第5話 秘密の名はマナコア
religion of steel ― ロッテンワールド ―
腐蝕した世界を舞台に、少女アカネ・ベルと仲間たちはARCを纏い、異形の怪物NOVAとの果てなき戦いに挑む。
闇に沈む都市、崩壊した秩序、そして人類を試す冷酷な現実の中で、それでも彼女たちは前へ進む。
本作は現在、YouTubeにて 動画化プロジェクト も進行中です。
小説と映像、二つの表現で広がる「ロッテンワールド」を、ぜひあわせてお楽しみください。
(チャンネルはこちら → https://www.youtube.com/watch?v=mxdmzSSUJkg )
翌日、私はカリナ軍曹と名乗る年若いカゲロウの隊員に連れられて、旧式の軍用トラックに乗せられ、逢坂ターミナルを出発した。
(よりによって旧式。よりによって軍用。よりによってトラック。三重苦だ……)
鉄のドアは開閉のたび軋み、座席のスプリングが腰を押し返す。エンジンは低く唸り、油と鉄の匂いが車内にこもる。舌の奥に重たい金属の味が張り付く。鼻腔に刺激が溜まり、自然と呼吸が浅くなる。
(深呼吸したら負け。鼻が慣れるまで口で薄く、だ)
「揺れる。ガマンしろ。この車しかない」
運転席のカリナは片手でハンドル、もう片手でダッシュボードを軽く叩く。叩かれたパネルが震え、メーターの針がわずかに踊る。声は平板。語尾は落ちる。
私は揺れに合わせて腹を意識して息を刻む。
「このトラック、古いんですね」
「古い。でも走る。走れば勝ち」
「修理とか……」
「時間ない。走る。だから勝ち」
短い返答の切れ目から、整備より任務を優先する現場の空気が漏れてくる。
(理屈は単純だけど……反論できないな)
舗装路を外れ、逢坂コロニーの泥道へ。タイヤがぬかるみに取られて車体が上下に弾む。窓の外で灰色の街並みが退き、水分の多い土の匂いと、濃くなる緑が視界に押し寄せる。頬に振動が伝わり、前歯に小さな衝撃がリズムを刻む。
(……酔い止め、持ってくればよかった)
「外、見ろ」
カリナが顎で示す。
「街、終わり。ここから山」
私は窓に顔を寄せる。濃い緑の斜面。間に走る黒い筋は、焼けた土と樹皮の色で、縫い目みたいに山肌を区切っている。遠くには白い観測棟が箱のように並び、ポールの先端の小灯が、昼でも点滅を続けていた。灯りの周期が一定で、胸の鼓動が勝手に同期しそうになる。
視線を隣へ移す。カリナのベレーの赤が微かに揺らぎ、額へ斜めの陰を落とす。髪の毛先は寝癖が残り、迷彩の袖口には細い油の筋。肩のラインに沿って、装甲フレームの装着痕が薄く走っている。指先で触れたら、細かい段差をなぞるような手触りがありそうだ。
(あの痕は飾りじゃない。戦った回数ぶん刻まれる“履歴書”だ)
「……何だよ」
カリナが目だけでこちらを射る。
「帽子、曲がってるの、気になるか」
「い、いえ。ただ……軍曹って、すごいなって」
「おかしなこと言う。お前も軍曹。理由いるか?無いなら“無い”でいい」
短い言葉が、会話の逃げ道を塞ぐ。喉の奥で返事が転がり、形にならない。
(角砂糖みたいな短い言葉……でも重たいな)
「な、何でもないです。その……ARCの痕も」
視線がベレーの角度に戻りそうになったのを慌てて外へ戻す。
「私とお前、同い年」
「……十五です」
「同じ。お前、私を年下と思っただろ」
指摘の速さに、背中の筋肉が一気に固まる。
「い、いえそんなことは!」
(ありました。はい、すみません。見た目がだって……少女だし)
幼い顔立ちに対して、声は乾いて硬い。訓練場の冷気みたいな響き。
(ギャップが大きいほど戦場では強い――そんな話を古い先輩がしてたのを思い出したけど……本当かな)
