2 隣国から来た魔法使い②
アグネス王妃は虚を衝かれた様子で目を瞬いた。
「……ずいぶんと妙なことをお聞きになりますのね。それは、例の先読みと関係がありまして?」
「今はまだ、何とも」
微笑みを浮かべたまま、ジークベルトが小さく首を傾げて見せる。
アグネス王妃はわずかな思案の後に、赤い唇で弧を描いた。
「よろしくってよ。特別に教えて差し上げましょう。……ソフィ!」
皆がざわめきながら、壁際のソフィを振り返る。
「ソフィ・クラプトン、こちらにいらっしゃい」
ソフィは女官らしい無表情を保ったまま、内心でため息をついた。
こんな風に注目を集めるのは好きではないが、主人である王妃の指示を拒めるはずもない。
ソフィは「はい」と小さく答え、急ぎ足でアグネス王妃とジークベルトのもとに向かった。
顔を俯けていても、令嬢達の視線を痛いほどに感じる。その多くは好意的とは言えないもの。とりわけベリンダからの視線は、茨のように棘々しくソフィに絡みついてきた。
「ソフィ・クラプトンでございます。お呼びにより参りました」
アグネス王妃とジークベルトの前で深く腰を落とす。
「本日わたくしにお化粧をしたのはこの子ですわ。ソフィ、顔をお上げなさい」
言われたとおりに顔を上げ、小さく息をのんだ。
ジークベルトが真っ直ぐにソフィを見つめていた。ツァウバル王族特有の神秘的な紫の瞳から、なぜか目を逸らすことができない。それ自体が何か魔法の力を帯びているように思えて、胸の奥がぞくりと震えた。
「はじめまして、ソフィ嬢。クラプトンというと、クラプトン伯爵家のご令嬢でしょうか?」
「クラプトンの娘はわたくしですわ」
ソフィが口を開くより早く、別のテーブルから声が上がった。ソフィの「義姉」、ベリンダだ。
あら、とアグネス王妃がベリンダに目をやる。
「そうね、ベリンダ、せっかくですからあなたもこちらにいらっしゃいな」
王妃に手招きされたベリンダは、ゆったりと胸を張って進み出てくる。ソフィの半歩前に立ち、淑女の礼を披露した。
「クラプトン伯爵家が長女、ベリンダと申します。ジークベルト殿下にお目にかかれて光栄に存じますわ」
ジークベルトを見つめるベリンダは、頬を薔薇色に染め、青色の瞳をうっとりと潤ませている。
「はじめまして、レディ。お二人は姉妹なのかな? それにしてはあまり似ていませんね……」
ジークベルトはソフィとベリンダを見比べ、小さく首を傾げた。
明るい金髪と大きな濃い青色の瞳を持つベリンダに対し、ソフィは漆黒の髪に涼やかな薄青色の目元。二人の印象はずいぶん違っている。
「二人は従姉妹同士ですのよ」
ジークベルトの疑問に答えたのはアグネス王妃だった。
「ソフィは、こちらのベリンダの父親――クラプトン伯爵の弟の子なのです。ソフィの両親は駆け落ち同然に家を出ていたのだけど、ソフィが幼い頃に馬車の事故で亡くなりましてね。残されたソフィを哀れに思ったクラプトン伯爵が、引き取って我が子同然に育てたのですよ」
同意を示すように、ベリンダが深くうなずく。
カナル王国の社交界では知らない者のいない話だった。
裕福な上に人格者――クラプトン伯爵は社交界でそのような評価を受けている。
「ですからソフィは、身分としては平民ということになりますわ。けれど幼い頃から一緒に育ちましたので、実の妹のように思っておりますのよ。ね、ソフィ?」
ベリンダが首を傾け、ソフィに優しげな微笑みを向ける。ソフィはその視線を避けるように目を伏せた。
「もったいないことでございます、ベリンダ様」
「まぁいやだわ、ソフィったら。そんな他人行儀な呼び方。いつものようにお姉様、と呼んでちょうだい?」
「……はい、お姉様」
「いつも」とはいつのことだろう。そう思いつつも、ソフィは大人しく従う。
ベリンダの意に添わないことをすれば、後でどんな嫌がらせを受けるか分かったものではない。今こうやってソフィが注目を浴びているだけでも気に入らないに違いないというのに。
「どうかしら、ジークベルト殿。ベリンダは美しい娘でしょう? 我が国の社交界でも指折りでしてよ」
アグネス王妃がベリンダを持ち上げる。あわよくば、との思いがあるのだろう。アグネス王妃にとってクラプトン伯爵家は建国以来の忠臣であり、ベリンダはその家の娘――それもとびきり美しい娘なのだ。
