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30/31

SCENE 30

 あっという間に日々は過ぎて。

 新婚休暇、その最後の夕暮れどき。


 いま浜辺に集いしは、新婦ケイと新郎ベルトルト、そして御用邸の管理人ヨーゼフという気心知れた三人きりである。


 大きな夕陽が水平線に沈みかかり、辺りは深い暮色に包まれて。

 ヨーゼフの望みを叶えるべく、波打ち際で三人の共演がはじまる。


 ――この新婚休暇中の働きに何か礼をとの申し出を受け、管理人ヨーゼフが新郎新婦に頼んだのがつまりこれであった。


 三人での、舟唄『悪い人魚』の演奏。

 ビセック海岸に古くから伝わる、愛の音楽だ。

 竪琴をヨーゼフが。

 恋に焦がれる漁師の歌声をベルトルトが。

 そして彼の想い人――罪作りな悪しき人魚にたとえられた高貴な娘の舞を、ケイが演じる。


 ヨーゼフの持っていた地産の古めかしい民謡教本をもとに、急ごしらえながらそれは実現するのだった。

 ベルトルト皇太子は「歌なんて子どもの時以来だぞ、まったく」と愚痴をこぼしつつも。

 ケイもまた、「わ、わたしに悪役令嬢ロザレーヌ以外の役なんて、ち、ちゃんと演じられるでしょうか?」と新人悪役女優の胸に不安を抱きつつも。

 民謡教本に記された楽譜と、振り付け図絵だけを頼りに。


 それでもこれが世話になった管理人ヨーゼフへの、感謝の代わりになるなら。

 新婦も新郎も、ただその思いでこの数日できうる稽古を重ねてはいた。


 夕陽が最後の輝きに燃え落ちていく。

 そのきらめきはどこか、神々が彼ら三人に送る合図のようで。

 竪琴が、そしてつま弾かれだす。

 ヨーゼフの演奏に合わせ、新郎ベルトルトがそっと歌いはじめる。



舟唄『悪い人魚』


(1番序楽節)

 むせびなく 僕の心は

 甘く奪われて

 水に舞う 君は悪しき薔薇

 うろこの花びら


(1番主題楽節)

 君想う楽園に

 寄せてはさざめく

 海は とわの黄昏れ



 ――そして、ケイは舞った。

 覚えたての、悪しき人魚の舞を。

 漁師が恋い焦がれずにはいられなかった、高貴な娘の演舞を。

 もちろんそれは、あの悪役令嬢ロザレーヌとは違うものだ。

 だが振り付けの図絵に記されたその雅な悪女の手ぶりは、しなやかに尾ひれを水面に打つその身のこなしは、悪役令嬢を演じるのとどこか近しい何かをケイの心にもたらす。



(2番序楽節)

 波しぶき ああ 罪作りな

 尾ひれを追いかけて


(2番主題楽節)

 恋ゆえに 愛ゆえに

 この胸眠らず

 また 時を忘れて



 ――ケイの舞を見つめ、寄り添うような歌声を劇作家皇太子ベルトルトが響かせる。

 彼の眼差しが、花のごとき演舞に身を翻す天才悪役女優の視線と絡んではほどけ、そしてまた絡みあう瞬間を求めている。

 恋い焦がれ、愛しあう者どうしのその睦み合う心。

 竪琴の音が、それを支えるように響いている。



(3番主題楽節)

