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第3話 聖槍の首輪

一ヶ月が過ぎ、私の身体はようやく動ける程度に癒えていた。

 だがその間、一度たりとも病院の外へ出ることは許されなかった。


 軍の管理下にある地下一層の軍事病院――そこは地上育ちの私にとって、まるで異世界だった。


 人工の光が昼夜を問わず降り注ぎ、温度も湿度も一定に保たれた空気。

 蜘蛛の脚音も、血の匂いもなく、眠ることすら命がけでなかったこの場所。

 ここが「安全」という言葉で表される世界なのだと、皮肉にも戦場をくぐり抜けて初めて知った。


 だが、いつまでもここに留まることはできなかった。

 私はすぐに、アイザカターミナルを囲う逢坂コロニーへと戻されることになった。


 ――地下都市には「市民権」というものがある。

 生まれながらに与えられる者もいれば、莫大な税を納めて手にする者もいる。

 けれど、地上で生まれ育った孤児には決して与えられない。


 だから私のような兵は、いくら血を流そうと「地下」に暮らす権利は持たないのだ。


 私たちの居場所は、地下都市の外周に広がる灰色の街――逢坂コロニー。

 そこは軍に駆り出される孤児や傭兵、難民、そして宗教に縋る者たちが身を寄せ合う、仮初めの居場所。

 鉄とコンクリートの壁の内側にある地下都市を、外から守るために作られた“盾”のような街だった。


 私は再び、その灰色の街へと戻された。

 兵として。

 軍曹として。

 だが市民ではなく、決して「地下」に触れられない存在のまま。


 地下と地上を繋ぐターミナルを出た瞬間、視界に飛び込んできたのは巨大な軍事施設だった。

 鋼鉄の壁が積み重なり、十三層にも及ぶ階層が天を突き刺すようにそびえ立っている。

 鉄骨はまだむき出しのまま組み上げられ、工事用のクレーンが夜空に影を落とし、今もなお上へ、上へと増築が続けられていた。

 その姿は、まるで金属の怪物が地面から這い出してきて、空へ伸びようとしているかのようだった。


 しかし、振り返った先に広がるのは全く別の光景だった。

 地上市民の生活圏――そこに並ぶ建物は、すべて百年前の残骸の再利用にすぎない。

 崩れた壁は錆びた鉄板で塞がれ、穴の開いた屋根からは雨が漏れる。

 街路を歩けば、煤にまみれた子供たちの裸足が泥水を跳ね上げ、古い発電機の唸りが絶えず響いている。


 湿った空気には焦げた油と排泄物の臭いが入り混じり、鼻を突く。

 足元の石畳には亀裂が走り、そこから湧き出した水に、鉄錆色の泡が浮いていた。

 誰もが疲れ切った顔でうつむき、わずかな食糧を抱えて薄暗い住居に消えていく。

 この光景に「街」という言葉は似合わない。

 そこに相応しいのは――スラムという言葉だった。


 軍事施設は生き物のように成長を続け、

 一方で人々の暮らしは百年前から一歩も前に進んでいない。

 その対比こそが、この世界の真実を突きつけていた。


地下から地上へ続くターミナルは、厚い隔壁でいくつも仕切られていた。

センサーに体温と識別番号を読み取られるたび、背筋が強張る。

門を抜けるたびに、空気の匂いがわずかに変わっていった。


そして――。

最後のゲートが開く。

冷えた地下の空気が背後へ流れ、外の風が頬を撫でた。


「……ただいま、地上。」

思わず言葉が漏れる。


