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第8話 モラハラ・ボール

 ――中央ギルド・命名部。

 昼下がりの光が差し込む部屋には、相も変わらずソファでだらけた影と、机に背筋を伸ばして座る影があった。


「……胃が重い……」

 クッションを枕にしながら、ポテチをつまむのは怠惰の権化・適魔 適見(かなみ)


「それはポテチの食いすぎでしょ!」

 手帳を閉じ、こめかみに指を当てているのはS級鑑定士・星河 紫織である。


 魔道テレビの画面には〈社会をむしばむモラハラ〉の文字が踊り、スーツ姿の司会者が深刻な顔で解説を続けていた。

『先日の“パワハラ問題”に続き、今度は“モラルハラスメント”による被害が増えています。人格否定や無視といった行為が、じわじわと心を蝕むのです――』


「……パワハラ特集の次はモラハラか。テレビ局も飽きないねぇ」

 適見は眠たげな声で呟き、ポテチの袋をソファに放り投げた。


「飽きないじゃなくて深刻なの! モラハラは直接的な叱責よりも回復に時間がかかるの。精神的ダメージは物理より重いって言ったでしょ」

 紫織は胃薬をひと粒、無言で水で流し込む。


「物理より効くなら、前のスプレーよりヤバいんじゃないの?」

「……だから嫌な予感しかしないのよ」


 ――ガラッ。


 紫織の言葉を裏切るかのように、重たい扉が景気よく開いた。

 白衣にゴーグルを掛けた研究員が、やけに大きな革袋を抱えて飛び込んでくる。


「本日の新作をお持ちしましたーっ!」


「帰れ」

「即帰れ」

 紫織と適見の声が、見事にハモった。


 研究員は怯むどころか、袋を机に置いて胸を張る。

「いやいや、聞いてください! 前回は“パワーハラスメント”だったから上位種が出てしまったのです。ですが今回は出力を制限し、“モラルハラスメント”に調整済み! 安全設計です!」


「言い訳苦しすぎるわよ!」紫織が即座に机を叩く。

「そもそも“ハラスメント”の時点で安全じゃないからね!」


「幻影は限定的! 叱責の代わりに人格否定! 出てくるのはあくまで“上司の姿”だけで、物理攻撃力はゼロ!」

「人格否定の方が余計タチ悪いんだけど!」


 研究員が革袋を開くと、中から顔ほどの赤と白半々の球体がごろりと転がり出た。表面にはびっしりと魔法陣が刻まれ、わずかに蒼白い光を放っている。


「その名も――《モラハラボール》!」


 紫織は胃を押さえた。

「絶対ロクなことにならないし、何よりそのカラーリングは辞めたほうが……」


 適見はソファに沈んだまま、ぼそりと呟く。

「……ボール遊びってさ、だいたい誰か怪我するよね……」


 研究員はまるで聞いていない。説明パネルを広げ、絵で描かれた実演を指さした。

 小さなネズミに向けてボールを投げつける→破裂→黒い霧→背後に上司の幻影が現れモラハラをする→ネズミが萎縮する。

 ――と、いう予定らしいが、前例のこともあり二人は全く信用していない。


「このボールを対象に投げつけると、破裂して魔素が周囲に拡散。その結果、“上司の幻影”が出現し、モラルハラスメントを浴びせます! 部下モンスターは心を折られ、戦意喪失! 平和的に解決!」


