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第2話 皮肉な安全圏

religion of steel ― ロッテンワールド ―


腐蝕した世界を舞台に、少女アカネ・ベルと仲間たちはARCを纏い、異形の怪物NOVAとの果てなき戦いに挑む。


闇に沈む都市、崩壊した秩序、そして人類を試す冷酷な現実の中で、それでも彼女たちは前へ進む。




本作は現在、YouTubeにて 動画化プロジェクト も進行中です。




小説と映像、二つの表現で広がる「ロッテンワールド」を、ぜひあわせてお楽しみください。


(チャンネルはこちら → https://www.youtube.com/watch?v=mxdmzSSUJkg )

--------------------山崎山中--------------------


私の身体は揺れていた。

誰かの腕に抱えられているのか、あるいは担架に縛り付けられているのか。

もうA.R.K.は動かない。装甲の接続部は焼け焦げ、駆動音ひとつしない。代わりに自分の骨がきしむ音と、内臓が擦れ合う鈍痛だけが鮮明に伝わってくる。


視界の端で、赤い機体が月光を背にして歩いている。

残鉄ブレードを背に収めたその姿――カゲロウと呼ばれる特殊部隊。

彼らに救われたことだけは、薄れる意識の中でも理解できた。


やがて、揺れが止まった。

開閉式の重い扉が軋みを上げ、地中へ続く巨大なシャフトの入口が現れる。

ここは京都インペリアルを守る東の門――アイザカターミナル。

無数の探照灯が闇を切り裂き、鉄の壁が月明かりに照らされて鈍く光を返す。


「搬送優先だ! 生存者一名!」

怒号が飛び交い、担架が滑らかに地下へ降ろされていく。

鉄の階段を踏み鳴らす兵士たちの足音が重なり、私を包み込んだ。


目に映ったのは、鉄筋コンクリートで囲まれた地上病院の内部。

戦場から直結するこの施設は、消毒液の刺激臭と鉄の匂いが混じり合い、息を吸うたび喉を灼く。

光が滲み、視界は霞んでいく。

それでも人々の慌ただしい影と、鉄扉が開閉する重い音だけは、妙に鮮明に感じられた。


身体は、敵に体当たりした衝撃でぼろぼろになっていた。

骨の奥まで痛みが染み込み、手足を動かすたびに痺れが走る。

それでも――命に別状はない。


私はそれを救いとは思えなかった。

むしろ呪いのように感じながら、白い天井を見つめ続ける。


皮肉なことに、身体をぼろぼろにされたこの時になって、私は初めて「地下」という場所に降りることになった。

アイザカターミナルのゲートを潜る兵士など、選ばれた者か護送対象だけ。

地上に生きる私にとっては、本来なら近づくことすら許されない領域。

その「下側」に――今、私は運ばれている。


重厚な隔壁が閉まる音が響く。

金属同士が擦れ合う低音が胸の奥まで伝わり、外の世界との縁を完全に断たれた感覚に背筋が凍った。

足元を揺らすエレベーターの振動は、戦場で受けた衝撃よりも不思議と強く記憶に残る。


空気が変わったのは、その直後。

湿った泥と血の臭気に慣れ切っていた鼻腔に、刺すような消毒液の匂いが流れ込む。

薬品と金属が混ざり合った冷たい匂い。

安全と清潔を象徴するはずなのに、なぜか死体安置所を思わせる嫌な連想が脳裏を掠めた。


鉄扉が順々に開閉する音が通路に響き、遠くでは担架のキャスターが床を擦る乾いた音が絶え間なく続いている。

そのリズムに合わせるように、ブーツの踵が打ち鳴らされ、兵士の短い号令が反響した。

地上の粗野な喧騒とは違う。

ここは秩序立ちすぎていて、逆に人間味を削ぎ落としていた。


眩しい白光が天井から降り注ぎ、瞳孔が縮む。

鉄とコンクリートで組まれた壁は塗料で白く覆われ、余計に光を跳ね返してくる。

戦場で見た炎や閃光とは違う、目に痛いほどの人工的な白さだった。


これが「安全」という言葉で示される世界。

地上の者にとっては夢物語のような場所。

だが――担架の上で動けない私にとって、それはただの異世界でしかなかった。



--------------------生還--------------------