 君想う楽園に

 寄せてはさざめく

 海は とわの黄昏れ


 だから想いあふれて


 心を もう奪われて







 ……ほんの、短い舟唄だ。

 気付けば曲はすでに鳴り止み、それから。

 ――それから、ケイとベルトルトは見届けた。


 黄昏れの砂浜。

 実直な元宮廷財務官にして、御用邸の管理人。

 真っ黒に日焼けして竪琴を抱く彼の、しばしの嗚咽。

 その理由が語られることはなくとも。


「……ありがとうございます、皇太子殿下、妃殿下。お二人に巡り合えて、本当によかった。どうぞ末永くお幸せに」


 泣き笑いのままの管理人は、肩を寄せ合う二人を心から祝福し、皇都へと送り帰してくれた。





 ***





 翌日、すでに皇太子夫妻の出払った御用邸に鍵をかけると、管理人ヨーゼフは明るいうちに墓地を訪ねた。


 小高く切り立った崖の先。

 そこにあるのは、一つきりの白い墓石だ。


『亡き皇后フロレンティーナ・フォン・ラークライゼン、ここに眠る』


 海を臨む天然の、あるいは神が作り給うた高台のようなその場所に。

 貴き名を刻まれた墓標の前で、ヨーゼフは故人にそっと語りかける。

 どこかいつにもない清々しさを、今日は感じながら。


「皇后陛下、あなたが私にくださった予言を覚えておいでですか?」







 一介の宮廷財務官が、皇后陛下にお言葉を頂戴するなど普通は滅多にない。

 あれは園遊会か、それとも何か別の催事の席でのことだったか。

 気が動転したせいで定かでないが、ともかく、すでに引退も見えかけていたこのつまらぬ年輩者に皇后陛下はこうお声を掛けてくださったのだ。


「いつも本当にありがとう、ヨーゼフ。なんだか難しい顔をなさっているけれど、何か悩みごとでもおありかしら? 聞かせてくれると嬉しいのだけれど」


 あのとき、自分はどんな顔で陛下を見返しただろうか。

 おそらくろくな表情は浮かべているまい。

 当時の自分がいかに虚ろな人間であったかを、ヨーゼフは嫌と言うほど知っている。

 漁村を抱える小領主の愚息が、ただ生まれつき数字に強かったというだけで中年を過ぎてもすがり続けた職だった。

 財務に関わる仕事は好きだったが、それだけではけして満たされない何かが人生には存在すると気付いていた。

 いや、気付くのが遅すぎたのだ。

 もう結果はわかりきっている。

 なのにあろうことか、皇后陛下の輝くような笑顔にヨーゼフはつとこんなことを口走った。


「皇后陛下、私は恋に落ちたことがありません。きっと幸せにはなれないでしょう」


 すでに結婚して久しい同僚たちのようには異性に関心を持てず、それどころか恋とか愛とかいったものにすらまったく興味が持てなかった。

 しかし何も、そんなことを自分より明らかに年下の女性に、ましてや麗しき皇后陛下に開陳する必要はなかったのだ。

 きっと金の勘定ばかりし過ぎて、頭がどうかしていたのだろう。


「ねえ、ヨーゼフ。あなたは――」 


 だから凍り付くはずのその場に皇后陛下がぶれもせずたたずみ続け、返してくださったお言葉に耳が追いつくまでに随分かかった。


「ねえ、ヨーゼフ。あなたはたしかに、その生涯で一度も恋に落ちることはないのかもしれない。けれどそうだとしても、あなたならいつかかならず恋愛の素晴らしさを理解することができるわ。そうできるだけの類まれな知性と洞察力と、そして海のように深い心とを、あなたは持っているんだもの」







 うら若きまま、皇后陛下は墓地に眠る。

 小高く切り立った崖の上。

 一つきりの白い墓石。

 老いさらばえたヨーゼフのつぶやきに、ただ涼やかな沈黙を守りながら。

 

「陛下、あなたの予言は正しかった。御子息ベルトルト様とその妃ケイ様とが、それを教えてくださいました。黄昏れの海辺で竪琴を胸に抱きながら、運命が巡り合わせたあのお二人の睦み合う様を眺め私は理解したのです。おそらくは、そう、恋愛の素晴らしさを」


 亡き皇后は何も答えない。

 けれどその墓標を見下ろす元宮廷財務官は、至極穏やかな声音でこう打ち明けた。


「理解できたのです。それだけでも、私の人生には意味があったのかもしれない」


 墓石の上には、皇太子夫妻が残してくれた麗らかな献花が潮風にそよいでいた。





 ***





 この新婚休暇を通して、ケイは静かにさらなる成長を遂げた。

 そしてそれを告げる神々の声は、例のごとく潮風にまぎれ海を渡るのみである。


『悪役女優ケイはレベルアップ。新たなスキルを獲得しました。

・クラス:悪役女優 LV.4→LV.5

・スキル:独演、共演、競演、熱演、+演舞』

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