4 剥がされた鎧
「ソフィ」
化粧の実演を終え、部屋を片づけて女官の控室に戻る途中。廊下を歩いていたソフィは、声をかけられてびくりと肩を震わせた。
返事をする間もなく強く腕を引かれ、近くの空き部屋に連れ込まれる。
扉を閉め、その前に立ち塞がったのは、目を吊り上げたベリンダだった。
「ソフィあんた、ずいぶん調子に乗ってるじゃないの」
「わたしは調子になど――」
「誰が口答えしていいと言ったの?」
叩きつけるような調子で、ベリンダがソフィの言葉を遮る。
「勘違いするんじゃないわよ。ジークベルト様がお褒めになったのはあんたの化粧の腕前。ただそれだけのことなんだから」
「……分かっています」
ジークベルトの口から漏れた「美しい」という呟き。あれがベリンダの気に障ったに違いない。
確かにソフィも一瞬どきりとした。けれど、それで勘違いできるほどおめでたくはない。どんなに綺麗に隠しても、醜い素顔を知ってなおソフィの容姿を褒めた人は、これまで一人としていなかったのだから。
「いい? ジークベルト様はあの魔法大国ツァウバルの王弟殿下でいらっしゃるのよ。卑しい身分のあんたなんか相手になさるはずがないじゃないの。本当なら、あんたなんか言葉を交わすことすら許されない尊きお方なのよ」
「もちろんです……」
「なのにあんたったらジークベルト様に色目を使って、みっともないったらありゃしない」
「そんなことは決して……!」
ソフィの否定の言葉を無視して、ベリンダはこれ見よがしにため息をついた。
「ほんと、血は争えないわよねぇ。あんたの死んだ母親もそうだったわ」
ひやりと血の気が引くような感覚があった。続く言葉が容易に想像できて、ぎゅっと化粧道具を持つ手に力がこもる。
「どこの馬の骨とも知れない卑しい身分のくせに、叔父様を誘惑して由緒あるクラプトン伯爵家に卑しい血を持ち込んで」
「……っ」
ソフィはうつむき、きゅっと唇を引き結ぶ。幼い頃から何度も何度も聞かされてきた侮辱の言葉。何度聞いても、慣れることなど決してない。
「あんたのような下賤の血が流れた人間がこのわたくしの従妹だなんて、おぞましくて吐き気がするわ」
確かにソフィの母アンは、カナルの貴族階級に属する人ではなかった。大恋愛の末、実家と縁を切って父に嫁いできたのだと聞いている。
素性がはっきりしないソフィの母のことを、血筋にこだわるクラプトン伯爵家の人々は忌み嫌っているのだ。
けれど、記憶にある母はとても美しくて優しい人だったし、両親は深く穏やかな愛情で結ばれていた。クラプトン伯爵家の援助を受けることなく、家族三人で慎ましくも堅実な生活を送っていた。
こんな風に貶められる理由などないはずなのに。
「あんたの母親が早死にしたのは天罰よ。巻き込まれて死ぬなんて、叔父様も愚かよねぇ。あんな疫病神と結婚なんてしなければよかったのに」
「やめて下さい」
うつむけていた顔を上げ、ベリンダを真っ直ぐに見据える。
自分への侮辱はまだ耐えられる。けれど、両親に対するそれを我慢し続けることはできなかった。
「父と母を侮辱しないで――」
低い声で抗議の言葉を発した次の瞬間、左の頬に衝撃が走った。よろめき、こらえきれずにその場に倒れこむ。ベリンダがソフィの頬を打ったのだ。
手から離れた化粧箱が床に転がり、中身が散乱する。それをベリンダの靴のヒールがギリッと踏みつけた。
「口答えするなと言ったのが聞こえなかったのかしら?」
ベリンダが蔑むような目でソフィを見下ろす。
「王宮で女官をやってるのだって、どうせ男を引っかけようって魂胆でしょう? 平民のくせに。だけどお生憎様、醜いあんたのことなんて誰も相手にしやしないわ。もちろんジークベルト様もね」
ベリンダは床に転がった化粧水の瓶を拾い上げると、ソフィの顔目掛けて中身をぶちまけた。
「あーら、手が滑っちゃったわ」
