5 秘められていたもの①
「――ょう。ソフィ嬢」
自分を呼ぶ声に、ソフィはハッと我に返った。うつむけていた顔を上げ、声がした方を振り返って息をのんだ。
太い柱にもたれかかり、「やあ」と片手を上げたのは、ジークベルトだった。
「ああ、そんなに畏まらないで」
慌てて腰を落とすソフィに、ジークベルトが朗らかに声をかける。先ほどまでよりも、口調が幾分気安い。
「君と話したいことがあって待っていたんだけど――何かあったようだね」
化粧の崩れた無残な顔を見られてしまった。羞恥で頬が熱くなる。
すでに素顔を見せたことがあるとはいえ、覚悟して見せるのと不意を突かれるのとでは訳が違う。
「お見苦しいものをお見せしました。どうかご容赦下さい」
さらに深く頭を下げるソフィに、コツコツというジークベルトの足音が近づいてくる。磨き上げられた靴が視界に入り、立ち止まる。
「よければ顔を上げてくれないかな。私は君の顔を見苦しいなどとは思わない」
「ですが……」
「君の顔を見せて」
静かな、けれどきっぱりとした口調。
おずおずと顔を上げれば、神秘的な紫の瞳がソフィを見つめていた。手をのばせば届く距離。形の良い眉は心配そうにわずかに寄っている。
「何があったか、聞いても?」
「……殿下に気にかけて頂くような身分ではございませんので。このような場所でお声がけ頂くというのも畏れ多く……」
小声で答え、ソフィはそわそわと周囲に視線を走らせる。二人がいるのは、多くの人が行き交う王宮の廊下。柱の陰とはいえ、容易に人の目に留まる場所だ。
ジークベルトと二人でいるところを誰かに見られたら――そしてそれがベリンダの耳に入ったら……それを思うだけで気持ちが塞ぐ。
「ああ、人目を気にしているのなら、そこは心配しないで。私たちの周囲に認識阻害の魔法を張り巡らせてあるから」
「……え?」
ソフィは驚いて周囲を見回す。
「私達の姿が見えなくなるわけでも、声が聞こえなくなるわけでもない。なのになぜか目に入らない、耳に入らない、記憶にも残らない、そういう便利な魔法だよ」
言われてみれば確かに、先ほどから何人もの人間がすぐ側を通り過ぎているのに、誰もこちらを気にかける様子がない。
地味な女官姿のソフィはともかく、煌びやかな容姿のジークベルトはどこにいても非常に目立つというのに。
「すごい……」
思わず漏れた呟きに、ジークベルトが嬉しそうに目を細めた。
「魔法に興味がある?」
少し考え、ソフィは口を開いた。
「……正直に言うとあまり良いイメージを持っていなかったのですが……温室で見せて頂いた魔法はとても幻想的で素敵でした」
「そう言って貰えると嬉しいな。どうだろう、君さえよければ、我が国で魔法を学んでみない?」
「えっ?」
突拍子もない話に、ソフィは目を瞬く。
「……あの、ですが、魔法というのは生まれ持った魔力がないと、使えるようにはなれないと聞いています。わたしには魔力など――」
「やっぱり自覚はなかったんだね」
「?」
何のことか分からず、ソフィは訝しげに眉を寄せた。
「お茶会で王妃殿下と君の顔を見たとき、わずかながら魔力を感じて驚いたんだ。さっき実際に見せてもらって確信したよ。君は化粧をするときに魔法を使っている」
「え……?」
「おそらく無意識なんだろう。訓練を受けていないから効果もそれほど強いものでない。だけど確かに君の化粧には魔法の力が込められている。そうでなければ、君がいかに優秀な化粧師であっても、この痣をあれほど見事に隠してしまうことはできないよ」
「そんな、まさか。だってわたしは……」
魔力の有無を左右するのは血筋だと言われている。ツァウバル人以外で魔力を持つ例はほとんどない。
信じられない話に、ソフィは呆然とする。
「君の近い血縁に、ツァウバル人がいるのかもしれないね。お父上は間違いなくカナル王国の生まれだとして、お母上がツァウバルの出身だったりしない?」
「母は……いえ、もしかしたら、そうなのかもしれません。はっきりとは聞いていませんが……」
母親のアンは、父との結婚を家族に反対され、実家との縁を切ったと聞いている。父も母も、ソフィの前で母の生まれ故郷のことを話題にしたことはなかった。
けれど一度だけ、寝物語に魔法使いが出てくる話をしてくれたときに、「お母さまの生まれた国にはね、本物の魔法使いがいるのよ」と教えてくれたことがあった。「誰にも内緒ね」と微笑みながら。
「お母上の名前はアンといったね。本当の名前なのかな?」
「分かりませんが……父は母のことをいつもそう呼んでいました。愛おしそうに。母もごく自然に返事をしていました」
父と母の間に流れていた温かな空気。そこに嘘があったとは思いたくない。
「アン……ツァウバル風にいえばアンネか……。君の見た目はお母上に似ているかい?」
「はい、よく似ていると言われていました。髪の色も目の色も母譲りです」
「黒髪に薄青の瞳のアンネ……後で調べてみるとしよう。いずれにせよ、君に魔法の才能があることは間違いない。それも、誰に教わったわけでもないのに無意識で魔法を使えてしまうほどの、ずば抜けた才能だ」
ジークベルトの説明がじわじわとソフィの胸に沁みこんでいく。
魔力があると言われても、いまだその実感は全くない。けれどジークベルトが言うならそうなのだと、なぜか自然と思えた。
「魔法……だったのですね。わたし、お化粧の技術が上がったのだとばかり……」
確認するように呟くと、ジークベルトがなぜか眉を下げた。
「その……もし気を悪くしたのなら謝りたいんだけど……魔法を抜きにしても、君の化粧の技術は優れている、と思う。……たぶん」
小さな声で言い添え、気まずそうに視線を逸らす。
「すまない、実を言うと化粧のことはよく分からなくて……」
情けない顔でそう告げるジークベルトを、ソフィは意外な思いで見つめる。多くの女性と浮き名を流してきた人とは思えない正直さだった。
「だけど、これだけは間違いなく言える。君が魔法の力に目覚めたのは、君の思いの強さと、化粧に対する真摯な姿勢ゆえだ。君が化粧の習得にかけた時間も熱意も、身につけた技術も、魔法のことは関係なくそれ自体に価値のあるものだと思う」
ジークベルトは真剣な顔で言い募る。
彼の言いたいことをようやく理解し、ソフィは小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます。これまでのわたしを認めて下さって」
正直に言えば、純粋な化粧技術でなかったのは少しだけ悔しい気もしないではない。けれど、化粧に真剣に取り組んだおかげで魔法の力に目覚めたのだとすれば、胸を張ってもいいのではないだろうか。
良い魔法使いは来てくれない。自分を助けられるのは自分だけ。そう思って努力した結果、自分自身が魔法使いになるだなんて、皮肉な話ではあるけれど。
ジークベルトはホッと頬を緩ませ、「初めて笑顔を見せてくれたね」と目を細めた。
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