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第7話 パワハラ・スプレー

 ――中央ギルド・命名部。昼下がり。


 ソファには二人。片方はいつものようにだらりと寝転がる適魔 適見(かなみ)、もう片方は背筋を伸ばして座る星河 紫織。机の上にはポテチ、胃薬、そして魔道テレビのリモコン。


「……だる。チャンネル変えていい?」

「ダメ。今“パワハラ特集”やってるの。社会の痛みを知りなさい」


「あたし、パワハラしとらんよ……」

「それは判ってるけど、知っておいて損はないって事よ」


「ふぅん……」


 画面には、会議室で怒鳴る上司と、縮こまる部下たち。テロップはやたら大げさだ――〈叱責の現場〉〈声だけでメンタル崩壊〉。


 適見は頬杖のまま、半目のままぼそり。

「声がでかいだけで、物理攻撃力はゼロじゃん……」

「精神攻撃は物理攻撃より効くのよ」


 紫織が胃薬を一粒、無言で飲み込む。つられて適見もポテチをぱくり。


 番組は続く。次のコーナーは〈逆パワハラ〉。部下の無茶振りに耐える管理職が映し出され、肩を落としつつ胃を押さえる姿がアップになる。

 顔にはモザイクが入っていたが頭髪は無く、どこかで見た体格と既視感ある部屋が映し出されている。


 紫織が眉をひそめた。

「――これ……もしかして、ハーゲンさんじゃない?」

「とうとう番組にまで出ちゃったか。つーか、ギルド長の場合、“逆パワハラに遭う上司”っていうより、ただの被害者じゃろ……」


「でしょうね。大体が命名部と開発部の後処理だし……そりゃあ、そうなるよね」

「……でも、あたしは言われるがまま、名前をつけてるだけだよ」


 紫織がペンをくるりと回し、ため息混じりに吐露した。

「言われるがままに付ければ、ある程度コントロールができると思ってた……、そりゃあ街が爆散するよりマシだけど……」

「……そうそう、マシマシ。爆発頻度と被害者も減ったしな……」


「どちらかと言うと、被害者が集中してるだけで、カオスなことに変わりないんだから、そこはちゃんと自覚しなさいよ!」

「はいはい……」


 二人の視線が、同時に画面の隅へ動く。テロップが切り替わる――〈叱責は連鎖する?〉。怒鳴られた部下が、さらに下の後輩へ当たり散らす映像。連鎖、連鎖、連鎖。


「ねぇ紫織。叱責って、弱いところに流れる水みたいに、したたかに下へ行くじゃん」

「たしかに。だから止めどころがないの。誰かが“やめよう”って言わない限り続く」


「……吹きかけたら大声が止まるスプレーとかあればいいのに」

「それはスプレー缶を口に突っ込めって事かしら」


「死ぬじゃろ……」


 ――バァン!


 その瞬間、ドアが景気よく開いた。白衣にゴーグル、胸を張った研究員が入ってくる。両手にはやけに派手なスプレー缶。ラベルには〈改善命令〉〈指導〉〈やる気注入〉とかいう不安な単語がぎっしり。


「本日の新作はこちらです!」

「早い、いやな予感しかしない」紫織が反射でつぶやく。

 適見は枕にしていたクッションを鼻まで持ち上げた。「……殺虫剤ならベランダでやって」


 研究員は気にせず、机に缶をどんと置く。缶は赤黒く、持ち手のトリガーは妙に立派。ふちに小さく“高出力”の刻印。嫌な予感しかなかった。


「その名も《パワハラスプレー》!」

「帰って」紫織が即答。

「早いわね」適見も即答。


「――と、いう訳で……」

 研究員は力説を続ける。


 適見は頬杖をついたまま、視線を研究員に向ける。「相変わらずこいつらも、一切人の話聞いちゃいねぇな……」


「まあまあ、適見さん。これは敵に吹きかければ、上位種――いわゆる“上司モンスター”の叱責を“幻影”として見せることで、部下モンスターは萎縮! 戦意喪失! 結果、弱体化させるという予定のスプレーです!」

