲物の味を確かめるように。
舌の感触が通り過ぎるたび、少しづつ融けた身体がじんわりとした熱を帯び、柔らかさを取り戻す。
凍り付いていた感覚が、無理やりこじ開けられる。
「……あ……んぅ」
つい、あられもない声が漏れた。恐怖と安堵と、そして訳の分からない高揚感で、頭がぐちゃぐちゃになる。
白銀の狼はひとしきり私の顔を舐め回すと満足げに鼻を鳴らし、私を縛り上げていた太い注連縄に牙をかけた。
ブチリ、ブチリ。
鋼鉄のように硬く凍っていた縄が、絹糸のように容易く噛み千切られていく。
身体が、傾ぐ。
支えを失い、痺れ、凍てつき、血の通わぬ脚はもはや何の感覚も返してこない。
雪の上に崩れ落ちそうになった私を、ふかふかとした温かいものが受け止めた。
白狼の、前足。
指が埋まるほどに深い毛並みが、私を優しく包み込む。
『……哀れよのぅ』
頭の中に、直接声が響いた。
それは獣の太い鳴き声でも、まして獣の咆哮でもなく。
鈴を転がすような、ころりころりと軽やかで、艶を含んだ女性の声。
『そなたもまた、人の業に縛られりんしたか』
黄金の瞳が、私を覗き込んでいる。
その瞳には捕食者の殺意はなく。どこか寂しげで、そして深い慈愛の色が宿っていた。
◇ ◇ ◇
第二話 『徒花の廓』
ふわふわとした浮遊感の中で、私は目を覚ました。
頬に触れるのは、雪の冷たさではなく、上質な絹のような滑らかな感触。
「……ここ、は」
頭上には、満開の夜桜。季節外れの桜吹雪が、先程まで晒されていた雪のように、しかし暖かな温もりを帯びて舞い散っている。御簾の内からそっと伺えば、ぼんやりと灯る赤い提灯が、朱塗りの回廊をどこまでも照らしていた。
まるで物語で読んだ『遊郭』のような、妖しくも艶やかな空気を纏った空間。
私は御簾に囲まれ、広間の真ん中に敷かれた豪奢でふかふかとした布団の上に寝かされていたらしい。
終ぞ肌に感じた事のない、しっとりとして軽やかな、それでいて確かな厚みのあるお布団。
身体を起こそうとして、ふと気づく。
重かった白無垢の打掛は脱がされ、今は薄い長襦袢一枚になっていることに。
『お目覚めかえ、主さん』
不意に、薫りが。あぁ、これはあの時に感じた香り。
仄かに隠れるけぶるような、香り。
襖の向こうから、一人の女性が音もなく現れる。
私は息を呑んだ。そのあまりの美しさに、瞬きさえ忘れてしまって。
流れるような、白銀の大狼と同じ月明かりを封じ込めたような、輝く銀髪にぴょこんと飛び出す狼耳。
その髪はしゃなりしゃなりと歩みを進めながら、畳に広がるほど長く。さながら月を映す水面を歩んでいるかのよう。
切れ長の瞳も、あの白狼と同じ黄金色。
豪奢な打掛をだらしなく着崩し、豊満な胸元と白い肩を惜しげもなく晒している。
手には長い煙管。ああ、あの香りは燻る紫煙のそれだったのだと、鼻腔を満たす馥郁たる匂いが示す。
紫煙をくゆらせる仕草一つでさえ、この世のものとは思えないほど悩ましい。
私は己の役目を、生まれた訳を思い出す。ここはきっと、神様の御社。
「あなた様は……」
なればこの御方は。
「左様。そなたを拾うた、しがない“あやかし”でありんす」
彼女――夕霧と名乗った神様は艶然と微笑むと、私の傍にするりと身を寄せた。
冷たい。
人肌のような温かさを期待したのに、彼女の肌は雪女のように冷え切っていた。
「主さん、身体は痛まぬかえ? 寒くはないかえ?」
彼女は細い指先で私の頬を撫でる。
その仕草は、まるで壊れ物を扱うように慎重で、そして慈愛に満ちていた。
「どうして、私をお助けに……? なられたのですか。この身は貴女様へ捧げられた、贄でございますのに」
「贄じゃからこそ、拾うてしんぜたのじゃ」
ふわりと再び紫煙をくゆらせると、夕霧様は煙管を置き。私の手を両手で包み込んだ。
その手もまた氷のように冷たい。けれど、そこから伝わってくる感情の熱量は、ぽかぽかと心の内に小さな焔を灯してくれるようだった。
