9 私の魔法使い
夜会がお開きとなり、いまだ月が空高く輝く中。
慌ただしく出立の準備を整えたソフィは、城門の前でジークベルトと向かい合っていた。
「ソフィ、準備はいい?」
「はい」
うなずくソフィの手には、年季の入った旅行鞄が一つ。ソフィの大切な物は、そこに納まるほどしかない。
両親が残してくれたはずの幾ばくかの財産は、幼いうちに伯父に取り上げられ、何があったのかすら把握できていない。
わずかな持ち物は、女官になってから給金で買った最低限の物だけなのだ。
王宮でお世話になった人達には一通りの挨拶を済ませた。
主人であったアグネス王妃は、優秀な化粧係の退職を惜しがりつつも、祝いの言葉をかけてくれた。
ソフィがジークベルトの運命の相手であったことは、アグネス王妃の期待に沿うものではなかったはずだが、賢明な王妃はそこに口を挟むことはしなかった。それをすればジークベルトの不興を買うということを、夜会での一幕で十分に理解したのだろう。
ただ、「このカナルの国民であったという誇りを忘れず、ツァウバルでも励むのですよ」という激励の言葉には、ソフィに、二国間の架け橋となることを期待する響きがあった。
同僚であった女官たちの反応は様々だったが、祝福や嫉妬よりも戸惑いの気持ちが一番大きいようだった。
無理もない。ソフィだって、いまだに夢を見ているのではないかと思うほどなのだから。
そんな中、宮廷薬師の女性だけは、涙を流して喜んでくれた。ソフィの化粧品作りを手助けしてくれた恩人であり、師匠のように慕っていた人だった。
「幸せになるんだよ」と苦しいほどに抱きしめられ、ソフィは静かに涙を流しながら何度もうなずいた。
「では出発しようか。ソフィ、お手をどうぞ」
差し出された手に、おずおずと右手を乗せる。これからジークベルトの転移の魔法で、ツァウバルの王宮に移動するのだ。
「緊張してる?」と尋ねられ、ソフィは素直にうなずいた。
「でも、それ以上にワクワクしています。魔法を学べることも、おじい様やおばあ様にお会いできることも……。本当にありがとうございます、ジークベルト様」
感謝の気持ちを込めて見上げると、ジークベルトが甘やかに紫の目を細めた。
「お礼なんて。私がしたくてしたことだよ。君という運命を手に入れるためにね」
まるでソフィの全てを求めるかのような言葉に、ドキリと胸が高鳴る。
(駄目よ、変な勘違いをしてご迷惑をおかけしてはいけないわ……)
「あの……ご期待に応えられるよう、精一杯がんばります。弟子として……」
「うん、それもそうだけど……。あのね、私はあの夜会でいくつか嘘をついたけど、ソフィに対しては何一つ嘘は言っていないよ」
「それって……」
ソフィは息をのむ。
『私の妻として、ともにツァウバルに来て頂けますか?』
(つまり、あの言葉も……? まさか、そんな……)
顔を赤くして思考をぐるぐるとさせるソフィに小さく笑みを漏らし、ジークベルトはソフィの手をきゅっと握った。
「続きはツァウバルに戻ってからゆっくりと。さあ、ソフィは転移の魔法は初めてだからね、しっかり私に掴まっていて」
「ひゃっ……!?」
握った手を引き寄せられ、長身のジークベルトに抱き込まれる。
「あ、あの、少し恥ずかしい、です……」
「嫌?」
慌ててふるふると首を振ると、「良かった」と安堵したように眉を下げる。その表情に胸がきゅんと苦しくなった。
ますます頬が熱い。心臓はドキドキと忙しない。触れ合ったところからジークベルトに伝わってしまうのではないかと不安になるほどに。
それなのに、その腕から抜け出したいとは思わない。
囚われたように紫の瞳から目が離せない。
(わたしはまた魔法にかかっているのかもしれない……)
それでも構わない、とソフィは思う。
どうかこの魔法だけは解けませんようにと願いながら、ソフィは美しい魔法使いの胸に頬を寄せた。
◇
先読みの魔法が示した、運命の相手との出会い。
それが示すものの正体が気になり、ジークベルトはカナル王国行きを決めた。
恋だの愛だのというものを期待していたわけではなかった。
ジークベルトは恋愛にも結婚にも興味がない。
十代の頃からジークベルトに愛を囁いてくる女性は絶えることがなく、その内の何人かとは付き合ってもみたが、彼女達と同じ気持ちを持つことはついになかった。
自分には人として大切な何かが欠けているのかもしれない。虚しさが募った。
女性と過ごすよりも魔法の研究の方がはるかに有意義に感じられ、深い関係になるのも煩わしく、いつしか擦り寄ってくる女性達を笑顔でかわすようになった。
カナルの王妃が主催した温室でのお茶会。若い令嬢ばかりが集められたそのお茶会の意図は明らかで、微笑みの裏でうんざりしていた。
そんな中、女官姿で壁際に控えるソフィに興味を引かれたのは、その顔に魔力を感じたからだった。
それも、異なる二つの魔力を。その内の一つは、アグネス王妃の顔からも感じ取れた。
顔のみという点から、化粧に魔力が込められているのではないかと推測した。
ツァウバル以外の国には、基本的に魔法使いはいない。ツァウバル王国が魔法使いを外に出さないからだ。
