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SCENE 29

 海辺の御用邸で、ケイはベルトルト殿下とひと月の新婚休暇を過ごした。


 夫婦になったばかりの二人にとって、それはこれまでの人生で最も穏やかな日々だった。


 デッキチェアを二つ並べて、バルコニーで日光浴をした。

 ただぼうっと海を眺めることが、こんなに幸せだと初めて知った。

 そんな幸せを共にかみしめる伴侶が、そばにいてくれることの素晴らしさも。


 薄い生地の服に着替えて、二人で海辺を散策した。

 波打ち際を歩いていると自然にたがいの指が触れて、それから手をつないで歩き続けた。

 砂浜で潮干狩りに挑戦したりもしたが、これはからきし成果が出せず空っぽのバケツを見せ合って二人でクスクスと笑った。


 時には少し遠くの漁村まで足を運び、花市場で美しい地産の花々を買って帰った。

 持ち帰った花は花瓶に生けて別荘のそこここに飾ったり、皇后フロレンティーナの墓前に献花したりした。


 食事時には管理人のヨーゼフが来て料理をしてくれたが、さすがに毎度任せきりにするのは心苦しくてケイはしょっちゅうキッチンへ顔を出した。

 もともと貧民街で母の食事を作っていた身である。

 自分用にはろくな食材を扱ったことはなくとも、調理の手伝いぐらいならこなせる。


「実に見事なお手前です、ケイ妃殿下。どうでしょうか、この地へ残って私めとシーフードレストランを開くというのは?」

「その場合、店長は問答無用でこのベルトルトが務めるがな。お前がつまらぬ冗談を言うタイプだとは知らなかったぞ、ヨーゼフ」

「これは失礼を皇太子殿下、私も少々もうろくしてまいりましたか」


 何やら揉めている男たち。

 こめかみに青筋を立て、なぜかすねたように管理人を御用邸から追放するベルトルト。

 そんな喧噪をよそに、ケイはせっせと料理に励んだ。

 ビセック海岸の魚介類はどれも新鮮で質がよく、煮ても焼いても蒸しても美味しく仕上がってくれる。

 食卓でケイがそのことを報告すると、対座の新郎はどこかまぶしげに目を細めるのだった。

 

 新婚夫婦、水入らずのひととき。

 夜ともなれば、寝室を共にするのは当然のこと。

 闇の静寂に、ふかふかの大きなベッドが一つきり。

 しかし、恋にも愛にもそれぞれに器用とは言いがたいケイとベルトルトのことである。


 休暇初日から数日間、この二人は毎夜まるで遺体安置所の死体よりも大人しく寝室の天井を眺めて朝を迎えていた。

 皇太子はむろんのこと、ケイとて当然、国で成人とされる年齢を越えた娘なのだが。


 窓辺から聴こえる潮騒は、ゆっくりとゆっくりとしかたがいの距離を近付けていかない。

 夜闇のうちで白波は静かにただ美しく盛り上がり、しぶきをともなって砕け、そして砂を削りながら引いては寄せを繰り返す――……。

 そして朝が来るごとにその光は燦々と部屋に差し込み、愛する者の肌と輪郭とを柔らかく浮かび立たせる。

 二人にとっては、それだけで十分だった。







 そんな甘い(?)新婚休暇も半ばに入り、ある変化が起こる。

 新婦も新郎も、こののんびりと穏やかな生活の中で、忙しない働き者の性分がむくむくと頭をもたげはじめたのだ。


 実際、新郎ベルトルトには皇太子として勘案すべき公務などそれこそ尽きることはない。

 新婦たるケイもまた、新人悪役女優として新作演劇「聖なる恋の☆ドキドキ魔法学園」の本格的な興行に備えなければならない。皇都へもどればさらから皇室の妃教育も受けることになるのだ。せめて演劇の方だけでも、できることはしておきたかった。