「わっちもまた、かつては籠の鳥でありんした。……誰かの慰み者として消費され、最後は神などという木偶に祭り上げられた、哀れな女でありんす」
彼女の黄金の瞳が、揺らめく。
そこにあるのは、神としての威厳ではなく、もっと人間臭い、深い孤独と諦観。
「そなたの瞳……穢れを視るその目は、わっちと同じじゃ。人ならざるものを見る者は、人の中に居場所はない。……ならば、わっちが貰い受けても罰は当たるまい?」
夕霧様は悪戯っぽく笑うと、私の膝にするりと頭を乗せた。
膝枕。
神様が、私なんかの膝に。
「あ、あの……神様?」
「夕霧と呼びなんし。……して、ちと、撫でてはくれぬかや」
甘えるような上目遣い。
私はおそるおそる、その白銀の髪に指を通した。
さらさらと、絹糸のように指を滑り落ちてゆく。
撫でるたびに喉を鳴らすように目を細め、狼耳をぴくぴく震わせ、心地よさげに吐息を漏らす。
「んぅ……よい手つきでありんす。主さんは、優しいのう」
その無防備な姿を見ていると、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
村では『穢れ子』と忌み嫌われ、誰にも触れられる事のなかった私。
あるいは劣情の視線を向ける愚物は、祟りを恐れた村人に連れ去られ二度と姿を見せる事はなかった。
そんな私を、この美しく高貴な御方は、愛おしそうに求めてくれる。
必要としてくれる。
(ああ……)
私は、この御方のモノとなるために生まれたのだ。
身も心も、この……きっと、寂しがり屋の神様に捧げてしまいたい。
ドロドロとした独占欲にも似た感情が、私の中で湧水のごとく湧き出し始めていた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
「ゴホッ……!」
不意に、夕霧様の身体が跳ねた。
私の膝の上で、彼女が苦しげに咳き込む。
口元を覆った白魚の如き手が、どす黒い液体で汚れていく。
「夕霧様!?」
血だ。
けれど、それは人の赤色ではなく泥のように粘り気のある、黒い血。
私の目には視えた。
彼女の美しい身体の内側で、無数のどす黒い『穢れ』が、内臓を食い荒らすように蠢いているのが。
「……騒ぐでない。いつものことでありんす」
夕霧は黒く汚れた口元を袖で拭い、気怠げに笑った。
その笑顔はあまりに痛々しく、そして儚かった。
「村の人間どもが、己の業をわっちに押し付けるゆえ……ちと、腹がもたれただけのこと」
村人は己の穢れを『生贄』に託して捨てる。
山の神である彼女は、その汚泥を一身に飲み込み、腐りながらも山を守り続けてきた。
(許せない)
私の中で何かが弾けた。恐怖ではない。村人達へのどす黒い殺意。
そして目の前の愛おしい。ええ、はっきりと自覚いたしました。御方を何としてでもお救い申し上げたいという、狂おしい程の渇望。
「夕霧様……」
私は、懐に隠し持っていた小刀を取り出した。
万が一、神様へとこの身をお届けする前に、卑しき穢れにこの身を奪われそうになった時にはと。自決用に持たされていた、錆の浮いた小刀。
それを迷わず、自分の指先に突き立てる。
「なっ、何をしなんす……!?」
驚く夕霧様の唇に、血の滲んだ指を押し当てた。
私の血には、穢れを祓う力がある。幼い頃、なんとなく気づいていたその力を、今ここで試す。
「お飲みください。……私の血で、穢れを中和できるはずでございます」
夕霧様は目を見開いたが、私の真剣な眼差しに気圧されたのか、恐る恐る私の指を口に含んだ。
ちゅぅ、と。妖しくも甘美な音を立てて、吸われていく。
彼女の体内で暴れていた黒い靄が、すうっと薄らいでいくのが視えた。
「……甘いのぅ」
指を離すと、夕霧様は陶酔したように目を潤ませ、私の血がついた唇を舐めた。
その顔色は、先ほどより幾分か良くなっている。
「んぅ……主さんや」
彼女はぎゅぅっと私を抱き寄せた。
冷たくも少しだけ温もりが。いえ、あるいは、私の温もりが移っただけかしら?