人工灯ではない光が、灰色の雲を透かして差し込んでいる。

湿った土の匂い。

遠くで鳴る鉄板を叩く音。

地下にはなかった、生きた匂いと音が胸に押し寄せてくる。


私はようやく、再び地上に戻った。


「……戻ってきたよ。」

吐き出すように呟いた声は、灰色の空にかき消された。


「ののか……シルビア……仇は……必ず打つよ。」


風が頬を撫で、湿った土の匂いが鼻を突く。

地下にはなかった、生きた匂い。

その匂いが、二人がもうここにいない現実を、残酷なまでに突きつけてきた。


拳を強く握りしめる。

爪が掌に食い込み、血の気が引く痛みでようやく呼吸を繋ぎ止めた。


私は、もう二度とただの新兵ではいられない。


私は懐にしまっておいた古びた時計を取り出し、蓋を開いた。

短針は十一を指している。午前十一時――カゲロウから迎えが来る予定の時刻だ。


視線を上げると、逢坂の中央に聳える巨大な要塞が目に入る。

地上に十三階層を積み重ね、今もなお鉄骨が組まれ、上へ、上へと伸び続けていた。

その姿はまるで金属の巨人が大地から生まれ、空を侵食しているように見える。


だが、その外周に広がる市民コロニーは違う。

並ぶのは百年前の残骸を継ぎ接ぎした建物ばかり。

割れた窓には木板、崩れた壁には錆びた鉄板。

雨漏りの跡が黒い筋を引き、子供たちは裸足で泥に足を沈めながら遊んでいる。


要塞は常に進化を続けるのに、外周は時間を止められたかのようだった。

その対比こそが、この街の現実を突きつけていた。


「おっ、見つけた、見つけたよ。」


不意に背後からかけられた声に、肩がわずかに跳ねた。

振り返ると、無精髭を生やした長身の男が煙草をくわえ、紫煙を揺らして立っていた。


「嬢ちゃん、アカネ・ベル軍曹だろ?」

灰色の瞳が値踏みするように細められる。


「……あいつの言った通りだ。青い髪、目立つな。」


男はにやりと笑い、煙を空へ吐き上げた。

街の喧騒と油の臭いの中で、その声だけがやけに鮮明に響いていた。


「えっと……あなたは?」


思わず問い返すと、男は煙草を指で弾き、口元を緩めた。

紫煙が風に流れ、金髪の乱れをかすかに揺らす。


「俺か?」

くぐもった笑い声を漏らし、胸の階級章を軽く叩く。


「ギュンター・ライネル。第一遊撃中隊カゲロウの隊長だ。」


鋭い灰色の瞳がこちらを射抜く。

「よろしくな、軍曹。」


「隊長……ですか?」

思わず問い返しながら、胸元の階級章に視線を落とした。


「えっと、確かに……階級章は……」


言葉が途切れ、息が詰まる。

目の前の紋章が示すものに気づいた瞬間、声が裏返った。


「えっ……大佐!?」


ライネルは紫煙の奥で口角を上げ、肩を竦める。

「そう慌てるな。肩書きは大佐でも、やってることは便利屋の隊長だ。」


くぐもった笑いとともに、煙が灰色の空へと溶けていった。


「とわいえ、嬢ちゃん、中々厳しいねー。」

ライネルは煙草をくわえ直し、わざとらしく肩を揺らして笑った。


「よく言われんだ。“らしくない”ってね!」

灰色の瞳が細まり、冗談めかしながらも底の読めない光を宿す。


「まぁ、それが俺の売りってやつだ。」


紫煙がふわりと立ち上り、煤けた街の空気に混ざっていく。

軽口に聞こえる言葉の端々から、ただの皮肉屋では済まされない重みが滲んでいた。


「す、すみません。大佐……いえ、隊長。」