「弱体化の仕方がドス黒いのよ! ていうか予定って何よ!」紫織がバンと机を叩く。


 研究員は満面の笑みでさらに追い打ちをかける。

「ご安心ください。あくまで上司モンスターの“幻影”を見せるだけです。実体化はしません。安全です! きっと!」

「“きっと”って、いうのは安全じゃねーだろ……」適見は突っ伏したまま呟く。

「そもそも幻影でも怖いの。PTSD誘発したら誰が責任取るのよ」紫織は眉間を押さえた。


 研究員は胸を張ったまま、さらに説明パネルを広げる。イラストには、ゴブリンに向けてスプレーを噴射→ゴブリンロードの顔がドン→ゴブリンが落ち込む、の簡単マンガが記されている。


「はい、この通りです。あくまで“モンスターを弱体化させる”という名目で開発しました! 叱責は幻影、攻撃力はゼロ! 安全! クリーン! エコ!」

「最後に混ぜた“エコ”が一番いらない」紫織のツッコミは早い。

「……うさんくさすぎて逆に清々しいな」適見がリモコンを置いてソファからおきあがる。「それで、名前は?」

「もちろん『パワハラスプレー』でお願いします! 強い言葉は記憶に残る!」


 紫織が両手を広げた。

「ちょっと待って! 直接的な言葉は危険なのよ! せめて角を丸く――“注意換気ミスト”とか“怠惰スプレー”とか!」

「……“怠惰スプレー”はなんかムカつく……」適見は小さくあくび。「でもまあ、命名は私の仕事か」


「という訳で『パワハラスプレー』でお願いします! 適見さん!」


「まぁ、そのまま付けろって言われてるし、あたしゃどうなっても知らんよ……」

 コンソールが手元に浮かぶ。青い光が指先にまとわりつき、入力画面が開く。


 ――カチ。


《命名:パワハラスプレー》

 淡い光が缶のラベルを走り、文字が焼き付く。スプレーは一瞬だけ低く唸り、静かに落ち着いた。


 研究員が拍手した。

「ありがとうございます! では早速、訓練場で実験を!」

「まだ早い!」紫織が立ち上がる。「念のため検証項目を洗う。安全域、対象、持続時間、幻影の強度、観客の有無――。うーん……、たぶん大丈夫……なのかぁ……」

 結局強制上書きされているので、紫織にもその全貌は読み取れなかった。


「……観客は“無し”がいいよ。どうせすぐニュースになるから」


 ――ちりん。


 不吉なベルが鳴った。全員の背筋がわずかに伸びる。


「たのもぉぉぉぉ!」

 ピカピカの鎧の男がドアを押し開ける気配。騒々しい風が、廊下の向こうからこちらへと流れ込む。


 紫織は息を飲み、適見はソファの背にもたれて天井を見上げた。

「来たわよ、いつもの実験台」

「……はいはい、“第一被害者”到着……」


 こうして、命名部の静かな午後は、またしても騒がしい実験前夜へと滑り込んでいくのだった。


 ――中央ギルド・訓練場。

 柵で囲まれた土のリングは、いつものように人だかりだ。白衣組は機材を運び、観覧席には暇を持て余した冒険者。端っこに置かれたソファには、適見が斜めに沈み、隣で紫織が腕を組んで立っている。