そっと優しい。けれどもあまりに非力なこの身には、痛みを覚える程には強い力。
「もう、離しはせん。……そなたがおらんでは、わっちは生きていけぬようじゃ」
神様が耳に吹き込むその呟きは、いっそ呪いのように重く。
けれど、この世で一番甘美な愛の言葉に聞こえた。
◇ ◇ ◇
第三話 『穢れし来訪者』
その日も、神域には季節外れの桜が舞っていた。
私は夕霧様の頭を膝に乗せ、彼女の長い白銀の髪を梳き。心地よさそうに、狼耳を伏せ、つむられた睫毛が震えるのを眺めていた。
あれから、どれほどの時が流れたのだろう。
現世の時は、ここには届かない。
ただ、夕霧様が咳き込むたびに、私の血を分け捧げ、その冷たい体を温める。
それが私の世界の全てになっていた。
「……主さんや。今日の血は、ちと渋いのぅ」
「申し訳ありません。……少し、不安が」
夕霧様は、私の指の血を舐めながら、くすりと笑った。
その妖艶な仕草に、胸が高鳴る。けれど、胸騒ぎは消えなかった。今朝から、神域を囲む結界が、微かに震えているのだ。
ドロリとした、あの不快な闇色の『穢れ』の気配が、結界の外から滲みだしてきている。
「案ずるでない。……ここは、誰にも侵せぬ鳥籠」
夕霧様は私を安心させるように、髪を撫でてくれた。
だが、その言葉を遮るように。
――ドォォン!
腹の底に響く轟音が、神域を揺らした。朱塗りの回廊が軋み、満開の桜が激しく散る。
「なっ……!?」
「……言うた矢先に、無粋なことよのぅ」
夕霧様の表情から、笑みが消えた。
黄金の瞳がすうっと細められ、神としての冷徹な光を宿す。
彼女は立ち上がり、着崩していた打掛を直すと、無造作に煙管を懐に収めた。
「主さんは、奥の間に隠れておれ」
「何が……」
「……招かれざる客でありんす」
神社の入り口、大きな鳥居の向こうから、ぞろぞろと人が入ってくるのが見えた。
白装束に身を包んだ男共。手には錫杖や、御札を巻いた刀。
先頭に立つのは、見覚えのある顔、年をくったが村長の息子だ。
彼らの身体には、どす黒い靄が巻き付いている。
私の特別な眼にはしっかりと映る、欲望と悪意の塊。
「神を詐称するあやかし!」
あぁ……相変わらず。彼らは自分たちが『正しい』。全ては『我がままに』なると信じきっている。
穢れに満ちた声は、神域の静寂を汚す不協和音。
「村は今、疫病と飢饉に苦しんでおる! 贄を捧げたにも関わらず、なぜ我らを救わぬ!」
「……救う?」
夕霧様が、冷ややかな声を響かせた。
彼女は広縁に立ち、招かれぬ者達を見下ろす。その姿は圧倒的に美しく、そして孤高。
「救うておろうが。そなたらの汚泥のような業を、わっちが吸い上げておるおかげで、村はまだ『その程度』で済んでおるのじゃ」
「黙れあやかし! 貴様が穢れを集めるせいで、村が救われぬのだ!」
修験者風の男が、錫杖を突きつけた。
「所詮はあやかし。真に神ならぬ化け物は祟り神へと堕ちた!……新しき『依り代』を据えるため、貴様を祓い、苗床としようぞ!」
夕霧様のご事情はうかがっている。
かつて……人への贄へと捧げられ、遊女へと墜とされた。華々しき遊郭の花と咲き誇り、花魁へと至った彼女をしかし。穢れを払う人柱と捧げたのがこの深山。
自分達の都合で祭り上げ、穢れを押し付け、限界に来たら殺して取り換える。