言いながら、思わず視線を伏せてしまう。


「私、外周コロニーの出身なので……あまり学がなくて……。」


言葉の途中で、舌が絡まる。胸の奥に恥ずかしさがこみ上げ、声が小さくなる。


ライネルはそんな私を一瞥し、煙を鼻から抜きながら口角をわずかに上げた。

「……学なんて、戦場じゃ役に立たねぇさ。」


紫煙の向こうで、灰色の瞳が鋭く光る。

「必要なのは、倒れても立ち上がる guts だけだ。……お前には、それがある。」


「そうでしょうか……?」


「おう、そうだとも。――篠宮の受け入りだがな。」


笑いながらそう告げると、無精髭の下で歯がのぞいた。

灰色の瞳は値踏みするように細められ、煙の向こうから私をじっと射抜いている。


「……でも、何も出来ませんでした。」

声が震え、思わず視線が地面に落ちる。


ライネルは足を止め、紫煙を長く吐き出した。そして灰色の瞳が鋭く光り、口元に獰猛な笑みが浮かぶ。

「安心しな。次からは――狩る側だ。」


その言葉は冗談ではなく、命令のように重く響いた。

街の雑踏の音すら、その瞬間だけ遠ざかった気がした。


私は微かに、大佐の奥に潜むものを見た気がした。

それは笑みの裏側に隠れた、鋭い刃のような狂気。

紫煙の向こうにちらりと覗いたそれに、背筋を撫でるような悪寒が走る。


指先が冷え、胸の奥がざわつく。

それでも目を逸らせなかった。

灰色の瞳に捕らえられたまま、私は呼吸を浅くした。


「まぁ、焦んなさいな。」

ライネルは肩をすくめ、タバコを指で弾いた。

紫煙が風に散り、無精髭の下の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。


「まずは“カゲロウへようこそ”と言いたいところだが……。やらなきゃいかん事があるのさ。」


声は軽い調子のようでいて、その底に鋼の響きを隠していた。

胸の奥で鼓動が一つ跳ね、私は無意識に息を呑んだ。


「……はい。奴らを殲滅するためなら、なんでもやります。」

その言葉は自分の口から出た瞬間、刃のように鋭く響いた。


ライネル大佐は煙を吐き出しながら、ゆっくりと口角を上げた。

「……言ったな。」


灰色の瞳が細められ、まるで証文を刻み込むように私の顔を射抜く。

その目に捕らえられた瞬間、もう後戻りできないのだと理解した。


「じゃあ――まずは秘密結社に入ってもらおうか。かっこいいだろ?」


ライネル大佐は、いつものように紫煙を吐き出しながら笑った。

その声が冗談めいているのか、本気なのか、判別がつかない。


「えっ……?」

思わず声が漏れる。


足が一瞬止まりかけたが、大佐は振り返らずに歩を進める。

無精髭の下で笑みを浮かべたまま、背中から放たれる空気は軽くも重くも感じられた。


私はついていくしかなく、胸の奥で疑問と不安を押し殺した。


「そんなに遠く無いさ。」

煙を吐きながら大佐は言った。


「足元を見てないとつまづくぜ。……まぁ、真実は煙越しにしか見えないがな。」


意味深な言葉を残し、振り返りもせずに歩みを進める。

その背中は気だるげに見えて、どこか抗えない力で私を引き寄せた。


促されるまま、私は足を動かす。

灰色の街のざわめきが遠のき、やがて大佐の靴音と煙草の匂いだけが、道を導く目印になった。

 


--------------------聖槍教--------------------

 