私はベッドの上で、鉄の匂いと消毒薬の匂いが入り混じる空気を吸い込みながら、ぼんやりと天井の白光を眺める。

地上では考えられないほど均一に整えられた光。敵影も嵐もなく、外骨格に頼らずとも息ができる空間。

それが「安全」というものの実体。


けれど、その安全は私が死にかけた末に与えられたものだった。

仲間を失い、自分も自爆さえ叶わず、泥の中で虫けらのように転がった末に手にしたのがこれかと思うと、どうしても皮肉にしか聞こえない。


皮肉な安全。

それでも、冷たいベッドの感触が背を支え、薬品の匂いが肺を満たすうちに、張りつめていた心の糸がじわじわと解けていくのを感じた。

外骨格を外された身体は鉛のように重く、筋肉の痛みは骨にまで染み込んでいる。

それでも、ここには蜘蛛の足音も、仲間の悲鳴も、迫り来る赤い光も存在しない。


目を閉じると、まぶたの裏に焼き付いた戦場の残像がまだ滲む。

ノノカの声、シルビアの最後の姿。

胸を締めつけるそれらを押し込めるように、私は深く息を吐き出した。


そして、意識が暗闇に沈んでいく。

皮肉の末に与えられたこの安全に抱かれ、私はようやく眠りへと落ちた。


--------------------カゲロウ--------------------


夢は見なかった。

ただ暗闇に沈み、時間の感覚すら途切れていた。


まぶたの裏に光が差し込んだことで、私はゆっくりと目を開く。

天井は無機質な白。

規則正しく点滅する照明の僅かなノイズ音が、静まり返った空間で妙に大きく響いた。

消毒液の匂いはまだ濃く、喉が乾いた紙のようにひりついている。


「……目を覚ましたか。」


その声に、心臓が一度跳ねる。

視線を横に向けると、ドア脇に立つ影があった。

長身の女性。艶のある黒髪を背に流し、目は夜を映すように鋭い。


赤い外骨格ではなく、今は簡素な戦闘服姿。

それでも、ただ立っているだけで周囲の空気を支配している。


彼女は私の顔をじっと見つめ、無表情に口を開いた。

「こちらの医師が言うには、命に別状はないそうだ。……どうだ、動けるか?」


カゲロウ02。

戦場で蜘蛛型を一瞬で切り裂いた赤のA.R.K.の装着者。

夢の続きのように思えたその存在が、今、目の前に立っていた。


「……はい、大尉。」

反射のように声が出る。


自分でも驚いた。

喉はまだひりつき、息を吸うだけで肺が痛むのに、言葉だけは軍人として整っていた。


その理由は、目に入った階級章。

黒髪の女性の肩口に縫い付けられた赤地のエンブレム。

交差する二本線と、銀の星。

――大尉。


彼女はわずかに眉を動かした。

だがすぐに視線を逸らし、窓越しに白い照明の廊下を見やる。


「階級を見分けられるのか。新兵にしては、よく訓練されている。」


淡々とした声。

褒めているのか、それともただの事実確認なのか。

その温度の分からなさが、かえって背筋を伸ばさせた。


私は掛け布団の下で、無意識に拳を握り込む。


「……大尉が、私を助けてくれたのですよね?」

気づけば声に出していた。


乾いた喉から掠れた声がこぼれたが、確かに届いた。

黒髪の女性が、ゆっくりと振り返る。


光を反射した黒い瞳が一瞬だけ細められ、表情にわずかな揺らぎが走る。

しかし、返ってきたのは冷静な声音だった。


「……任務だ。」


その一言は淡々としていて、感情を切り落としたように乾いている。

だが、刃物のようなその響きの奥に、ほんの微かな安堵が潜んでいたのを、私は聞き逃さなかった。


「助けたのではない。……結果として、生き残ったのがお前だっただけだ。」


彼女はそう言っても、私の視線を避けようとはしない。

冷ややかな声とは裏腹に、その瞳の奥は真っすぐに私を射抜いていた。


黒髪の大尉は短く息を吐き、わずかに視線を落とした。

蛍光灯の白が肩口に滲み、その沈黙が答えを告げているように思えた。


「……お前の小隊は全滅だ。」


その言葉は、金属の扉が閉じられる音よりも重く響き渡る。

耳の奥で残響が反響し、鼓膜を震わせた。呼吸が浅くなり、肺に入る空気すら重たく感じる。