あまりに身勝手な理屈。
けれど、夕霧様は怒りを現されはしなかった。ただ寂しそうに目を伏せ、自嘲気味に嗤うばかり。
「そうでありんすなぁ。籠の鳥も、鳴けねばただの……」
彼女の身体から、ふわりと力が抜けた。
そもそも、長きにわたり穢れを吸い続けた彼女の魂は、もう限界に近い。
滅ぶ事でしか、この責め苦から解放されない。諦念の果てに、どこかでその時の訪れを願っている。
「ならぬ! 弑する事など……断じて!」
私が飛び出そうとすると、桜の花びらが舞い集まり、優しい壁となって私を阻んだ。
結界。夕霧様が、私を遠ざけている。
『主さん。……逃げなんし。よう尽くしてくれりんした』
頭の中に、彼女の声が響いた。
『裏の獣道からなら、里へは降りられずとも、他国へは抜けられよう。……そなたは、生きて、幸せにおなりなんし』
夕霧様が、修験者たちに向かって一歩踏み出す。
その背中は、死を受け入れた者の、静かな絶望を纏っていた。
(ふざけないで)
私の中で、何かが切れる音がした。
恐怖も、畏怖も、全てが真っ白な怒りに塗りつぶされていく。
幸せ? 私一人が? 貴女がいない世界で、どうやって幸せになれと仰るか。
いらいらが募る。
貴女を殺して、貴女を消費して、のうのうと生き永らえようとするあの汚らわしい人間共。
許さない。
私の神様を。私の愛しい御方を。
指一本、触れさせてなるものですか。
「……嫌でございます」
私は、懐から小刀を取り出した。錆びついた自害用の刃。
それを、目の前の『桜の結界』に突き立てる。
結界は夕霧様の魔力そのもの。普通の刃物では傷一つつかない。
けれど、私には視える。
魔力の流れの『結び目』。
ほんの僅かな綻び。
――穢れ。夕霧様の中に巣食う黒い澱が、結界の構成を脆くしている。
「そこっ!」
錆びた小刀で鈍く、腕を切り裂き。自分の血を滴らせた刃を、綻びへと突き立てた。
浄化の血が、結界の術式に干渉し、食い破る。
パリン。
ガラスが割れるような音と共に、桜の花びらを舞わせていた壁が、砕け散る。
「なっ……!?」
驚愕に振り返る夕霧様。
その横をすり抜け、私は広縁から地面へと飛び降りた。
殺気立つ侵入者共の前に立ちはだかり、両手を広げた。
「……なぜ未だ生き永らえておる、贄風情が!」
「貴様か、貴様が大人しく穢れを引き受け、滅びておらぬから! このあやかしめが、澱んでおるのか!」
罵声と共に、石礫が飛んでくる。
額に当たり、熱い血が流れた。視界が赤く染まる。
痛みなどどうでも良い。ひたすらに、氷のように冷たく、あの日の芯まで凍てついた己へと戻っていくように。
透き通った殺意だけが研ぎ澄まされていく。
「貴様も諸共に祓ってくれよう! 否……新しい苗床、器造りに供するも一興か」
「良き案でございます! はっはっは」
「――澱み? 祓う?」
私はゆらりと顔を上げた。
額から流れる血が、白無垢の襟元を少しづつ、赤く染めていく。
私の瞳に映る彼らはもはやただの穢れの塊。
「神様を穢したのは、おまえたちの欲でしょう! ……返せ……かえせ。夕霧様の安寧を、かえせぇ!!」
錆びた小刀を振り上げ、奴らへと駆け寄る私。
振り下ろす腕はしかしあまりに遅く……。
錆びた小刀は呆気なく叩き折られ、私の左腕に灼熱が走る。
白無垢の袖が深紅に染まっていく。