もちろん、闇の組織に属する違法な魔法使いはどこの国にも潜んでいる。けれどそういう連中は、王宮という陽の当たる場所で、隠しもせずに魔力を晒すことなど普通はしない。
状況を探るため、アグネス王妃に怪訝な顔をされながら、ソフィが化粧の実演をするところを見せてもらった。
素顔をさらしたソフィの顔には、事前に聞いていたとおり大きな痣があった。
本当なら他人に見られたくはないだろうに、毅然として鏡に向かう姿に心が動いた。
そして始まった化粧の実演。
化粧品を扱うソフィの手が、わずかに光を帯び始めた。
魔力そのものと言えるその光。
やはりこの女官が隠れた魔法使いだったのだと、静かな興奮が胸に広がった。
少女が使った魔法は、化粧に魔力を乗せて痣を綺麗に隠してしまうというもの。認識阻害と同じ系統の魔法を、我流で発現させている。おそらく魔法を使っているという自覚はないだろう。
本来魔法というのは、魔力があるというだけで使えるものではない。多くの魔法使いは、幼い頃から師についてその使い方を学ぶのだ。
ピンと姿勢を伸ばした華奢な後ろ姿。鏡に映る真剣な眼差し。
誰に学んだわけでもないのに、無意識に魔法を発現させたソフィ。そこに至るまでに、どれほどの思いをしてきたのだろう。
魔力の光は細かな虹色の粒となって軽やかに宙を舞い、きらきらとソフィを包み込む。
それは決して強い光ではない。けれど、それまでにジークベルトが見たどんな魔力よりも美しかった。
「……美しいな……」
気付けば言葉がこぼれていた。
ソフィから目が離せない。いや、離したくない。
どうしても彼女が欲しいと、焼けるような気持ちに支配された。
これが恋なのかどうか、ジークベルトにはわからない。
だがこの感情が恋でないとすれば、自分は死ぬまで恋を知ることはないだろうと、そう思った。
「先読みを利用する」とソフィには言ったが、彼女こそが運命の相手だと、ジークベルトは確信していた。
急に間合いを詰めて逃げられてしまわないよう、本人には「弟子」とだけ説明したけれど。
夜会までのわずかな間に通信魔法で本国と連絡を取り、ソフィの受け入れ態勢を整えるよう部下に指示を出した。
また、ソフィから聞いた情報を頼りに、ソフィの母親の素性を探らせた。容姿の特徴から目星はつけていたから、条件に一致する者としてすぐにフォルトナー侯爵家のアンネリーゼが浮上した。正式な確認は本国に戻ってからになるが、まず間違いないだろうと思われた。
ツァウバル王国では、強い魔力を持つ貴族の結婚には国の承認を要する。魔力の多寡には血筋が大きく影響するからだ。
魔力を持たないソフィの父親との結婚が国に認められることはない。だから二人は駆け落ちするしかなかったのだ。侯爵家としても、法を破ったアンネリーゼとは縁を切るしかなかったし、その娘であるソフィに関わるわけにもいかなかった。
今後は、侯爵家がソフィの後見となるだろう。
もしソフィに魔力がなければそうはいかなかった。優れた魔法の才能を持った彼女だからこそ、国も侯爵家も喜んで受け入れる。
良くも悪くも、ツァウバルという国は魔力が重視される国なのだ。
本国の方の根回しは済んだ。
残る気がかりは、ソフィにかけられた二つの呪わしい魔法のことだった。
おそらく闇組織に属する魔法使いが、金で雇われて行ったのだろう。伯父一家が疑わしいことは明らかだった。
他の魔法使いがかけた魔法を強制的に解くのは、それほど容易なことではない。
何年かかろうとも解く覚悟はできていたが、カナル王国を去る前に一つの方法を試してみることにした。
美しくも刺々しい、薔薇のような令嬢、ベリンダ・クラプトン。
ベリンダは期待した以上に愚かで、すんなりと罠にかかってくれた。
自ら「禁言」と「身代わり」を無効にする言葉を口にした。
禁言と身代わりを望んだ本人がそれを翻せば魔法は解け、効果は無に帰する。ソフィは真実を口にすることができるようになり、痣は元の持ち主に戻る。あれはそういう性質の魔法なのだ。
おそらく、クラプトン伯爵と闇組織との取引はこれだけではあるまい。今後クラプトン伯爵家は、法で裁かれることになる。
爵位の剥奪はまず免れないだろう。命が許されるかどうかも定かではないが、彼らに対しそこまでの関心はない。これ以上ソフィを害することさえなければ、どうでもいい話だった。
夜会後は、余計な横槍が入らないうちに、転移の魔法でソフィをツァウバルに連れ帰ることにした。
「ソフィに対しては、何一つ嘘は言っていないよ」
求婚の言葉は本物だと、暗にそう告げると、ソフィは顔を真っ赤にして瞳を潤ませた。戸惑ったその顔が、可愛くてたまらない。
転移魔法を口実にその華奢な体を抱き込むと、込み上げる愛おしさに胸が苦しくなった。
「ジークベルト様の紫の瞳には、魔力が宿っているのでしょうか……?」
視線を絡ませたまま、不思議そうにそんなことを言う。
魅入られているのはジークベルトの方だというのに。
――ソフィ、私の愛しい魔法使い。
つむじにそっと口づけを落とし、ジークベルトは転移の呪文を口に乗せた。
〈了〉
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