私は大佐の背を追うように歩を進めた。

灰色の街並みは煤に染められたように色を失い、窓枠は歪み、建物の外壁にはひび割れが走っていた。人影は少なく、風が吹くたび、砂と埃が路地を流れていく。


やがて、濁った景色の奥から、異質な輝きが差し込んだ。

鈍色の世界を切り裂くように、金色の外壁を持つ巨大な建物が姿を現す。


聖槍教。

それは人々の生活と命を守り、NOVAと戦う“神”として信じられてきた存在。

外周で育った私にとっても、その教えは息を吸うように日常に染み込み、疑うことなど考えもしなかった。


実際、私も見たことがある。

夜空を覆うNOVAの群れへ、雷鳴のように落ちた光の柱を。

空気を裂く轟音と、視界を白で埋め尽くす閃光の中、異形が一瞬で黒煙と化し消え去った光景を。

――あれを神の奇跡と呼ぶのだと、幼少の頃でも理解出来た。


けれど、目の前に聳えるこの建物は、ただの“神殿”という枠には収まらない。

黄金の壁は輝きながらも鋭い刃のように冷たく、装飾ではなく鎧を思わせる威圧感を放つ。

自然と呼吸が浅くなり、足が鈍り、喉の奥がひりついた。


ライネル大佐は歩みを止め、煙草をくわえた唇から紫煙を吐き出す。

口元に浮かぶ笑みは軽いが、背後に広がる黄金の壁が、その軽さを逆に異様に見せていた。

それは奇跡を称えるよいうより、権威を誇るという言葉が合っているように思えた。


「軍曹、着いたよー。」

飄々とした声が、張りつめた空気の中に不釣り合いに響く。


思わず私は声を漏らす。

「……ここ、ですか?」


金色の壁を仰ぎ見ながら、頭の中で疑問が次々と膨らむ。

(駐屯地に行くはずだったのに。なぜ教会へ?)


「なんだ、納得いかねぇ顔してるな。」

大佐は紫煙越しに、こちらを愉快そうに見つめた。


「えっと……てっきり、カゲロウの駐屯地に行くと思ってました。」

声が自然と小さくなり、戸惑いを隠せなかった。


「駐屯地? ああ、行くさ。だがその前に、ここを通らなきゃならねぇ。」

吐き出された煙が揺れ、灰色の瞳がじっと私を射抜く。


「……通る?」


「そうだ。軍曹、お前もこれから“正式な一員”になる。だったら、避けて通れねぇ儀式がある。」


「儀式……って、宗教のですか?」

胸の奥から声が弾かれるように出る。


「宗教って言い方は半分当たり、半分ハズレだな。」

ライネルはわざとらしく肩をすくめ、煙草の灰を指で弾いた。

「俺たちの飯も武器も、この聖槍教があってこそ。軍と切り離せるもんじゃねぇんだ。」


「……それでも、どうして私が?」

疑問が押し寄せ、言葉を抑えきれなかった。


大佐は煙を吐き、わずかに笑みを歪める。

「理由? 簡単な話だ。お前は“生き残った”からだよ。」


その一言が胸を貫き、心臓が荒々しく跳ねる。喉の渇きが増していく。


「いいかい、軍曹。」

ライネル大佐は煙草をくゆらせながら足を止め、淡々と告げた。

「聖槍教ってのは軍と密接な関係だ。このバカでかい軍事組織を支えてるのは――地下にいらっしゃる“聖槍教の皆様”のおかげってわけさ。莫大な資金を供与してくださってるんだからな。」