空気が少し重くなったところで、カリナがまた顎をしゃくる。
「外、見ろ。緑広い。でも奥、黒い。見えるか」
「……見えます」
「あれ、ARCと人の残骸。草、隠す。でも匂い、残る。新人、忘れるな」
窓の隙間を通った風の帯に焦げた金属の匂いが混じって鼻奥に刺さる。皮膚の裏で汗腺が一つずつ開くみたいに、体温がわずかに下がる。嗅覚の刺激が直接、胃へ落ちていく。先日の戦闘で焦げた装甲片と、倒れた人の手袋の中の手を見た場面が、音と匂い付きで浮かぶ。
(“残骸”って言葉……胃の奥を掴まれるみたいに重い、呼吸が浅くなる。吐けば楽かもしれないけど、それを合図に崩れそうだ……耐えろ、私)
数日前の戦闘が蘇る。鉄の味が喉に戻り、指先が勝手に握る。耳の奥では遠雷の残響。
「戦場、初めてじゃないな」
「……はい」
「吐くなら右窓。左、私」
「が、頑張ります……」
「こっち向くなよ、頑張る方向、違う」
直線的な忠告が、胸の真ん中へ入ってくる。
(方向指定付きの努力……確かにカリナ軍曹に吐しゃ物をかけたら私の居場所が消える)
ブレーキが踏み込まれる。鉄が擦れる音。前のめりに引っ張られる身体。スプリングが底突きして跳ね返り、額を固い何かにぶつける。
「着いた。降りろ」
ドアを押し開けると、冷たい外気が肺へ流れ込む。湿った草と土の匂い。足元の砂利がギシ、と鳴る。金網フェンスの影が地面に格子を描き、白いプレハブには錆の縁取り。発電機の低い唸りが一定の波形で続いていて、胸の奥の拍動をやや落ち着かせる。私は額を押さえながら。
(小さくても恐怖は詰まってる。前線ってそういう場所。箱は小さいのに、緊張は箱から溢れている。ここが“最前線”って意味なんだ)
そう緊張しながらも、額に鈍痛が響いた。そしてふいに思った。
「あのトラック、シートベルト……って」
「無い」
「急ブレーキ……」
「止まるため」
「頭、ぶつけました」
「学習したな」
同じ高さで返される短い球。冗談にも叱責にも転べる温度。返答に迷い、私はうなずくだけでやり過ごす。
(これ、皮肉じゃないよね……多分、褒められた。たぶん。でも何を学習したのだろう)
カリナはベレーの位置を二本指で直す。その小さな所作に、余計な言葉を挟むなと書いてある。私は代わりに周囲を見渡す。
「……ここって、どこまでが“前線”なんですか」
「ここ第一。遠く第二。山の上、第三」
顎で順に示される地点の方角。言葉が地図のピンになって頭に刺さる。
「Nova、最初に観測されるの、第三」
“観測”という聞き慣れた語が、不快な温度で耳に触れる。
(観測って言うと聞こえはやさしいけど、本当は“最初に襲われる場所”。言い方が変わると、現実の角度が変わるな)
喉が細くなる。足の裏が軽く冷え、土の粒感が靴底越しに強まる。
「今はいない。安心しろ」
「確認……したんですか」
「二度」
「二度?」
「念のため」
「念のため……」
「そう。二度確認すれば、一回安心。上空、ドローン監視も」
数の提示で言葉が安定する。私は視線を上げ、薄い羽音を探す。中腹の風に乗って、ドローンが小さく旋回している。プロペラ音が耳に触れ、胸のテンポを再び早めにする。そこで私は意識的に呼吸のリズムを作る。
四つ吸う。四つ止める。四つ吐く。
風の擦れる音、草の触れ合う微細なノイズ、発電機の低音。遠くの第三観測の灯りが昼の明るさに負けずに点り続けている。
それでも吐き気は残る。喉の奥の波がしつこく押し戻してくる。そんなとき、乾いた声が横から差し込んだ。
「カリナ、そいつPTSDだぜ」
振り向く。金髪の男が立っている。陽を受けて髪が薄く光り、胸には曹長章。ブーツは泥を弾き、つま先が磨かれている。口元は笑っているが、瞳孔の絞りは硬い。