「平和的に解決って言いながら対象の心を折ってる時点でブラックなのよ!」紫織は立ち上がって叫んだ。

「……それは平和って言わないのよ……」適見は枕を鼻まで持ち上げる。


 ――その時。


「我こそは担架、七光 勇なりぃぃ!!」


 勢いよくドアが開け放たれると、ピカピカの鎧を輝かせた青年が現れた。

 自称・担架、七光 勇。実験台である。


「また来た……」紫織は顔を覆った。

「……第一担架、到着……」適見は目を閉じてつぶやく。


 勇者は胸を張って高らかに宣言した。

「新たな担架と聞いて駆けつけた! この俺が試してやろう!」


「勇者どこ行ったよおぉぉぉ!」紫織が絶叫する。


「担架さまぁ!」

 直後、金色のポニーテールを揺らし、桃雪 真白が扉を蹴破って飛び込んできた。

「また危険なものに手を出そうとして! 絶対ダメです!」


「大丈夫だ真白! 俺は担架だ! 心を折られようと、勇者に乗ろうと、明日には立ち上がる!」

「そんな勇者いやぁぁ!」


「担架と勇者がさっきから逆うぅ!!」

 紫織に叫び声が部屋に響いた。


 こうして、命名部の静かな午後は再び――危険な実験の舞台へと変わっていくのだった。


 ――そして場所は変わり中央ギルド・訓練場。


 柵で囲まれた土のリングの中央に、勇者が胸を張って立つ。

 観客席には冒険者たち、白衣の研究員たち、端のソファには適見が横になり、その横で紫織が腕を組んでいる。

「だる……どうせ大参事よ……」「絶対、事故になるわよ」


「では実験開始です! 勇者さん始めてください!」研究員は小さくうなずき手を挙げる。


「くらえぇぇ!」勇者がラットへとボールを投げつける。


〈パンッ!〉


 ボールが真っ二つに割れ、中から白い霧が立ち上る。ラットが少し後退し、小さな声で鳴いた瞬間、その背後から二回りほど大きいねずみ、“山ネズミ”が姿を現した。


「その程度の走りでラットを名乗るとは何事か!! そんなんだから何をやってもダメなのだ!!」

 山ネズミの幻影は、チュウチュウ言いながらラットを睨みつけた。


「ちょっ……ラット相手にモラハラ!?」紫織が悲鳴。

「……だる。小動物にまでブラック上司とは……」適見が半目で呟いた。


「そして、貴様! その程度の投球でラットが倒せると思っているのか! そんなんだから、毎回毎回担架行きなんじゃないのか?」

 勇者に視線を向けると、何故か叱咤する山ネズミ。


「ぐっ……、俺だって好きで担架をやってる訳では……!」

 勇者が腹を抑え屈みこむ。


「……また勇者に攻撃し始めたな……」

「やっぱりこのシリーズは全部失敗なんじゃないの……?」

 適見は半目のまま伸びをすると、紫織は腕を組み勇者に視線を向けていた。


――


 山ネズミの周囲の霧はさらに広がり、次第に白く濃くなっていく。背後からさらに巨大な何かがゆっくりと、その姿を現した。


「くっ……! 今度は何だ!!」

 勇者は剣を手に身構えると、今度は巨大なカピバラが現れる。

 だが、攻撃も威嚇もせず、ただ“ぼーっ”と虚空を見つめ、何も言葉を発さない。


「えっ……カピバラ……さん!? 全然モラハラしてないよ!」真白が身を乗り出す。

「……こういうのはね、沈黙が一番刺さる時もあるのよ」紫織は胃を押さえた。


 再び霧が濃くなり、毛並み荒々しい“大ネズミ”が出現した。

 牙を剥き出しにし、威嚇するようにカピバラと山ネズミに叫ぶ。


「その程度のぼんやりで生きていけると思ってんのか! ただ可愛いからって人生舐めるなよ!!」

「山ネズミよ! 貴様などこの世界では下の下、その程度の説教で後輩が育つと思うな!!」

「勇者よ! こんな雑魚の言葉で胃を痛めているようでは、勇者としてやっていけないんじゃないのか?!」


 矛先を変えながら、両側にプレッシャーをかける。

 やまねずみは震えて縮こまり、カピバラは微動だにしなかった。勇者は剣を杖代わりにして胃を抑えている。

「くっ――!」


「ほらまた始まったよ! 投げた当人もダメージ受けてるよこれ!」紫織が頭を抱えた。

「……カピバラには効いてないみたいだけど……こんな負の上司の連鎖はいやだな……」適見は柵にあごを乗せていた。


 再び霧が濃くなり、ゴブリンがぬっと現れる。

 小柄な身体を震わせ、後ろから大ネズミを指差し怒鳴った。


「その程度の足音で現場を仕切れるか! そんな毛並みだから何時まで経っても現場を仕切れないんだぞ! 恥を知れ!!」


「ひいぃぃぃぃ!」大ネズミが不意に出てきたゴブリンの声に縮こまる。そしてそのまま勇者に視線を向けると怒鳴った。