「はい、本日の対象はこちらです。森で保護したスライムくん!」

 研究員が透明な樽からぷるんとした、一つの塊を取り出す。青い寒天のような身体が、控えめに震えた。目はないのに、不安そうに見えるのは気のせいであろうか。


「……保護って言いながら実験台にしてんじゃん」適見がポテチを口に放り込む。

「それは保護って言わないでしょ……」紫織の小さな突っ込みが入った。


「ご安心ください!」

 研究員は胸を張る。

「今回は“幻影で叱責を見せるだけ”です! 実体化しません! 安全です! モンスターは萎縮して弱体化! 平和的解決! そのためのスライムくんです!」


「大体、最弱モンスターを更に弱体化させようって、倫理的に問題があるでしょ……」紫織が即ツッコミ。

 だが、事は始まってしまうのがいつもの流れである。


「我こそは勇者、七光 勇なりぃ!」

 ピカピカ鎧の青年がリングに飛び降り、マイクもないのに声量だけで全員の鼓膜を直撃する。

「ブラックもパワハラも、この俺が正義で叩き斬ってやる!」


「勇者さま、頑張ってー!」

 桃雪 真白が泣きそうな顔で柵から身を乗り出す。

「幻影だから安全って言ってるだろ。幻影だ、幻影」

 勇者は自分に言い聞かせるように頷き、研究員から赤黒いラベルのスプレー缶を受け取った。


「……“安全”の二文字が一番危険なんだよな」

「そもそも安全に終わった試しがないしね……」紫織は胃薬を一粒、噛まずに飲み下した。


「では、実験を開始します!」

 研究員の宣言と同時に、勇者はスライムに向けて――シュッ、と軽い音をひと噴き。


 白い霧がスライムを包み、空気がほんの少しだけ冷たくなる。

 ぷるぷるがぴたりと止まり、スライムは全身を薄く震わせた。叱責の予感に、萎縮するみたいに。


 ――その時、スライムに噴霧した粒子が、一瞬光ると中から1体のゴブリンが出現するなり開口した。


「スライム、貴様! ただ可愛らしくプルプルしているだけで、敵が萎縮すると思ってんのかァ!」

 鈍色の棍棒を肩に担いだゴブリンがスライム横に立ち、棍棒を地面に叩きつけて怒鳴った。

 スライムがさらに小さく縮む。ぷるぷる、ぷる。


「ちょっ、実体あるじゃない!」紫織の悲鳴が弾ける。

「幻影の“密度”が高いだけです! 大丈夫です!」研究員の声は裏返っていた。

「密度が現実なんだよ」適見がぼそり。


 ゴブリンが棍棒を打ち鳴らし、今度は勇者の方に視線を向ける。

「そして貴様ッ! その程度の面構えでスライムに勝てると思っているのか!」

「ぐっ……言葉が重い!」勇者は胸を押さえて一歩下がる。精神ダメージの色が濃い。


「ちょっとォ! 面構えで精神ダメージ入ってるんじゃないわよ!」紫織が机を叩きながら怒鳴りつける。


 すると、次の瞬間、さらに濃い影がゴブリンの背後に立った。

 肩幅の広い、革鎧の巨体。口の脇からは大きな牙を見せ、仁王立ちでゴブリンを睨みつける。


「ひいぃ! ホブゴブリン様ぁ!?」ゴブリンが跳びはねる。

「その程度の叱責で部下が育つと思っているのか! 貴様には任せておけん! 俺がやるからそこで見ていろ!」

 ホブゴブリンは現れるや、ゴブリンを押しのけ前へ出た。

 そして何故か勇者に一喝した。

「その程度の身長で、ゴブリンと対等に戦えると思っているのか!!」

「えっ!? 俺!?」


 すると、ホブゴブリンの影が濃く大きく膨らんでいく。

 その陰から巨大な手が出現し、ホブゴブリンの首根っこを掴む。

 甲冑を着込み、赤いマントを背負った威圧の権化がリングの空気を握り潰す。


「ご、ゴブリンロードだとォ!?」観覧席の冒険者たちが悲鳴を上げた。

「その程度の統率で勝ち筋が見えると思っているのか! 俺がやるからお前らは黙って見ていろ!」

「ひぃぃぃ! ゴブリンロード様!!」萎縮する、ホブゴブリン。


 そして、ゴブリンロードが地を叩くような声でホブゴブリンに言い放つと、何故か怒鳴り声のベクトルを勇者へと切り替える。

「そして貴様! その程度の勇気で正義を語るな!!」


「“俺がやる”ばっかり……」適見はソファから半身を起こし、柵にあごを乗せた。

「叱責の圧が上がるほど、上司が増えるのね……」紫織が胃を押さえる。

「ねぇ研究員、これの、どこが幻影な訳?」

「み、見え方がリアルなだけで、大丈夫です! ……たぶん」研究員のゴーグルが曇る。