「その軍曹は先日の生き残りだ。ショックも無理ねぇな」
肩を軽く竦め、脈を数えるみたいに私の喉元を見た。
「新兵でカゲロウ入りとはやるじゃねぇか。だが、本当に戦場で使えるのかね」
「診断、早い。医者?」
カリナが首を少し傾ける。
「趣味だよ。人を見るのが得意でね」
「趣味、悪い」
短い刺が正確に刺さって、金髪の口元の笑みが一瞬だけ止まる。
間に入ってきたのは、黒髪をきっちりまとめた女性士官だった。足音は規則正しく、声は落ち着いていてよく通る。肩章は少尉。
「レオン、やめなさい。今日から仲間になるのだから、敬意を払いなさい」
指示は短いが、反論の余地がない角度で出される。
金髪は両手を肩の高さでひらひらと振る。
「了解了解。俺はレオン・カーティス曹長。口は悪いが腕は立つってやつだぜ」
「口、先撃つな」
「撃ちたくなる時もあるってね」
「弾、無駄」
レオンの軽口は、カリナの装甲で鈍く跳ね返る。その鈍さに、私は少しだけ救われる。
女性士官がこちらへ一歩。靴底が砂利を押す音が一定のリズムで続く。
「私はチェリン・ワン少尉。彼がレオン・カーティス曹長。そして、この子がカリナ・ブレイズ軍曹」
名前が順に置かれていくたび、胸のざわめきが層を減らしていく。
(名があると、輪郭がはっきりする。私はそれに縫い合わせられるみたいに落ち着く)
私は背筋を正し、吐き気を奥へ追いやりながら声を出す。
「アカネ・ベル軍曹です。配属、感謝します」
声の高さが半音上がる。チェリンの目がわずかに和らいで、すぐに仕事の明度へ戻った。
レオンが顎で私の装備を示す。
「銃のセーフティ、今はオンでいい。檻の外に出りゃ、いつでも撃てるようにってね」
「了解」
「それともう一つ。撃つなと言われたら撃たない。これが最初の試験だぜ」
「助言、実用的」
カリナが淡々と同意する。無駄な熱量がどこにもない。
(迫りくる敵を前に“撃たない”って命令を守るのが一番難しい。訓練校で指導教官が言っていた。今、その言葉がやけに現実的に重い)
チェリン少尉が、手短に、しかし順序立てて私へ問いを投げる。
「アカネ・ベル軍曹、あなたの状態を報告して。息は整う?」
質問の前に、私は自分の胸の上下を確認する。まだ早いが、意識すれば制御の余地がある。
「……整えます。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く」
「よろしい。手の震えは?」
自分の手の甲を見る。指先だけ小刻み。
「指先だけ」
「許容ね。視界、周辺の黒斑は認識している?」
右の斜面に目を走らせる。焼けた土の色がまだ新しいところがいくつか。
「はい。観測棟の右斜面に複数の焼損痕」
「観察できてる。音と匂いは?」
発電機の連続音、風の量、乾いた草の擦れ。金属臭は弱まったが消えない。
「発電機の低音。土と草、微かに金属臭」
「OK。いまは安全域」
チェックが終わるたび、胸骨の裏側の力が少し抜ける。
(手順があると、心が寄りかかれる。順番は救命具だ)
レオンが肩を竦め、軽く口笛を吹く。
「いい耳だ。なら、俺の愚痴は聞き流してOKってね」
「愚痴、無駄」
「芸風なんだよ、ブレイズ軍曹」
軽口は場の温度を半度だけ上げ、そこで止まる。
チェリンが締め括るように声を整える。
「アカネ軍曹、質問は歓迎するわ。順番に」
私は喉の渇きを飲み下し、声帯の震えを確かめてから言葉を置く。
「今日から任務につくよう、篠宮大尉から仰せつかっています」
言葉に階級と命令系統を添えるのは、ここでの礼儀だと身体が覚えている。
「任務の承認、確認したわ。安心して。今日は戦闘じゃなく“回収”」
“回収”の二音が、金属製の札みたいに胸の内側へ落ちる。
(何を回収?)