クスクスと歪んだ笑みを浮かべ、ベリンダはソフィの前にしゃがみ込む。取り出したハンカチでソフィの顔を力任せに拭いた。
「まぁたいへん、化粧が落ちてしまったわぁ。ごめんなさいねぇ、せっかく苦労して誤魔化していたのに。でもね、しっかり自覚した方がいいと思うのよ。あんたには醜い痣があるんだってことを。醜い女に価値はないんだってことをね」
ベリンダは立ち上がり、うなだれるソフィに汚れたハンカチを投げつけた。
「よく覚えておくことね。ジークベルト様の運命の相手になるのはこのわたくし。醜いあんたは、這いつくばって床でも磨いているのがお似合いよ」
もう一度化粧道具を踏みつけ、ベリンダは部屋を出て行った。
一人残されたソフィは深いため息をつく。こぼれそうになる涙をなんとかこらえ、ソフィはのろのろと床に散らばる化粧道具を拾い集めた。
◇ ◇ ◇
十年以上経った今も忘れられない記憶がある。
それは、両親を亡くし、クラプトン伯爵家の屋敷で暮らすようになって一年が経ったある日のこと。
この日、幼いソフィは思い知った。良い魔法使いは、自分のところには来てくれないのだということを。
「いや! はなして!」
「おとなしくしろ! 穀潰しのお前が、ようやく我が家の役に立てるんだ。光栄に思え」
突然連れて来られた地下室で、ソフィはわけが分からないまま伯父から羽交い締めにされた。
「縛った方がいいのではなくて?」
伯母が眉をひそめながら縄を顎で示す。
その傍らに立つ一歳年上の従姉は、暗い地下室だというのにベール付きの帽子を被っている。
「口も塞いでおけ。わめかれると集中力が削がれる」
神経質そうなしゃがれた声。部屋にはもう一人、真っ黒なフードで顔を隠した見知らぬ男がいた。
力づくで椅子に縛り付けられ猿ぐつわを噛まされたソフィは、カタカタと震えることしかできない。
フードの男が、ソフィの座る椅子を中心に石造りの床に円を描き、見たこともない文字や模様を描き加えていく。その円と一部が重なるように描かれたもう一つの円の中央に、従姉が立った。
(こわい……こわいよ……)
フードの男が分厚い本をめくりながら、聞き覚えのない奇妙な言葉を紡いでいく。
陰鬱なその響きがソフィの不安と恐怖を煽る。
永遠とも思えるような長い詠唱が終わったとき、床に描かれた二つの円が鈍い光を帯びた。
フードの男が従姉に目で合図を送る。
従姉は小さく頷き、ベールを上げた。あらわになった顔の左半分には燃え上がる炎のような痣。従姉はそれを自身の右手で覆い隠した。
隠れていない方の目が、暗闇の中で爛々と光る。その目はひたりとソフィを見据えていた。体の震えが大きくなる。
従姉がソフィの方へゆっくりと足を踏み出す。
(やめて……こないで……!)
青い右目が瞬きもせず近づいてくる。
やがて従姉は二つの円が交差する地点で足を止めた。
顔の左半分を覆っていた右手が、ゆっくりとソフィにのばされる。その手は不気味な光を帯びている。
(だれか、だれかたすけて……!)
恐怖が込み上げ、白い頬を涙が伝う。
のばされた従姉の右手がソフィの顔の左半分を覆った瞬間、触れられた部分が焼けつくような痛みに襲われた。
「――――っ!!」
あまりの痛みに体が大きく跳ね、ソフィは縛りつけられた椅子ごと床に倒れこんだ。硬い床で頭を強打し、一瞬目の前が真っ白になる。
「成功だ。お嬢様のお顔はほら、このとおり」
ソフィを見下ろす従姉の白い顔。その左半分にあったはずの痣は綺麗に消えていた。
叔父と叔母が歓喜の声を上げる。
「ああ、綺麗な顔……良かったわ、これで堂々と外に出せる……」
「ああ、本当に」
「お父さま、お母さま……!」
喜びの涙を流し、抱きしめ合う親子。
ソフィは床に転がされたまま、朦朧とする意識の中でその光景を眺める。
(いたい……いたいよ……おかあさま……おとうさま……)
涙でぐちゃぐちゃになったその顔の左半分には、炎のような痣がくっきりと――。