ノノカの震える声。

シルビアの断末魔。

あの夜の光景が、まぶたの裏に次々と蘇ってくる。

胸を圧迫する重みは、ベッドの上にさらに鉄塊を乗せられたかのようだった。


布団の下で、握った拳が爪で掌を切り裂く。

じわりとした痛みが、かろうじて現実を引き留めてくれる。

もし痛みがなければ、心はすぐに過去へと沈んでしまいそうだった。


大尉はそれ以上言葉を足さなかった。

ただ真っ直ぐにこちらを見つめてくる。

その無言の視線が、誰よりも残酷に真実を突き付けていた。


「……そうですか。」

声を出した瞬間、胸の奥がひどく沈んでいく。


あの作戦には、私と同じ士官学校の同期が大勢参加していた。

訓練の合間にパンを分け合った顔。

廊下でふざけ合い、点呼で小声に笑い合った声。

誰もが震えながらも、未来を語っていた。


――それが、もう二度と戻らない。


胃の奥が反転するような感覚に襲われ、喉に酸味が込み上げてくる。

ベッドの端を掴み、肩を震わせる。

鉄と消毒薬が混ざった空気が余計に吐き気を煽り、肺を締めつけた。


「……っ……!」


声にならない息が漏れ、視界が歪む。

目を閉じても、脳裏には血の霧と赤い光しか浮かばなかった。


大尉は何も言わず、ただ静かに立っている。

私の吐き気を堪える姿を、黙って受け止めるように見守っていた。


やがて彼女は背を向け、病室の扉へ歩み寄る。

鉄の蝶番がきしむ音が、やけに大きく響いた。

その背中は白い廊下に溶け、扉の向こうへ消えようとする。


短い沈黙。

吐き気を押し殺すように額を手で覆い、呼吸を整えていると、再び扉が開いた。

振り返ると、彼女の手には透明なボトルが握られていた。


ベッド脇まで歩み寄ると、大尉は無造作にそれを差し出す。

「……ゆっくり飲め。」


低く澄んだ声。

命令のようでいて、どこか柔らかさが混ざっていた。


指先に触れたボトルは冷たく、汗ばんだ掌を瞬時に冷やしていく。

震える手でキャップを外し、唇に当てた。

水が喉を通った瞬間、火照った身体の隅々まで染み渡るように感じられる。


金属と血と薬品の臭いで満ちたこの部屋で、唯一「生きている水」の味がした。


大尉は何も言わず、腕を組んで立ち尽くす。

私が水を口にする様子を、黙って見守っていた。


ボトルの冷たさを掌に感じながら、喉を潤す。

一口、二口――乾ききった喉が水を受け入れるたび、胸に張りついていた鉄の味が少しずつ薄れていく。


そのとき、大尉の声が静かに落ちてきた。

「……このキョウトの人々の命を支える、その水。どこから得た水かわかるか?」


私は息を止め、手にしたボトルを見つめた。

透明で無色。

だが、この地下世界でそんな水が容易に得られるはずがない。


大尉の黒い瞳は、探るように私を射抜いていた。

答えを急かしてはいない。――むしろ私が気づくのを待っているように感じられた。


胸の奥に、違う種類の緊張が走る。


「……お前たちが守る、逢坂の水だよ。」


大尉はそう告げ、窓もない病室の白壁へ視線を流す。

声は低く、感情を抑え込んでいる。

だがその奥に、かすかな疲労と重さが滲んでいた。


「慰めにはならんかもしれんがな。どう思うかは――お前次第だ。」


ボトルを握る指先が強張った。

逢坂の水。

私たちが血を流し、命を賭して守った東の門の向こうにある資源。

それを、私は今こうして口にしている。


水の冷たさが喉を潤すたび、戦場で散った仲間たちの声や、崩れ落ちた姿が脳裏に蘇る。

守るために死んだ彼女たちと、飲んで生き延びる私。


胸が焼けるように痛み、言葉は出なかった。

ただボトルの中の透明な液体が、皮肉そのもののように見えて視界が歪む。


大尉は何も言わず、ただ静かにその沈黙を受け止めていた。


「……大尉。助けてくださって、ありがとうございます。」

頭を下げることもできず、視線を落としたまま言葉を絞り出す。


しばしの沈黙。

私は唇を噛み、続けた。

「けれど……なぜ、私の元に来られたのですか? なもなき新兵のお見舞い、というわけではないように思えて……」


声は震えていた。