「おい貴様! この程度のネズミ如きで精神ダメージを受けるとは、貴様はそれでも勇者か!!」


「――くっ……!」

 勇者はそのまま小さく俯いた。


 と、その時、訓練場に甲冑の擦れる音が響いた。

 銀と赤のマントを翻し、正統派勇者アベルがゆっくりと階段を降りてくる。


「――七光よ。この程度の精神攻撃で参るとは、まだまだだな。このような下らん幻影遊戯、モラハラごとこの私が断つ!!」

 観客席から黄色い声援と殺気立った野次が入り混じる。

 天音のペンが震え、頬がわずかに赤く染まった。


「来たわね……正統派」紫織が呻く。

「……はいはい、第二被害者ね」適見が寝転がったままつぶやいた。


「さて、これくらいでしょうかね。今回は濃度薄めているので、大体2~3体の幻影で終了するので、これ以上は――……」

 研究員がノートをたぱたりと閉じ、勇者に歩み寄ろうとする、その時であった。


 勇者とアベルが並び立ったその瞬間、幻影たちが瞬く間に出現し始める。


「ま、まずいです! これでは前回の二の舞になってしまう!」 研究員が声を荒げる。だが、召喚速度は明らかにパワハラスプレーとは異なっており、異常な速度で増殖する。


 ゴブリンの背後にホブゴブリンが数体、さらにその後ろにオークその倍に。怒鳴り声のリレーは止まらず、まるで蛙の合唱のように重なり合う。


「その程度の剣筋で上司に勝てると思うな!」

「その程度の体格で現場に出る気か!」

「その程度の勇気で世界を救えると思うな!」


 叱責の輪唱に、勇者の膝ががくりと落ちた。アベルも額に汗をにじませながら剣を構える。


「く、くだらん……。幻影ごときに屈する私では――」

「その程度の頭で部下を守れるか!」複数体のオークの怒声がアベルの耳を打つ。


「その程度の胸板で上司に勝てると思うな!」

「その程度の言葉づかいで現場に出る気か!」

「その程度の顔で世界を救えると思うな!」


「ぐっ……! この幻影やりおる……!」正統派勇者が一瞬たじろぐ姿に、観客席がざわめいた。


「いや、顔で世界は救えないだろ……」紫織が呆れたように呟く。

「……だる。結局みんなメンタル弱ぇんだな……」適見は柵にあごを乗せたまま動かない。


 すると、霧はさらに濃くなると続けて、レッサーデーモン、グレーターデーモン、漆黒の翼を持つアークデーモンが現れる。

 その口から響いたのは、耳を裂くような嘲笑混じりの声だった。


「その程度の筋力で、我らを倒せると思っているのか!」

「その程度の身長で、魔界の女子にもてると思っているのか!」

「その程度の声で、魔界の女子を振り向かせられると思っているのか!」


 場内が凍りつく。観客たちの一部は顔を伏せ、胃を押さえ始める。

 研究員たちでさえ顔色を失っていた。


「……連鎖も増殖も止まらない……安全域ゼロ……」紫織の声は震えていた。


 勇者が必死に剣を振るう。だが幻影たちは消えず、むしろ声の圧で押し返してくる。

 アベルも同じだ。鋭い剣筋で切りかかるが、怒声がすぐさま気力を奪っていく。


「ぐはっ……! まさか、これほどとは……!」

「このままでは、魔界の女子に見向きもされなくなってしまう!!」

 顔に自信があるからこその否定。それはアベルの精神を崩すのに、そう時間はかからなかった。


「今、魔界の女子は関係ないでしょ!!」通りの怒号が飛び、その横では真白が柵に足をかけて待機していた。


――


 そしてついに。


 霧の奥から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。

 ローブを纏い、禍々しい気配を放つデーモンロードが同時にさらに数体。


「その程度の目力で、魔界の女子を落とせると思っているのか!」

「その程度の脱毛で、身だしなみと言えるのか!」

「その程度の身だしなみで、合コンでお持ち帰りできると思っているのか!」


 低く響く声が訓練場全体を震わせ、観客たちが一斉に息を呑む。


「ぐはあぁぁぁぁぁ!!」

 勇者は膝をつき、アベルも剣を支えに立つのがやっとだった。


「アベルさんには関係ないけど、勇者さまには真白が付いていますから、気にしないでください!!」 真白の応援が、別の意味で刺さる。


「ぐああぁぁぁあ!!」

 アベルが真白の言葉でダメージを受け悶絶している。


 だが、霧の連鎖は止まらない。

 霧は一変して漆黒に染まり、周囲の温度を下げていく。一瞬時が止まりピンと張り詰め、空気が震える。漆黒の霧は徐々に鮮血のような色へと染まり、人骨を模した玉座が出現し始める。