理解の及ばぬ話であっても、その重みは伝わってくる。私は思わず頷いた。

「……なるほどです。」


「だろ?」

紫煙の向こうで大佐はにやりと笑みを深める。

「だから中央所属のカゲロウに加わるなら、その“ありがた~い教え”をしっかり学んでもらう必要があるわけだ。」


「……教え、ですか。」

無意識に言葉が漏れる。


「そう、教えだ。」

ライネルは声を低くし、指先で私の喉元を示した。

「つまり軍曹――その細い首に、首輪をかけようって話さ。」


「……首輪……?」

冷気が背筋を走り、手が自然と喉を押さえた。


大佐は紫煙を吐きながら含み笑いを浮かべる。

「おうとも。首輪をつけて、“お利口さん”にする。……ほら、試しに“ワン”って吠えてみな?」


「わ、ワン……?」

反射的に声が漏れ、頬が熱を帯びていく。

「な、何を言わせるんですか!」


ライネルは腹を抱え、大きく笑った。

「ははっ、いいねぇ軍曹。素直なのは悪くねぇ。……でもな、ここから先は“はい”しか許されねぇんだ。」


冗談のように見える笑みの奥で、灰色の瞳は冷たい刃を光らせていた。


「ワン、って……」

自分の口から出た言葉に自ら耳を赤く染め、視線を逸らす。

その様子に大佐はさらに笑い声を上げ、紫煙を吐きながら肩を揺らした。


笑い声が途切れる、その刹那。

空気がわずかに変わった。背後の路地から靴音が近づき、低く落ち着いた声が重なった。


「……ライネル、あまりアカネをいじめてくれるなよ。」


驚いて振り向く。

路地の影から現れたのは篠宮大尉だった。

黒い長髪が肩で揺れ、街灯に照らされて光を帯びる。

腕を組み、背筋をまっすぐに伸ばした姿は、こちらに目を向けるよりも、大佐に視線を突き刺していた。


「し、篠宮大尉!」

慌てて姿勢を正し、敬礼をする。


ライネル大佐はちらりと私を見やり、わざとらしく大きなため息をついた。

「おいおい……俺の時はしなかったくせに、篠宮の前ではきっちりするのかよ。」


「す、すみません!」

声が裏返り、背筋が緊張で固まる。


「ったく……。」

大佐は肩を落とし、灰色の瞳を半眼にしてぼやいた。

「それより篠宮、お前な。新兵の前なんだから、ちゃんと“大佐”と呼べよ。」


篠宮大尉は鬱陶しそうに手をひらひらと振り、気のない声で答える。

「はいはい、悪かったよ……大佐殿。」


「“殿”をつける必要はねぇんだよ!」


「細けぇな……。」

篠宮は鼻で笑い、だるそうに肩をすくめる。

「まったく、煙草の煙と一緒に小言まで撒き散らすなよ。」


二人のやり取りを前に、私は胸の奥で複雑な思いを抱いた。

(この二人が……カゲロウの中心なのか……)