 ゴブリンロードが棍棒を肩から滑らせ、勇者の目の前に止める。

「その程度の防具で叱責に耐えられると思っているのか!」

 空気が歪むほどの怒号が響く。

 勇者の膝ががくりと落ちた。声は攻撃力ゼロだと言い張っていた適見も、眉をひそめる。


「精神攻撃は物理より効くの。だから言ったのに!」紫織は涙目で叫び、胃薬を二粒追加。

「勇者さまぁ!」真白が柵に足をかける。


「ま、まだ大丈夫だ、真白! 俺はこの程度では負けない!」


「……叱責による言葉攻め……」

 白霧 天音は無表情のままペンを走らせ、頬だけがほんのり色づいている。


 勇者は息を吸い直し、盾を前に出した。

「我こそは勇者――」

「その程度の宣言で気合が入ると思っているのか!」ゴブリンロードの巨大な棍棒が地面を叩き付ける。

「ぐはっ!」

 続けざまにホブゴブリンが横合いから怒鳴り、ゴブリンが後方から煽る。

「その程度の踏ん張りで、立っていられると思っているのか!」

「その程度の足腰で、現場に出るな!」

「いや、出させたのはお前ら……」勇者の反論は最後まで形にならなかった。叱責の波が重なって、膝が土を噛む。


「はいはい、ストップ!」紫織がリングに向かって両手を振った。「検証に移行! 研究員は一旦止めて安全域を――」

 ゴブリンロードの視線が、すっと紫織へ。

「その程度の司会進行で現場が回ると思っているのか!」

「司会じゃない! 安全管理なの! ていうか幻影が会話に参加するんじゃない!」

 紫織の声が自分でも驚くほど裏返った。


 怒鳴り声は止まらない。

 ロードが叱る。ホブが被せる。ゴブリンが復唱する。

“その程度の――”がカエルの合唱みたいに輪唱になり、リングの空気が圧縮される。

 スライムは原型を保てず、ビー玉くらいに縮んで隅っこでぷるぷる震えている。もはや気の毒の塊だ。


「……連鎖、想定以上。安全域、ゼロ。撤収――」紫織が喉を震わせた、その時。


「ふっ……見ていられんな」

 チャリチャリと甲冑の擦れる軽い音。銀と金の縁取りを持つ鎧、深紅のマント。

 正統派勇者アベル・エルドリオスが階段を降りてきた。観覧席が一瞬だけ静まり、次いで黄色い声と殺気立ったやじが同時に飛ぶ。天音のペン先が震える。


「……正統派の出番か」適見は目を細める。

「止めなさいアベル! あんたまで叱られるわよ!」紫織は全力で手を振るが、アベルはひとつも視線をよこさない。


「くだらん叱責遊戯だ。この程度の幻影我が剣の錆にしてくれる!」

 鞘から抜かれた刃が、日差しを裂いた。

 アベルはまっすぐ、ゴブリンロードと勇者の間へ歩み出て、静かに半身に構えた。


 ゴブリンロードが眉をピクリと動かす。

「その程度の剣筋で威圧できると思っているのか」

「その程度の踏み込みで間合いを制せると思っているのか」ホブが重ね、

「その程度の顔で現場に出るな」ゴブリンがよく分からない理由で撃つ。


「顔は関係ないだろ」アベルは微かに息を吐いた。その落ち着きが、怒鳴り声の中で逆に際立つ。

「ならば証明しよう。叱責でなく、技で」


 観覧席がまたざわめく。勇者は半身に倒れたまま、上目づかいにアベルを見上げた。

「アベル……来てくれたのか……」

「三流の背中は見ていられん」

「言葉が辛辣!」紫織が頭を抱える。「でも頼もしい……!」


 アベルはジリジリと距離を詰め、一歩踏み出した。

 ゴブリンロードの棍棒がわずかに下がり、ホブゴブリンの鼻息が荒くなる。

 その背後でゴブリンが憎らしそうにケラケラ笑っている。


 アベルの足が土を噛む音が、怒鳴り声の合間にくっきり響いた。

 刃が閃き、風が割れる。


 ――そして。


「……なんか嫌な予感する……」

 適見はソファから完全に起き上がり、柵に両腕をだらんとかけた。

「ここまで来たら、最後まで見届けるしかないよね」

「最後が来ないのよ、連鎖が止まらないの!」紫織は絶叫した。


 ゴブリンロードが、何物かに掴まれゆっくりと持ちあがる。

 その背後の空気が、さらに暗く、深く――何かを呼んでいた。


 アベルが、低く呟いた。

「……来るな」


 ――リングの土が、ほんのわずかに震えた。

 アベルの低い「来るな」の直後、空気が裏返るみたいに温度を失う。