レオンが壁に背を預ける。
「初任務で回収か。火花は飛ばねぇが、灯りは守れるってな」
ボブのベレーの少女軍曹――カリナは、私の顔色を一瞥するだけで、声量を変えずに添える。
「呼吸、整えろ。四吸・四止・四吐。……顔色、戻った」
私はその言葉で、自分の頬の温度が戻っていることにやっと気づく。
(命令みたいな慰め。けど今はそれが一番効く)
三人の視線がこちらに向く。私は軽く顎を引いて、問い直す。
「……回収、ですか?」
「そう。今日は仕組みを理解してもらう日。戦う日は、状況が要求するときだけ」
チェリンの言葉は、鋼線のように細くて強い。
「説明不足だとピンと来ねぇよな」レオンが肩を揺らす。「“回収”ってのは、要は死骸漁りだぜ。街の灯りは綺麗に見えるが、裏では汚れ仕事が支えてるってね」
「無駄、言わない。コア、拾う。それだけ」
カリナの短い補足が、要点にビスを打つみたいに留める。
胸の中心に、重たい言葉が据え付けられる。私は喉を湿らせるために一度生唾を飲み、疑問の輪郭をはっきりさせてから声を出す。
「……コア?」
語尾が少し上擦る。自分の耳にも、訓練校の新人みたいに聞こえる。
「ほら見ろ」レオンが口角を上げる。「“聖光”の正体、教本どおりに信じてた口だな?」
チェリンが手のひらを下げ、空気を静める。
「やめなさい、レオン。アカネ軍曹、落ち着いて聞いて。コアとはNOVAの中心にある“マナコア”のこと。私たちは、それを回収するの」
“マナコア”という未知の語が、口腔の中でころりと硬い。私はその硬さを確かめるように、ゆっくり噛む。
「マナコア。街の灯りの源。……壊すな。持ち帰れ」
カリナの声が、チェックリストの文字みたいに頭へ貼られる。
「す、すみません……マナコアというのは、教練では聞いたことがありません」
私の声の震えは、驚きよりも、知らないまま戦場へ出された事実に反応している。
「当然ね」チェリンがわずかに目を細める。「一般の兵には教えられない。“聖槍の奇跡”とだけ伝えられているから」
レオンが肩で笑う。
「奇跡ってのは便利な布だ。被せりゃ中身は見えねぇ。実際はNOVAの残骸から抜き取ったエネルギーの塊――それがマナコアだぜ」
「光、熱、電力。全部、コアから。……だから、壊すな。必ず持ち帰れ」
カリナは同じ言葉を、釘のように二度打つ。打音が胸骨に伝わり、内側で定着する。
私は胸の奥で言葉を整えようとした。
街のエネルギー、それは“聖光”と呼ばれる神のギフトだと、訓練校でも教えられてきた。祈りと共に授かるもの、兵にとっては信仰と同じくらい当たり前の基盤。
毎朝の礼拝で灯る光を前に、教官は「神が我らを照らす証だ」と繰り返していた。私はそれを一度も疑ったことがなかった。
けれど――いま、目の前の言葉はその基盤を切り崩す。
“聖光”の正体が、NOVAの残骸――マナコアだという。
視界が一瞬ぶれる。足元の砂利が傾いたように感じて、膝がわずかに緩む。喉が渇き、息を飲もうとするのに空気が途中で止まる。胃の奥から吐き気が押し上げてくる。
(今まで信じてきた“奇跡”が、敵の臓物だったなんて……?)
私は言葉を返そうとしても、唇が乾いて動かない。
(祈れば灯ると思ってた。神が与えたと思ってた。けど実際は、戦場の死骸が燃料。じゃあ、私たちが毎朝祈ってた相手は誰だった? 神じゃなく、敵だった?)