追いうちの切り上げがさらに迫る。
「やめなんし」
すっと、見事な設えの抜き身の太刀が、私と修験者の間にさしはさまれる。
「く、あやかしが! 逆らうか」
「否、好きにしなんし。じゃが、この子は……」
声からは艶が失われ、ただ一言。
「……見逃せ」
神意とはまさにこの事か。膨れ上がる威圧感。
修験者の男がよろけ、下がる。
それを見届け。
「手間をかけさせるでない。さあ、おゆきなんし」
威圧の全てを解き、そっと取り出した煙管を唇に添え。
からん。
夕霧様の手から滑り落ちる太刀……ご神刀。
失われていく血に、白無垢が赤く、赤く染まっていく。
夕霧様が、わたくしの愛おしい御方が……私の在る意味が。
あぁ、離れていく。男共が、刀を振り上げた穢れ共が、囲む。
醜い刃が……艶やかな赤き華を。
桜舞う神域に咲かせた。
「――ぁ」
開ききった瞳孔。
口の端を垂れる、噛み切った唇から顎を伝う赤き血。
己は何ぞ。
未だ熱き血潮を流し生き恥を晒す。
口惜しや。
愛おしや。
咲き乱れる赤い血の花。
血染めの桜舞い散る御庭に。
狂おしく乱れる白銀の髪。
貫く冷たき刃を見据え。
「返せ……贖え……うぬらの、命……置いて逝け」
袖を真紅に染めた白無垢、纏いし贄は今。
鬼と成る。
夕霧様の冷たさを残す刃を、抱き上げる。
向かうは穢れ、闇の瘴気と成り果てた男共。
◇ ◇ ◇
第四話 『紅無垢の鬼と、旅立ちの朝』
喉の奥から漏れ出たのは、自分でも聞いたことのない、地獄の底から響くような声。
私の両手は夕霧様が取り落としたご神刀の柄を固く、固く、握りしめていた。
私の手の中で脈打つ刀身。
血。
左腕から滴る私の血が、刀身を伝い、刃を濡らす。
「夕霧様を……返せぇぇぇ!!」
絶叫と共に私は踏み込んだ。白無垢の裾が、重くはためく。
穢れた男が、嘲笑うように刀を振り上げる。
遅い。
止まって見える。
私の目には、くどす黒い靄の『結び目』が、月夜を飛ぶ蛍のように輝いて見えていた。
そこを断つだけ。
ご神刀を一閃。
高い音が鳴り、今度は修験者の刀が半ばから砕け散る。
そのまま勢いを殺さず、刃は肩口へと。
「なっ、ば、馬鹿な!」
男が崩れ落ちる。
血煙が舞い、未だ白を遺す私の着物は、見るも鮮やかな紅色に染まっていく。
白無垢……否、もはやこれは、紅無垢。
嫁入りのための、血塗られた正装。
「あぁ、小夜は今参ります。貴女様の御元へ」
手の甲を濡らす穢れた血を、ぞろりと嘗めとる。
「化け物め!」
「殺せ! もろとも、祓ってしまえ!」
村人たちが殺到してくる。心は、氷のように冷え切っていた。
視える。全て、視える。
彼らの歩みが辿る未来の軌跡、放たれる斬撃、そして命の灯火の在り処。
舞うように刃を振るうたび、男達――穢れが倒れ、白無垢は赤を深めていく。
美しい。
夕霧様を穢したお前達の血で、この衣装を染め上げる事が、こんなにも甘美だなんて。
「は、ぁ……っ、あはッ!」
笑みがこぼれる。
もっと、もっと赤く。私の神様に捧げる、鮮烈な赤に。
けれど、多勢に無勢。
背後から迫る気配に気づいた時には、錫杖の先端が私の頭上に迫っていた。
避けられない。
「夕霧様……ごめんなさい。小夜は今、参ります」
目を閉じる事はしなかった。最期の瞬間まで、敵を睨み据える。
――ガァァァァンッ!!