 そこで二人は話し合い、御用邸のバルコニーにデッキチェアを並べ、時間を決めてそれぞれの務めに励むことにした。

 ベルトルトは公務書類を、ケイは芝居の台本を膝に広げて。

 それは二人にとって、たがいをないがしろにすることには全然ならなかった。

 むしろその逆だ。

 おたがいを尊重しているからこそ、肩を並べ黙々と自分の作業に集中することができる。

 矛盾するようだが、ある意味で最も夫婦のつながりを感じる時間だった。


 幸せそのもの、と呼んでもいいほどに。





 ***





 さて、二人のそんな勤務時間に夕陽が沈みかかる頃。 


 浜辺の方から美しい旋律が聴こえてきて、ケイとベルトルトは顔を見合わせふと手を止めた。

 波音をくぐり抜け、弦をつま弾くような音色がバルコニーへ吹き渡る。


「……わあ……。す、すごく、綺麗な曲ですね?」

「たぶん、ヨーゼフだろう。正直そろそろこちらも集中が切れてきたところだ。冷やかしに行ってみるか、ケイ」


 ――新郎の予想通り、その音色のもとは管理人ヨーゼフだった。

 浜に引き上げた小舟を背もたれに座り込み、夕陽を眺めながら大事そうに小さな竪琴を抱え奏でている。

 新婚夫婦が近付いてくるのを視野に入れると、照れくさそうに頭をかいた。

 

「いやこれはこれは、とんだお耳汚しを」

「本当は聴いてほしくてたまらなかったんだろう、ヨーゼフ」

「ケイ妃殿下、もう少しこの若き殿方に建前というものを教育なさった方が宜しいかと」


 ケイは思わずクスと笑って、それからベルトルトと一緒に流木の一つに腰かけた。

 即席の演奏会だ。

 元宮廷財務官にして御用邸管理人ヨーゼフによる、海辺のリサイタル。

 曲目は――。


「では、とっておきの一曲をお聴きいただく前に、いささか口上をば」


 根が実直なヨーゼフの生真面目な楽曲解説がはじまると、ケイはベルトルトと並んで静かに耳を傾けた。



 ビセック海岸に古くから伝わる舟唄。

 その一つに、『悪い人魚』という曲がある。

 漁師のつま弾く竪琴とともに、朴訥と歌い継がれてきた小品だ。


 その昔、身分違いの高貴な娘に恋をした若い漁師が、罪作りな想い人を人魚になぞらえ唄に紡いだという悲恋のバラッド。

 だがそれは長い時の中で少しずつ変遷をくり返し、いまでは純粋な愛の音楽へと昇華されている。


 いつの時代からか、その唄と竪琴に合わせ女形が舞い踊る演舞形式のバージョンも生まれ、その振り付けは簡素な挿絵と楽譜とともに古めかしい教本に綴じてほんの数冊だけ土地に残されている。


 もっとも、そんなささやかな文化遺産を常々懐に入れ持ち歩いているような好事家は、もうこの浜にヨーゼフきりであるようだが。


「……さて、それはこんな曲にございます――」


 そっと竪琴をつま弾いて、管理人ヨーゼフが朴訥と口ずさみはじめた。



舟唄『悪い人魚』


(1番序楽節)

 むせびなく 僕の心は

 甘く奪われて

 水に舞う 君は悪しき薔薇

 うろこの花びら


(1番主題楽節)

 君想う楽園に

 寄せてはさざめく

 海は とわの黄昏れ







 ……夕陽が沈みかかる砂浜に、その曲は3番の終わりまで静かに鳴り響いた。

 演奏が止むと、ケイは心からの拍手をヨーゼフに送った。

 ベルトルトがいつのまにかケイの肩をそっと抱き寄せていて、管理人を労う彼の声がすぐ耳もとでした。


「この休暇中、お前にはずいぶん世話になっている。ヨーゼフ、我々二人から何か礼をさせてくれ」

「……わ、わたしからも、ぜひお願いします」


 そして新郎新婦からのあらたまった申し出に、しばし恐縮しながらも管理人ヨーゼフは答えるのだった。


「いやはや、これはなんとも。……では、一つだけお頼みしても?」

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