--------------------聖槍教・内部--------------------


ライネル大佐と篠宮大尉に挟まれるようにして、私は教会の扉をくぐった。

重厚な鉄の蝶番が軋む音とともに、冷たい空気が肌を撫でる。


内部は、外観から想像していた以上に豪奢だった。

高くそびえる天井には金箔の文様がびっしりと刻まれ、光を受けて鈍い輝きを放っている。

床一面に敷かれた赤い絨毯は、足を沈めるたびに柔らかく吸い込むようで、外周の泥道しか知らない身には場違いなほど滑らかだった。


壁際には巨大な燭台が並び、無数の炎が揺らめいている。

それらが放つ明かりは、単なる照明ではない。

まるで神の眼差しで監視されているような圧を伴っていた。


――この装飾一つで、逢坂コロニーの何人を養えるのだろう。

私は胸の奥でつぶやき、歯の裏を無意識に噛んだ。


外周の街では、ひび割れた壁や錆びた屋根の下で子どもたちが雨を避けるのに必死だというのに。

ここでは、黄金の彫刻が天井から無造作に吊り下げられ、床に敷かれた絨毯はまだ一度も泥に汚されたことがない。


「どうだ? 軍曹。」

ライネル大佐が紫煙をくゆらせながら口を開いた。

「立派だろう? これが“神の加護”ってやつさ。」


篠宮大尉は鼻で笑い、腕を組んだまま天井を見上げる。

「加護というより……ただの見せびらかしだな。」


私は言葉を失い、ただ二人の背に続いた。

その一歩ごとに、豪華な内装と、外周の灰色の街との落差が、胸の奥で鋭い棘のように突き刺さっていった。


ライネルは歩を緩め、紫煙を吐きながら横目で篠宮を見た。

「そう言うな。……いい加減、お前もな、誰彼かまわず噛みつくその牙を仕舞うことを覚えろよ。」


篠宮は返事をせず、ただ顎をわずかに上げたまま天井を見上げている。

その横顔に灯火の光が揺らぎ、黒い瞳の奥に反抗的な色を映した。


「聖槍教に睨まれでもしてみろ……」

ライネルの声は低く、だが笑みを浮かべたまま鋭さを帯びていた。

「首が飛ぶじゃ済まねぇぞ。」


その言葉に、私は思わず喉を鳴らした。

冗談半分の軽口に聞こえながら、内に潜む現実味が皮膚を冷やす。


聖槍教――この街を覆う宗教の名は、単なる祈りの象徴ではない。

信仰に逆らうことは、国家に逆らうことと同義。

その牙を向ける者には容赦なく裁きが下される……と、外周の子どもですら知っている。


篠宮大尉はなおも無言を貫き、唇の端をかすかに吊り上げるだけだった。

反抗なのか、諦念なのか、あるいはただの癖なのか。

私には判断できず、ただ二人のやり取りに息を潜めるしかなかった。


絨毯を踏む足音が響く。

揺れる蝋燭の光が、金箔の装飾を煌めかせる。

その豪奢さが逆に、ここでは人の命より“教え”の方が重いのだと告げているようだった。


ライネルは紫煙を吐き、私の肩をちらりと見やった。

「軍曹、わかってるだろうが……ここでの返事は?」


問いかけられ、私は喉を詰まらせながら答えを探す。

「……ワン、でしょうか?」


口にした瞬間、篠宮大尉の視線が横から突き刺さる。

何を言っているのかと、冷ややかに笑うような気配を感じて、耳の先まで熱くなった。


ライネルは一拍の沈黙のあと、深々とため息をつき、肩をすくめた。

「……たく、それは冗談だ。」


笑みを浮かべながらも、灰色の瞳が鋭く光る。

「ここじゃ、何を聞かれても――“はい”だ。それ以外は許されねぇ。わかったな。」


声は軽い調子に聞こえるのに、その底には鋼のような圧があった。

絨毯に沈む足取りが、いつのまにか重くなる。

この場所では言葉すら縛られている――その事実が、じわじわと胸を締め付けた。


私は小さく息を呑み、こくりと頷いた。

「……はい。」


ライネルは煙をくわえたまま、ぼそりと呟いた。

「……ほら、お出ましだ。」


その目線を追い、私も祭壇の奥にある巨大な扉へ視線を移す。

厚い鉄で作られたその扉が、きしむような低音を立てて開かれていく。

燭台の炎が一斉に揺らぎ、空気が張り詰めた。


そこから姿を現したのは、一人の男だった。

黒と金で縫い上げられた重厚な法衣を身にまとい、胸元には槍を象った徽章が輝いている。

短く刈られた黒髪に、鋭い眼差し。

その瞳は氷の刃のようで、目が合った瞬間に息が詰まる。


男は歩を進め、壇上に立つと低く響く声を放った。

「ライネル大佐。先日はご苦労様でした。」


その言葉に、私は胸の奥が跳ねる。

きっと山崎山での戦闘――あの夜の、Nova撃退のことを指しているのだろう。

血と硝煙、仲間の断末魔が脳裏に蘇り、思わず拳を握りしめた。


男の言葉に、横で立つライネルがふっと笑みを浮かべた。

