8 対決
「ソフィ、あなた……ジークベルト様を誑かすだなんて、どれだけ恥知らずなの!?」
怒鳴りつけられ、ソフィは反射的に体を震わせた。
思わず顔をうつむけそうになったそのとき、ソフィを勇気づけるように、腰に添えられたジークベルトの手に力がこもった。触れ合ったところがぽかぽかと温かい。その熱はじわじわと全身に広がり、ソフィの心までをも温めた。
(わたし……もう、うつむきたくない……!)
ソフィはまっすぐに顔を上げ、ベリンダを見返した。
「……わたしは殿下を誑かしてなどいません。殿下がわたしを選んで下さったのです」
ジークベルトがソフィを見い出してくれたことは事実なのだ。弟子として、ではあっても。その事実は、ソフィに確かな自信を与えてくれた。
いつもうつむいていたソフィからの堂々とした反論に、ベリンダは苛立たしげに顔を歪ませた。
もう一度ソフィを睨みつけ、今度は訴えかけるような眼差しをジークベルトに向けた。
「ジークベルト様、どうかわたくしの話を聞いて下さい! ジークベルト様はソフィに騙されているのです!」
「ほう。私が騙されている……それは聞き捨てならないな」
その言葉をどう解釈したのか、ベリンダは顔を輝かせて勢いづいた。
「ええ、そうなのです! ジークベルト様はソフィをご存知でいらっしゃらない! その子は卑しい平民の身分のくせに、権力者に取り入るのが上手いのです。その子の母親もそうでしたわ。叔父を誑かして我が伯爵家に入り込み、クラプトンの名に傷をつけたのです。ソフィはそんな女の産んだ娘なのですよ!」
ジークベルトは、冷ややかに目を眇めた。
「あなたの話を前提にしても、私が騙されているということにはならないと思うが……要するにあなたはソフィの身分を問題にしているのかな?」
「そのとおりです! そのような身分卑しい女、ツァウバル王国の王弟殿下であらせられるジークベルト様には、とうてい相応しくありませんわ!」
ジークベルトはため息をついた。
「私はたとえソフィが平民の身分であっても気にしないが……そのことでソフィが悪く言われるのは我慢ならないな。そこまで言うなら、ソフィの本当の出自を教えて差し上げよう」
「本当の出自……?」
ベリンダ親子が揃って訝しげに眉を寄せる。
「ソフィの母親アンの本当の名前はアンネリーゼ。ツァウバル王国のフォルトナー侯爵家出身のご令嬢だよ」
「まさか、そんな……!?」
ベリンダが目を見開く。
ソフィもまた驚きに言葉をなくし、隣に立つジークベルトを見上げた。
(お母さまが侯爵家の出身……!? これも殿下の『嘘』の一環なの……?)
するとジークベルトは、それまでと打って変わってやわらかな微笑みをソフィに向けた。
「君からお母上の話を聞いてもしやと思い、昨日のうちに通信魔法でフォルトナー侯爵家に確認を取ったんだ。十八年前に駆け落ちし、カナル王国で結婚した娘がいることを打ち明けてくれたよ。君の祖父母にあたる前侯爵夫妻は今も健在でね、事情があってこれまで君に名乗り出ることはできなかったが、孫の君に会えるのを楽しみにしているよ」
「では、本当に……?」
ジークベルトがうなずく。にわかには信じられない話に、足元がふわふわと覚束ない。
「さて、これでご納得頂けたかな?」
ジークベルトが再びベリンダに視線をやる。
ベリンダは悔しげに唇を噛んだが、その瞳はいまだ燃えるようにソフィを睨みすえていた。
「納得など……納得などできるわけがないわ……。だってソフィの顔には大きな痣があるのよ! ジークベルト様だってご覧になったでしょう、あの醜い痣を!」
「痣があっても、私にとってソフィが愛しい人であることに変わりはないよ。それに、痣は消すことができるのでご心配なく」
「あの痣を消せるですって……?」
ベリンダが目を見開く。
「ああ、治癒魔法でね。ツァウバルにおいても治癒魔法の使い手は非常に限られているが、幸い私はその数少ない使い手の一人なのでね。さすがに一瞬でとはいかないだろうけど、一年以内にはすっかり消してしまえるだろう」
「消せる……あの痣が……」
ベリンダが信じられないような顔で呟く。
「ああそれと、特別にもう一つ教えて差し上げよう。ソフィが運命の相手だとわかった決め手は、この痣なのだよ」
「痣が決め手……?」
「今朝、改めて先読みの魔法を試したら、私の運命の相手は顔に炎のような痣のある女性だと判明してね」
「それは、本当なのですか……?」
ベリンダの声が掠れて震える。
「ああ、間違いない」
ベリンダの赤い唇が弧を描いた。
ふ……ふふふ……と、勝ち誇ったような笑い声がベリンダの口から漏れる。