 影が裂け、角の生えた腕が空間の膜を押し広げた。焦げた鉄の匂い。視界が赤黒く染まる。


「……っ」紫織が反射で一歩下がる。「来た。来ちゃった……!」


 最初に床を踏んだのは、細く真っ赤な脚だった。黒いマント、鋭い角、炎色の虹彩。

 レッサーデーモンが、重く、ゆっくりと顔を上げた。


「ゴブリンロードよ……、その程度の統率で現場を回せると思っているのか……?」

 片腕で持ち上げているゴブリンロードに顔を近づけると、低い声が地を這い、空気を震わせる。「俺がやる。貴様らはそこで見ていろ」


「だから“俺がやる”はもうお腹いっぱいなのよぉぉ!」紫織が胃薬の空瓶を握りしめて絶叫した。


 レッサーデーモンの視線が、勇者とアベルに重なる。

 次の瞬間、地を蹴ったとは思えない速度で二人の間に割り込むと、肘だけで勇者の盾をはじいた。

 とっさに盾で防ぐ。だが、勇者の身体は布みたいに舞い上がる。


「ぐはぁぁぁぁ!」

 そのまま場内の壁に打ち付けられ、背中からめり込んだ。


「七光!」アベルが勇者を庇い振り向く素振りで、レッサーデーモンを切り上げる。鋭い刃がその喉元をかすめる――しかし。


「その程度の初手で上司を越えられると思っているのか」

 レッサーデーモンの片手が、刃を指二本で挟み、その攻撃を止める。


「……くっ……」アベルは即座に刃を捻り、逆手で突きに移行――

「その程度の工夫で通ると思っているのか」

 アベルの必死の抵抗もむなしく、その突きはレッサーデーモンの頬をかすめる。


「幻影……のはずなのに、手応えと質量がある……」紫織の顔色がさらに悪くなる。

「ご安心ください! “高度に実在する幻影”です! きっと!」研究員が震え声で胸を張る。

「それもう実体なのよ!!」


 そして“その程度”の輪唱は止まらない。

 レッサーデーモンが叱責する。背後でゴブリンロードが被せる。ホブが復唱し、ゴブリンが拍手みたいに合いの手を入れる。

 音圧の層が幾重にも重なり、土が、空気が揺れていく。


「……二人に浴びせられる叱責……、この実験が終わり帰路に就く途中、愚痴を言い合い、きっと二人は……!」

 天音はペンを走らせながら目を細め、ノートを黒く書きなぐる。


 アベルは息を整え、一歩、踏み込んだ。


 ――と、その時。


 レッサーデーモンの影が、さらに大きく広がり周囲を包み込む。そして、空間のふちが青く火花を散らす。


 ――来た。

 グレーターデーモン。

 空気の密度が一段跳ね上がる。黒曜石のような漆黒の皮膚、巨大な角、胸に浮かぶ文様。

 ただ立っているだけなのに、まるで死を覚悟したかのような重い空気が漂う。


「その程度の支配で魔域を掌握できると思っているのか!!」

 グレーターデーモンは爪を打ち鳴らし、低く笑った。「俺がやるから下がって見ていろ」


「ひぃぃぃ!! グレーターデーモン様!!」レッサーデーモンの威勢の良い声が転じて裏返る。


「だから誰も“見たい”って言ってないのよぉぉ!!」紫織の叫びはすでに悲鳴を越え、祈りに近い。


 グレーターデーモンは巨大な手をゆっくりと広げた。

 風が巻き空を割く。音が消える。

 レッサーデーモンの肘がアベルの腹部に命中。


「かっ――」

 声にならない音。アベルも勇者の脇へと吹き飛んだ。


「勇者さまぁぁぁぁ!!」「アベルぅぅ!!」

 真白は両手を口に当て、肩で息をした。

 その隣では勇者が壁から身を起こし、剣を杖に立ち上がった。


「ま、まだだ……俺は勇者、七光 勇……」


〈――ズズン……〉


 その時であった。周囲の温度が一気に冷える。そしてグレーターデーモンの背後から出現した深紅の魔法陣が地面を刻む。


 ――アークデー……


 柵の外で、真白の目が切り替わる。

 涙で濡れた瞳が、ぎゅっと細くなる。喉の奥で、火花みたいに音が弾けた。


「――勇者さまに何してくれてんですか!!!」


 次の瞬間、真白はリングにいた。

 助走なんて要らない。地面を蹴った足の裏が、空気を爆ぜさせる。

 その瞬間、魔法陣から出現しかけたアークデーモンの首に、真白強烈な蹴りが炸裂。頭部は壁に打ち付けられると、そのまま霧散。

 そのまま右脚を振り抜くと、くるり回りもう片方の脚でグレーターデーモンへの延髄へと命中。巨漢が場外へと吸い込まれていき、観覧席をいくつもなぎ倒し轟音と共に霧散した。