だがそれは心からのものではなく、張り付けた仮面のような笑顔だった。


「どうも……。クロイツ導師」

そう短く返し、ゆっくりと頭を垂れる。


作法に則った仕草に見えながら、その背中からは気だるさと警戒が同時に滲み出ていた。

紫煙を絶やさぬまま、仮面の笑顔で頭を下げる姿は、狡猾な獣が牙を隠す瞬間のように映った。


私は思わず息を呑み、ライネルという男の二面性を、改めて思い知らされた。


神官の男。クロイツは私に冷たい視線を投げかけた。

その目は人を見るのではなく、品定めするように細められている。


「……ほう。君が噂の新兵か。」

声は低く、石を擦るような響きがあった。


「七匹撃破という報告は読んだが――本当かね?」


鋭い眼差しに射抜かれ、背筋が硬直する。

ライネル大佐の言葉が脳裏をよぎる。

――ここでは、はい、しか許されない。


私は喉を鳴らし、小さく息を吸い込んだ。

「……はい。」


自分の声が、蝋燭の炎に吸い込まれて消えるように響いた。


クロイツの口元がわずかに動いたが、それが嘲りなのか満足なのか、私には分からなかった。


クロイツ導師は言葉を重ねた。

「報告によれば、君は戦友二人を失い、中隊は全滅。……正直、これは由々しき事態だ。」


蝋燭の光が男の法衣を金色に照らし出し、その口元だけが冷ややかに動く。

「君は保身に走り、仲間を見殺しにした――そういうことではないのかね?」


その瞬間、頭の中が真っ白になった。

耳の奥が脈打ち、胸の奥から熱がせり上がる。

侮辱だ。あの夜、仲間を必死に守ろうとしたあの血まみれの戦いを――なかったことにされる。


「……っ!」

思わず声を荒げそうになった刹那。


袖口が引かれた。

振り返ると、ライネル大佐が私の袖を軽くつかんでいる。

灰色の瞳が鋭く細まり、首をわずかに横に振った。

――ここでは、“はい”しか言うな。


無言の圧が、私の喉を押さえ込む。


私は歯の奥を強く噛み締めた。

血の味が舌の上にじわりと広がり、喉の奥に鉄の苦みが落ちていく。

瞼を閉じ、深く息を吸い込む。


「……はい。」


しぼり出すように答えた声は、胸の奥を焼くような悔しさとともに祭壇に響き、蝋燭の炎をかすかに揺らした。


クロイツの目は冷たく光り、わずかに口角を吊り上げた。

まるで私の従順さを試すかのように。


クロイツはゆっくりと歩み寄り、ついに私の目の前に立った。

蝋燭の炎に照らされたその顔は冷ややかで、鋭い黒髪の影が額に落ちている。

視線は、哀れな小動物でも見るかのように私を見下ろしていた。


「聖槍の従者には勇気が必要だ。」

その声は低く、硬い石を叩くように響く。

「だが君には――保身もまた、人間として自然な性ではある。……不完全な存在だからこそ、弱さにすがる。」


男の唇がわずかに歪む。

「私が思うに、戦死した仲間たちも、もし逆の立場ならば――君を見捨てただろう。」


胸の奥が熱くなり、血が逆流するような感覚に襲われた。

それは二人に対する冒とくだ。


頭に響くのは、ののかの震える声。シルビアの断末魔。

その全てを“見捨てるだろう”と勝手な想像で、言い切るこの男に、怒りが爆ぜそうになる。


「……っ!」

声にならない息が喉から漏れる。


だが、その瞬間、袖口にまだ残るライネルの掴んだ感触が甦る。

――“はい”以外は許されない。


私は奥歯を強く噛み締め、唇を震わせながら目を閉じた。

鉄の味が舌に広がる。


「……はい。」


しぼり出すように吐き出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。

蝋燭の炎がふっと揺れ、祭壇の影が大きく広がる。


クロイツの瞳は冷えきっていて、まるで私の怒りすら“想定通り”と見透かしているかのようだった。


クロイツ導師の声が、祭壇の冷たい空気を震わせる。

「さて……問題なのは、そんな君に果たして“生きる価値”があるのか、ということだ。」


鋭い眼差しが、私の心臓の奥底まで突き刺さってくる。

「だが、それは我々が決めるものではない。君自身の意志の問題だ。……聞かせてくれたまえ。そんな君でも、聖槍の従者としてNOVAに一矢報いたい――そう思うかね?」


言葉を浴びせられた瞬間、胸の奥にざらつく違和感が生まれた。

何故だかは分からない。

だが本能で理解した。


――これは試練などではない。

この男は、私に自己嫌悪を植え付けようとしている。

罪悪感で心を縛り、その鎖ごと従順にさせようとしているのだ。


頭の中で、ののかの泣き顔と、シルビアの最後の叫びが交錯する。

胸を焼くような悔しさと怒りが渦巻き、喉が震える。


(……ならば、そこだけは譲らない。)