錫杖が、弾き飛ばされた。いいえ、砕け散った。
私の背後に現れた、巨大な白い影によって。
『……愚か者めが』
空気が震える。
常の艶やかな声ではない。大地揺るがす、神の咆哮。
振り返ると、そこにはあの日見た巨大な白銀の狼が佇んでいた。
毛並みは逆立ち、黄金の瞳は怒りに燃え盛っている。
荒御魂。
荒ぶる神の、降臨。
『わっちの愛し子に……これ以上! 指一本、触れさせると思うたかえ!!』
白狼が吠えた。
その衝撃波だけで、周囲の村人共が木の葉のように吹き飛ぶ。
私を守るために、死を受け入れる事を諦められた、夕霧様。
穢れに蝕まれた身体で、最後の力を振り絞って……否、穢れまでをも受け入れて、白銀の毛先を染める、漆黒。
「夕霧様ぁ……!」
私は駆け寄った。
巨大な前足に、すがりつく。
温かい。
あの雪の日と同じ、圧倒的な熱量。
『主さんや。……よう、頑張りんしたなぁ』
巨大な狼の顔が近づき、ざらりとした舌で、私の頬についた返り血を舐めとる。
その瞳には、深い慈愛と、そして燃えるような情熱が宿っていた。
『もうよい。……後は、わっちが引き受けよう。深山の全て、業火にくべてくれるわ』
「いいえ」
私は首を振った。
ご神刀を握り直し、漆黒をも宿した、白銀の大狼の隣に並び立つ。
「一緒に、です。……貴女様の手だけを汚させはしません。果てまで共に参ります」
白狼の瞳が驚いたように見開かれ、やがて細められた。
喉の奥で、クツクツと笑う気配。
『……あい分かった。ならば、二人で踊ろうぞ。血の祝言じゃ』
白狼が遠吠えを上げた。
それに呼応するように、神域の夜桜が一斉に舞い上がり、吹雪のように視界を埋め尽くす。
花びらと、血飛沫の嵐の中で、私達は踊った。
白銀の爪が敵を裂き、私の刃が穢れを祓う。
悲鳴と絶叫は、私達を祝福する祝詞。
燃え上がる御社の炎は、私達の門出を照らす篝火。
やがて。
動く者がいなくなった神域に、静寂が戻った。
幽世と、現世の境。
燃え落ちる鳥居のそばで、夕霧様は人の姿に戻っていた。
豪華な打掛は煤け、あちこちが破れているけれど、その美しさは損なわれるどころか、凄惨なまでの輝きを放っている。
彼女はふらつきながら私に歩み寄ると、血で真っ赤に染まった私の白無垢の裾を、愛おしげに撫でた。
「なんと、業の深い赤じゃ。……だが、よう似合うておる」
「夕霧様……」
私は彼女を支え、その胸に顔を埋めた。
鼓動が聞こえる。強く、激しく。彼女は生きている。
「……衆生殺しの罪人じゃな、わっちらは」
「構いません。……貴女様がいらっしゃれば、私はそれでいい」
夕霧様は困ったように、けれど幸せそうに微笑んだ。
そして、私の耳元で囁く。
「……小雪」
「え?」
「わっちの真の……人であった頃の名じゃ。……あの『檻(遊郭)』にいた時の名でも、神としての名でもない。……ただの、わっちの名じゃ」
小雪。
初めて出会ったあの夜を想わせる、いささか可愛らしい名前。
「小雪、様……」
「様はいらぬ。……これからは、ただの伴侶として、呼んでくりゃれ」
彼女――小雪は、私の唇に口づけた。
血と、紫煙の香り。そして、甘い蜜の味がした。
東の空が白み始める。
私達は崩れ落ちた神域を背に、消える事のない雪が降り積もる山道を歩き出した。
帰る場所などない。
けれど、繋いだ手の温もりだけは、確かな道標だった。
紅に染まった白無垢の裾を翻し、私は小雪と共に、新しい世界へと踏み出した。