「でしたら、やはりソフィはジークベルト様の運命の相手ではありませんわ! あなた様の運命の相手は、このベリンダ・クラプトンです!」
「……どういう意味かな?」
ジークベルトがわずかに眉を寄せる。
「おい、黙りなさい」と伯爵がベリンダの袖を引くが、ベリンダは口を閉じなかった。
「ソフィのその痣は、元々わたくしの顔にあったものなのです! 事情があってソフィに引き受けて貰っていましたが……そうよね、ソフィ? 本当のことをおっしゃい!」
「……っ!」
ベリンダが叫ぶと同時に、長年ソフィの喉にまとわりついていた重苦しいものが、すっと消える感覚があった。
「そうです……」
ソフィはおそるおそる言葉を紡ぐ。この十一年間、どうしても口にできなかった言葉を。
「この痣は元々、ベリンダ様の顔にあったものです」
周囲の人々がざわめきながら顔を見合わせる。
「ほら! ソフィも認めましたわ! ジークベルト様の運命の相手はわたくしなのです! だって、その痣は本当はわたくしのものなんだもの!」
その刹那。
激しい風と共にどす黒い靄が涌き起こり、ソフィとベリンダを取り囲んだ。
「きゃあ!」
視界が闇に覆われ、ソフィは咄嗟に目をつむる。縋るようにジークベルトの手を握ると、それ以上の力で握り返された。
「大丈夫だ」
耳元でジークベルトの声が囁く。薄く目を開けて隣を見上げると、暗い靄の中、紫色の瞳が道しるべのように煌めいていた。
「なによ!? なんなの!?」
靄の中でベリンダが狼狽えた声を上げる。
誰もが呆然と立ち竦み、身動きできないでいる。
黒い靄は嵐のようにソフィとベリンダの周囲を駆け巡る。それから渦を巻いて上昇し、唐突に搔き消えた。
次の瞬間、「ぎゃあああああ!」と女の悲鳴が上がった。
よろめき、その場にうずくまったのはベリンダだった。
「痛い痛い痛い! 顔が……顔がぁぁぁ……!」
ベリンダの顔を見やり、ソフィは目を見開いた。
乱れた金の髪がかかる顔の左側。そこに、ソフィの顔にあったはずの大きな痣がくっきりと浮かんでいたのだ。
その一方で、ソフィの顔からは痣と共にあった痛みが完全に消えていた。
ベリンダの母親が甲高い悲鳴をあげ、会場が騒然とする。
「ベリンダ……お、お前、顔に痣が……」
伯爵が真っ青な顔でベリンダを指さし、声を震わせる。
「そんな、どうして……」
伯爵の呟きに応えたのはジークベルトだった。
「ソフィにかけられていた身代わりの魔法が破られたのですよ。身代わりを命じた本人が、身代わりを否定する言葉を口にしたことでね」
「そんな……わたくし、そんなつもりじゃ……」
顔の左側を手で覆い、ガタガタと震えるベリンダの口から、呆然とした呟きが漏れる。
だがベリンダは不意にゆらりと立ち上がると、瞳孔の開いた目をジークベルトに向けた。口元に歪な笑みを浮かべ、覚束ない足取りでジークベルトに歩み寄る。
「でも……でも、これでわたくしはジークベルト様の運命の相手になれるのですよね……? この痣も、治癒魔法で消してくれるのでしょう!?」
縋るようにのばされたベリンダの手を、ジークベルトは無表情で振り払った。
「悪いが、私の運命の相手はあなたではない。ソフィだ。先読みの時点で痣を持っていたのはソフィなんだからね。そもそも、罪人を運命の相手に選ぶほど、私は落ちぶれてはいない」
「わたくしが罪人ですって……?」
「まだ自分の立場が分かっていないようだね。身代わりの魔法は、我が国においては無許可での使用が禁止されている魔法だよ。許可なく使えば重罰が課される。それを依頼した者も同罪だ。そしてこのカナル王国でも、違法な魔法を依頼することは禁じられているはずだよ。そうですよね、王妃殿下」
同意を求められたアグネス王妃が青い顔でうなずく。
「……クラプトン伯爵夫妻とベリンダからは、詳しい話を聞く必要があるようです。衛兵、三人を別室に連れて行きなさい」
王妃の言葉に衛兵達が動き出す。クラプトン伯爵はがっくりと肩を落とし、夫人は泣きわめきながら、衛兵に両脇を抱えられた。
「いやよ! いや! ソフィ、あんたのせいよ! 本当はわたくしのものだったのに! 美しさも……ジークベルト様も! あんたなんか、あんたなんかぁぁぁ!」
衛兵の手を振りほどこうと暴れながら、ベリンダが血走った目でソフィを睨み付ける。その顔には、十一年ものあいだ見続けた炎のような痣。
ソフィは口を開きかけ、けれど何も言葉にすることなく口を閉じた。ベリンダに言いたいことはたくさんあったが、どんな言葉も今のベリンダには届くまい。
ただ目を逸らすことなく、衛兵に引きずられていくベリンダの後ろ姿を見つめ続けたのだった。