「その程度の顔で勇者さまを睨むなァ!!」


 空中で姿勢を正し、地面を蹴るとレッサーデーモンへと突っ込む。余りの惨状に逃げようとするデーモンであったが、真白は両腕でデーモンの背後から角を掴むとそのまま下に捻じ曲げへし折ると、両脚で背骨にドロップキックをぶちかます。


「は……?」研究員が間抜けな声を漏らす。


“高度に実在する幻影”の説得力が、物理で上書きされていく。


「や、やめろ! その程度の暴――」

「その程度じゃねぇ!!」真白の回し蹴りが、ゴブリンロードの側頭部を持っていった。

 黒い塵が尾を引き、リングの壁へと吸い込まれる。


 静寂。

 次の瞬間、ホブゴブリンが慌てて口を開いた。「その程度の、えっと、あの……」

 言い切る前に、真白の飛び膝が額に刺さる。

 ホブゴブリンが星を散らして崩れ、そのまま逆の脚でゴブリンの腹部を蹴りつける。


 ――そのタイミングで、扉が勢いよく開いた。


「貴様らぁぁぁ、また何を――」


 弁当を片手にギルド長ハーゲンが飛び込んできた。だが、その怒鳴り声は、ゴブリンの質量ある幻影によって巻き込まれ、ゴブリンと共に豪快に廊下の向こうへと吹き飛ばされる。

「ぎゃぁあぁぁぁ!?」

 弁当が舞い、おかずが飛び散る。


「は、ハーゲンさまぁぁぁぁ!!」紫織が蒼白になる。

「ご、ごめんなさい!! 今のは事故! 完全に事故!!」


 リング中央。

 デーモンの影も、ゴブリンたちも完全に薄まり、微塵になって消えた。

 スライムだけが、縮んだ姿で、ぷるぷると震えている。

 真白ははっとして膝をつき、スライムをそっと両手で包んだ。


「ごめんね……怖かったよね……。もう大丈夫だよ」


 その背に、静かな拍手がいくつも灯った。

 観覧席の空気が、ようやく人間の温度に戻る。


 ――そこへ、遅れて軽やかなヒール音。


「リポーターのリーネです!! 実況現場に……間に合いませんでしたぁぁ!!」

 いつもの甲高い声が、砂埃を押しのけて響く。

 リーネはマイクを握りしめ、担架に乗せられる三人を追いかけて全力疾走した。


「勇者さん! 上司のパワハラに耐えきれず退場とのことですが、今のお気持ちは!? “その程度の取材”と言われたらどう返しますか!?」

「う、うぐ……勇者は、担架から甦る……」

「名言きたー! アベルさんは!? “その程度の被弾”で倒れるアベルさんではないはず!」

「……黙れ……酸素を……」

「ギルド長ハーゲンさん! 逆パワハラ被害者としてのご見解を!」

「……わ、ワシの弁当があぁ!」


「実況をやめろぉぉ!!」紫織の絶叫が訓練場の屋根を震わせた。


 担架はそのまま医務室へ。

 リーネはピタリと止まり、マイクを胸の前で揃えて会釈。「パワハラの現場からは以上です!」

 満面の笑みでくるりとカメラへ向き直って、足早に去っていった。


 静かになったリングに、細い日差しが差し込む。

 研究員はへたり込み、スプレー缶を抱いて首を傾げた。


「お、おかしいですね……幻影を見せるだけの仕組みのはずなのに……なぜこんなに高密度に……」

「“高密度”って言い換えても、実体だったのよ」紫織は深くため息をつく。「封印ね……」

「……はい」


 天音はリングの中央に立ち、閉じたノートを胸に抱いたまま、うっとりと空を見上げる。

「医務室に向かう三人……。彼らはきっと語らうの……!」


 紫織は額を押さえる。「真白、スライム返してあげて。保護手続き、あとは私がやっとくから」


「は、はいっ」真白は丁寧に頷き、胸に抱いたスライムを研究員へ渡した。

 小さなぷるぷるは、もうあまり震えていない。


 最後に、ソファからゆっくり立ち上がったのは適見だった。

 柵にもたれ、ぽつり、と一言。


「……叱責の連続は……ダメだわ……」

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