「ま、魔王級……!?」「これはもう洒落にならない!」観客席に悲鳴が走り、出口へと逃げ出す。

「……たたたた…たぶん幻影です……」研究員の声は震えていた。


 禍々しい角を持ち、魔王とも言えるその頭部が、霧の奥から徐々に露わとなる。


 ――と、その時だった。


 横合いから飛び込んできたのは桃雪真白。

 玉座らしきものを回し蹴りで粉砕、その破片でデーモンロード数体を闇へ葬り、魔王の側頭部を横から蹴り飛ばす、召喚しかけの頭部はそのまま壁に打ち付けられ、黒煙と共に霧散。


「ひっ、ひいいぃぃぃ!」 突然の魔王とデーモンロードの消失に、アークデーモンが情けない声を上げる。


 その瞬間、真白に両角を掴まれそのままジャイアントスイングが炸裂。涙でゆがむアークデーモンがレッサーデーモンとグレーターデーモンに直撃すると、共に壁に打ち付けられ、真白のドロップキックが突き刺さる。

 デーモンの悲鳴は壁の轟音と共にかき消され、リングの柱が倒れた。


「うわぁぁぁぁ、悪魔だああぁぁぁ!!!」ゴブリンロードの悲痛の叫び。

「悪魔はお前たちだろうがぁ!!」凄まじい形相で真白は柱を投擲する。


 その様子に、ゴブリンたちは慌て必死に逃げ惑うが、次の瞬間、巨大な柱がゴブリンたちに目掛けて横一直線に襲ってくる。

 そのまま、柱に張り付けられ場外の壁へと吸い込まれる。真白は更に追い打ちをかけるように、石床をめくりあげ、ゴブリンたちへと放り投げると、そのまま突っ込み拳を叩き込んだ。


〈ドオォォオォォォォォォン!〉


「ぎゃああぁぁぁ……」


 轟音と白煙の中に響く僅かな叫び声、騒然としていた訓練場が再び静寂へと包まれる。

 そして全てを破壊しつくした真白が止まった。肩で息をしている彼女の背後には、瓦礫に覆いかぶさるように倒れている者、破壊された扉の下敷きになっている者、壁に頭から突っ込み痙攣している者、男が三体がそこには居た。


「もう……彼女一人でいいんじゃないかな……」

 唖然とする紫織の横で、適見が柵から腕をだらと落とす。

「……モラハラ悪魔に悪魔呼ばわりされてるな……」


「リポーターのリーネです!! またしても……間に合いませんでしたぁぁ!!」

 いつもの甲高い声が、空気を震わせ周囲に響く。


「ですが、この惨状! またしても開発部の仕業でしょうか! 扉を抱え横たわっているギルド長を始め、勇者たちも壁に突っ込んだり、瓦礫に横たわったりと大変な様子が伺えます!!」


「ごめんなさい、勇者さまぁ!!」 真白の悲痛な叫び声が、訓練場に響く。観覧席には適見と紫織、研究員を残し既に誰も居なかった。


 リーネの実況がマジメな声で響く。カメラは勇者とアベル、ハーゲンを映し続け、その様子はまたしても全国に中継されていく。


 紫織は胃薬を追加で飲み込み、真白は泣きながら勇者にすがりつく。

 天音はペンを走らせ、恍惚とした笑みを浮かべている。


――


 そんな中、リーネはマイクを握り、担架で搬送される三人に全力で突撃した。


「勇者さん! アベルさん! ハーゲンさん! 今のお気持ちは!?」

「……俺は……負けてない……」勇者がうわ言のように呟く。

「正統派に……屈することなど……」アベルも虚ろな目で答える。

「出番もないのに、この仕打ちとは……」ハーゲンは呻くように言葉を漏らす。


「ご覧ください! 精神的モラハラの連鎖により、勇者お二人プラスギルド長の三つ巴となりました! まさに社会問題を体現する実験です!」

 リーネはどこか嬉しそうにカメラへ語りかけた。


 紫織が頭を抱える。「……これ、ニュースで流れるのね……」

 適見はソファから片手を上げて「……パワハラもモラハラもロクなもんじゃねぇな……」とだけ呟いた。


――


 こうして――「モラハラボール」の実験は、担架の列と胃薬の山を残し、混沌のうちに幕を閉じたのだった。

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