痛みのせいだけではない。

この黒髪の大尉は、ただ慰めに来たのではないと、直感で分かっていた。


大尉は腕を組んだまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。

靴音が床に響き、その重みが胸にのしかかってくる。


「……察しは悪くないな。」


声は冷たくもなく、温かくもない。

戦場を知る者だけが持つ、乾いた現実味が漂っていた。


「……七匹撃破だ。」


大尉の口から淡々と告げられた数字に、私は思わず顔を上げる。


「新人にしては悪くない。」


無表情のまま放たれた評価は、誉め言葉にも、冷たい事実の羅列にも聞こえた。

戦場で仲間を失い、自分がどう戦ったかさえ曖昧になっていた私には、その数字が現実を突きつける刃のように響いた。


「七匹……」

思わず繰り返す。

銃口を向けるたびに散った赤い光景、鉄を裂く音、仲間の叫びが一度に胸に押し寄せる。

指先が勝手に強張り、シーツを掴んだ。


大尉はそんな私を見据え、わずかに顎を引いた。

「数字は消えない。……お前がやったことも、やれなかったこともな。」


その言葉は冷酷に聞こえるはずなのに、不思議と胸の奥に残ったのは重みだけだった。


「……ただ、がむしゃらだったので。」

情けない答えだと分かっていながら、唇からこぼれた。


大尉はわずかに目を細め、静かに言葉を重ねる。

「普通ならな。理性を失った時点で、兵は死ぬんだ。」


その声には責める色はなく、ただ冷たい現実を突きつける乾きがある。

だが続いた一言が、胸の奥を鋭く打ち抜いた。


「……まぁ、少なくとも。軍は軍病院に運んででも、お前を死なすのは惜しいと考えたのさ。」


息を飲む。

惜しい――。

それが慰めなのか、ただの駒としての評価なのか。


喉の奥が苦く熱くなり、言葉を失った。

布団の上で握った拳の震えだけが、胸の内を代弁する。


大尉の視線は変わらず真っ直ぐだ。

その意味を測りかねたまま、私は黒い瞳を見返すしかなかった。


彼女はわずかに口角を下げ、告げる。

「……つまり、お前の隊は残念だが、もう無い。」


その言葉は鉄扉が閉じられるように重く響いた。


「次の配属は――カゲロウ、というわけさ。……軍曹。」


一瞬、意味が掴めず、まばたきを繰り返す。

軍曹。

……私は、どうやら昇級したらしい。


「……軍曹に、なった……?」

掠れた声で繰り返すと、大尉の黒い瞳がわずかに細められた。

笑みとも皮肉ともつかない、ごく短い揺らぎ。


「――カゲロウ、ですか?」


「第一独立遊撃中隊――通称カゲロウ。」

大尉は白い壁に背を預け、淡々と告げる。


「いわゆる、軍上層部の便利屋だ。」


声は静かだが、その響きには皮肉が滲んでいた。

正規の部隊に属さず、命令次第でどこへでも差し向けられる存在。

救援も、暗殺も、汚れ仕事も――必要とあればすべて請け負う。


「前線で使い潰される歩兵とは違う。だが、居場所を間違えれば一瞬で処分される部隊でもある。」


大尉は腕を組み直し、私を真っすぐ射抜く。

「お前はそこに回された。……軍曹。」


病院の白い光が、彼女の艶やかな黒髪に反射して鈍く光った。

その姿が、戦場で赤い外骨格をまとっていた影と重なり、胸を強く締めつける。


「便利屋……」

私は小さく呟き、乾いた喉を鳴らした。

その意味を測りきれないままに。


大尉は短く息を吐き、腕を解く。

「……まぁ、一先ずは傷を治せ。話はそれからだ。」


そして、ふとこちらを見据え、低く続けた。

「――確か、アカネ・ベルだったな。……軍曹。」


呼ばれた名と階級が、病室の冷えた空気に重く響き、胸の奥をじわりと震わせる。


私は乾いた唇を舌で湿らせ、布団の下で強張った拳を少しだけ緩めた。

「……はい。」


掠れた返事は頼りなかったが、それでも確かに声になった。


大尉は立ち上がりかけた動作を止め、改めて視線を落とす。

「……私はカゲロウの副隊長。篠宮リコだ。――宜しくな、軍曹。」


その名が告げられた瞬間、胸の奥がわずかに震えた。

これまで“赤のA.R.K.の操縦者”としてしか見ていなかった存在が、ひとりの人間として輪郭を帯びる。