胸の奥に冷たい塊が沈み、同時に吐き気が熱へ変わる。喉を濡らそうと唾を飲み込んだが、乾きは追いつかない。
チェリン少尉が私の表情を見て、淡々と告げる。
「受け入れるしかないのよ、アカネ軍曹。ここでは“真実”と“方便”は使い分けられる」
レオン曹長が肩を竦める。
「割り切れりゃ楽になる。灯りがついてりゃ、誰も腹の中までは覗かないってね」
「信仰でも、嘘でも。生き残れば正解」
カリナ軍曹が短い文を落とし、会話は閉じられる。
私はうなずくしかなかった。喉の苦味を唾で押し流しながら。
(街を守る灯りは、敵の心臓から抜き取った核……。皮肉すぎて、笑えもしない。でも、ここで立ち止まったら本当に飲み込まれる。受け入れるしかないんだ)
唇が乾いているのに気づき、舌で湿らせる。腹の奥の重さは消えないが、輪郭は見えてきた。
「ありがとうございます、少尉……えっとワン少尉」
チェリン少尉の視線がまっすぐ返ってくる。表情は柔らかいが、眼差しは量る秤だ。
「改めてチェリン・ワン少尉。名前で呼んでいいわ。形式に縛られるより、その方が親しみやすいでしょう」
呼び方の許可は、距離の調整。私はその距離を一歩だけ詰める。
「気をつけろよ、アカネ」レオンが口の端を上げる。「チェリンに名前で呼んでいいって言われたやつは、だいたい次の任務で地獄を見るんだぜ」
「レオン」チェリンの一言で、軽口の角が寝る。
私は呼吸を整え直して、短く頭を下げる。
「チェリン少尉……了解しました」
敬称を残す自分の慎重さに、少しだけ苦笑が出そうになる。
カリナはベレーの縁をまた指で整える。余計な言葉はない。だが、その沈黙が「無駄口は、今は不要」とはっきり言っている。
チェリンは視線を外さず、情報を一つずつ渡す。
「覚えておいて、アカネ軍曹。カゲロウは他と違う。秘密に近い部隊」
レオンが片手を上げてひらひらと振る。
「よろしくな、新人。世の中の真理は嫌でもすぐ覚えるさってね」
口元は軽いが、瞳の底にいくつかの影が沈んでいる。
(軽さは彼の装甲。中まで軽いとは限らない気がする)
チェリンの顎がカリナを指す。
「あなたはカリナ軍曹と一緒に行動。基本は前衛」
カリナが顎をわずかに引く。
「火力重視。初動で殲滅」
その二語の配置に、私の背筋が自然と伸びる。
(前に立つ。前に出る。その意味の重さは、先週の地獄で嫌というほど学んだ)
「それから、小隊にはあと二人隊員がいる。紹介は後で。今は状況を優先する」
情報の投入を絞る判断が、頭の容量に余白を残してくれる。
私は顎を引いて短くうなずく。胸の奥に小さな緊張の塊が残り、鼓動が一定の速さでその表面を叩く。
「ありがとうございます。改めて――アカネ・ベル軍曹です。お世話になります」
礼を言うとき、腰は落としすぎない。すぐ動ける姿勢を残すのが、ここでの礼儀。
「いい返事ね」チェリンが一瞬だけ目を細め、口元に淡い笑み。「その気持ちを忘れなければ、すぐ家族になれる」
“家族”という音が胸に弾み、同時に少し痛む。
(血じゃない家族。背中でつながる家族。欲しいものの形を、人は状況に合わせて作り替えるんだよね)
レオンが肩をすくめ、短い口笛。
「律儀だな。最初はそれでいい。そのうち汚れるけどな、ってね」
“汚れる”という言葉に、私は無意識に手袋の甲を見下ろす。まだ新品に近い繊維が、今日の終わりにはどうなるのか想像して、喉の奥に熱がひとつ乗る。
(三日で真っ黒にし、炭になった同期の顔を思い出す。笑ってた。泣きながら笑ってた)
三人の声が重なって、空気の密度が少しだけ増した。私はその重みを胸で受け、深く一度うなずく。風が頬を切り、耳の奥まで冷気が入る。鉄と土の匂いが肺の内側に広がり、血の巡りへ混ざっていく。胸の奥で鼓動がひとつ大きく鳴り、檻を内側から叩くように体の中心へ響く。
(ここで立つことを選んだのは、私だ。選ばされたと言い訳するのは簡単。でも、足は今、前に向いている)
その瞬間まで、私は「外の孤児」だった。生きるために兵士になり、死は近所の噂話みたいに常にそこにいた。
けれど、名を告げ、名を呼ばれ、役目を与えられて、境界を越えた。もう私はただの兵ではない。カゲロウの一員として数えられ、ここに立っている。
視線を上げる。山の稜線の向こうで、観測塔の灯りが昼の白さの中でも小さく瞬いている。風が強くなれば消えてしまいそうな、頼りない光。けれど、頼りないものほど手で覆いたくなる。覆おうとする意志が、進む方向をつくる。
(弱いから守る。守るから意味が生まれる。意味があるから、足が前に出る)
私は鼻の奥に残る金属臭を改めて感じ、理由を身体の側で説明してから息を整える。さっき嗅いだ焦げの匂いも、戦場の残像も、どちらもいまの私を作る材料だと認めるように。
四つ吸う。四つ止める。四つ吐く。
最後の息を吐き切ると、腹の緊張がひとつほどける。
(よし。ここからだ。私の手で、拾って、持ち帰る。灯りの正体が何であれ、覚悟は出来た)