私は視線を落とし、拳を握りしめた。

爪が掌に食い込み、血の匂いがかすかに漂う。

それでも構わなかった。


「……はい。」


声は震えていたが、確かに私自身の意志だった。

一矢報いる。その一点においてだけは、迷いも後悔もない。


蝋燭の炎が揺らぎ、影が長く伸びる。

その瞬間、クロイツの瞳がわずかに細まり、口元が見えないほど薄く笑んだ。


クロイツは言葉を区切るように沈黙したのち、ゆっくりと歩み寄ってきた。

気づけば、私の目の前にその黒衣が影を落としている。

次の瞬間――


「……っ!」


おもむろに、両腕が私の背に回された。

黒と金の法衣に包まれたその腕は、鉄のように重く、逃げ場を与えない。

温もりというより、濁った冷気が背中にまとわりつく感覚。

全身に悪寒が走ったが、私は奥歯を噛み締め、声を上げるまいと耐えた。


「いいでしょう……子羊よ。」

耳元で囁かれる声は妙に湿っていて、吐息が首筋を撫でる。

背筋が凍るような嫌悪感に、呼吸が詰まりそうになる。


「聖槍の奇跡は、あなたをも照らすでしょう。……聖槍――いや、聖槍の使徒ロギアは、あなたを末端の見習いとして迎え入れる。」


胸に押しつけられる黒衣の布地からは、線香のような香りと、どこか汗の染みついた人間臭さが混じり合い、吐き気を誘った。

けれど、この場で「はい」以外を口にすれば何が起こるか分からない。

私は必死に瞼を閉じ、ただ時が過ぎるのを待つしかなかった。


「心配しなくても大丈夫だ。一緒に……学んでいきましょう。」

その声は優しさを装っていたが、指先に滲む圧力が逃げられぬ首輪のように思えた。


そしてクロイツは懐から小箱を取り出し、私の手を強引に掴んだ。

冷たい金属が指に押し込まれる。


百合の紋章が刻まれたリング――。

それは奇跡の執行者の証であるはずなのに、私には“契約”ではなく“監禁”の印にしか思えなかった。


私は唇を震わせながら、ただ一言。

「……はい。」


そう答える声だけが、私の誇りを繋ぎとめる最後の砦だった。


金色に輝くはずの聖なる聖槍教――。


だが、私の目には違って映った。

煌びやかに光る柱も、荘厳な装飾も、燭台に揺れる炎さえも……その全てが、泥に塗れた偽りの光にしか見えなかった。


胸の奥に生まれたのは畏敬ではなく、澱んだ嫌悪。

それは単なる反抗心ではない。もっと根源的な、本能の警鐘だった。


(……おかしいのは、私の方なのか?)

思考の隙間にそんな疑念が差し込む。

他の者たちは恭しく跪き、祈りを捧げている。

なのに私だけが、吐き気にも似た違和感を覚えている。


けれど――。

私の脳は、確かに警告していた。

私の身体は、確かに震えていた。


そして。

私の中に眠る、理解できない不可思議な記憶は――。

この場所が危険であることを、声なき声で訴え続けていた。


金色の輝きが視界を覆うほどに、その裏に潜む黒い影が濃くなる。

まるでこの宗教そのものが、私を呑み込もうと口を開けて待っているかのように。


「……はい。」


無意識に口から漏れたその言葉とともに、指にはめられた百合の紋章が鈍く光を放った。

それは祝福の光ではなく、鎖の煌めきに見えた。


胸の奥が冷たくなる。


religion of steel ― ロッテンワールド ―


腐蝕した世界を舞台に、少女アカネ・ベルと仲間たちはARCを纏い、異形の怪物NOVAとの果てなき戦いに挑む。


闇に沈む都市、崩壊した秩序、そして人類を試す冷酷な現実の中で、それでも彼女たちは前へ進む。




本作は現在、YouTubeにて 動画化プロジェクト も進行中です。




小説と映像、二つの表現で広がる「ロッテンワールド」を、ぜひあわせてお楽しみください。


(チャンネルはこちら → https://www.youtube.com/watch?v=mxdmzSSUJkg )

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