篠宮リコ。

その名は鋼の響きとともに、耳に妙に残った。


彼女はそれ以上言葉を重ねず、椅子を押し戻して静かに立ち上がる。

ブーツの踵が床を叩く硬質な音が病室に響き、白い扉へ規則正しく遠ざかっていく。

扉が開く一瞬、外の廊下の冷たい光が差し込み、艶のある黒髪を短く照らした。


「……篠宮、リコ……大尉」

私は小さくその名を呟く。

返事があるはずもなく、扉は静かに閉じられた。


残されたのは、消毒液の匂いと機械の微かな駆動音、そして白く冷たい天井だけ。

戦場からは遠く離れたはずのこの場所で、心のどこかはまだ泥と血に囚われていた。


それでも――副隊長の名と、赤い影の残像だけが、強く焼き付いて離れない。



--------------------夢の狭間--------------------



眠りに落ちるはずだった。

けれど瞼を閉じても、暗闇は安らぎをもたらしてはくれない。


機械の駆動音が律動を刻み、心電図の電子音が規則的に鳴る。

その単調さは眠気を誘うはずなのに、逆に耳にまとわりつき、意識を浮かび上がらせる。


ベッドの上で横たわる身体は重い。

外骨格を外された今の私は、肉だけで構成されたただの少女にすぎない。

筋肉は鉛のように沈み、骨のきしみが内側から響いてくる。

それなのに、心だけは目を閉じても走り続けていた。


脳裏に次々と甦る声。

「アカネ! 走れ!」

「弾切れだ、代われ!」

「……必ず帰ってこい!」


――だが彼女たちは帰らなかった。


ノノカの潤んだ瞳。

シルビアが血に沈む瞬間。

銃火の明滅に照らされるその顔が、闇に浮かび上がり続ける。


胸の奥が熱くなり、喉の奥に何かが張り付いた。

呼吸を深くしても、空気は肺の隅に届かず、ただ鉄と薬品の匂いばかりが満ちていく。


私は横向きになり、壁に視線を投げた。

白く塗られたコンクリートは均一すぎて、ひとつの傷も乱れもない。

その完璧さが、かえって不気味に思える。


――あまりに整いすぎている。

まるで「人間がここに存在すること」すら想定していないような無機質さ。

そこに囚われている自分の姿が、実験体か標本に思えてならなかった。


布団の下で、無意識に拳を握りしめる。

爪が掌に食い込み、再び痛みが広がった。

それはかろうじて「まだ生きている」という実感を与えてくれる。


しかし同時に、思考は未来へと引きずられていった。


――軍曹。

その響きが耳に蘇る。

篠宮リコ大尉の低い声が、今も鼓膜に残っている。


軍は私を死なせるのは惜しいと判断した。

そして次の場所を与えた。

「カゲロウ」――第一独立遊撃中隊。


胸の奥に、冷たい波が広がる。

便利屋。命令ひとつでどこへでも差し向けられ、汚れ仕事すら請け負う存在。

そこに自分が放り込まれる。


未来の自分を想像すると、身体が強張った。

再び戦場に立ち、また仲間を失い、再び泥に沈む――そんな未来ばかりが鮮明に浮かんでくる。


「……やめろ。」

誰に言ったわけでもなく、掠れた声が唇から漏れた。

音にしてしまわなければ、思考の渦に呑み込まれる気がした。


しかし返事はなく、病室には静寂だけが残る。

遠くで聞こえるのは担架のキャスターの音、誰かの靴音、そして隔壁の閉じる重低音。

すべてが遠く、すべてが隔てられていた。


ここは安全だ。

誰も襲ってこない。

だがこの安全こそが皮肉で、私を最も孤独にする。


瞼を閉じると、再びリコ大尉の黒い瞳が浮かんだ。

夜を映すような眼差し。

冷たく鋭いはずなのに、その奥に微かな揺らぎを感じた。


あの視線だけが、今も生々しく胸に残っている。

まるで自分が試されているかのように。


私は深く息を吐き、再び天井を見つめた。

白い光が瞳を刺し、涙腺をじわりと揺らす。

それでも涙はこぼれない。


眠れない夜は続いていた。

過去の亡霊と、未来の影のあいだに挟まれたまま。

その狭間で私は、ただ呼吸を繰り返していた。

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