ベリンダも自信に満ちた表情でジークベルトを見つめている。
ジークベルトはそんなベリンダにちらりと目をやると、口元に整った微笑みを浮かべた。
「ええ、まるで薔薇のようなご令嬢ですね」
「まあ、嬉しゅうございますわ」
ベリンダがうっとりと頬を染めた。
先ほどから、会話はソフィを置いてきぼりにして進んでいる。
このまま気配を消して御前を退いては駄目だろうか。そう思い、そっと足を引きかけたソフィだったが、ジークベルトの視線に縫い留められて動きを止めた。
「それで、そちらのソフィ嬢なのですね、王妃殿下のお化粧を担当したのは」
「ええ。腕が良いので重宝しておりますの。彼女の手にかかればクマもシミも魔法のように消えてしまいますのよ。……あら、魔法のようにだなんて、魔法大国の王弟殿下の前で大袈裟でしたわね」
「いえ、それほど見事な腕前ということなのですね。どうでしょう、ぜひ一度、ソフィ嬢が化粧をするところを拝見したいのですが、機会を設けて頂けますか?」
いったい何を言い出すのだろうかと、ソフィは顔には出さず訝しむ。
それはアグネス王妃も同じだったらしく、怪訝そうに眉を寄せた。
「まあ……殿方ですのに、お化粧に興味がおありですの?」
「ああ、いえ、姪の王女が年頃でして、貴国の流行に興味津々なのです。ファッションの最先端は何と言ってもカナル王国ですから。そのカナルの社交界を牽引するアグネス王妃殿下の美の秘訣を、ぜひ我が国にもお裾分け頂けると嬉しいのですが」
ジークベルトの言葉に、アグネス王妃が相好を崩した。
「あら、そういうことでしたら。このお茶会の後、晩餐会までの間にお時間がありますから、場を設けましょう。ソフィ、我が国の威信をかけて、しっかりと務めるのですよ」
アグネス王妃は上機嫌でそう請け負ったが、ソフィは気が進まない。貴族でもないただの女官に、そんな重責を担わせないでほしいと思う。
それに、ジークベルトの説明にもいまいち納得できないでいた。
(いったい何を考えてらっしゃるの……?)
とはいえ、そもそも拒否するなどという選択肢はない。主であるアグネス王妃の命令は絶対なのだ。
「承知いたしまし――」
「まあ、良かったわね、ソフィ!」
ソフィの言葉に被せるように声を発したのはベリンダだった。
「顔の痣のせいで辛い思いもしてきたでしょうけど、あなたの長年の努力がこうして認められて、わたくしも『姉』として誇らしいわ!」
「顔に、痣……?」
ソフィを見つめるジークベルトの目が、すっと細められる。ソフィの胸の奥がひやりと冷えた。
(大丈夫、ちゃんと隠せてるはず。こんな視線には慣れてる……)
目を伏せ、そう自分に言い聞かせる。
「ええ。可哀そうに、ソフィには生まれつき顔の左半分に大きな痣があるのです。頬から額にかけて、燃え上がる炎のような形の大きな痣が。お化粧で綺麗に隠しておりますでしょう? ソフィの努力の賜物ですわ。わたくし、そんな『妹』を心から誇らしく思っておりますのよ」
ベリンダは慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。その目は熱心にジークベルトに向けられていて、ソフィのことなど見てもいない。
にわかに体の熱が上がり、脈が速くなる。ほとんど消えていたはずの痣の痛みがヒリヒリと甦る。
(可哀そう? 誇らしいですって? あなたが……よりによってあなたがそれを言うの!?)
そう、口にできたらどんなにいいだろう。ベリンダがこうして「優しい姉」の顔でソフィの痣のことを触れ回るたびに、ソフィは叫び出したい気持ちに駆られる。
けれどそれは決して叶わない。言い返したいと、そう思うだけで息が苦しくなり、結局一言も発せずに終わってしまうのだ。
(怒っても無駄……。やり過ごすのよ、いつものように……)
ソフィは乱れた脈を整えるため、密かに深呼吸を繰り返す。
「顔の痣は不幸なことですけど、そのおかげでこのような栄誉に恵まれたと思えば、かえって幸運だったと言えるかもしれませんわね」
ベリンダの勝手な言い分に、頭の芯がくらりとした。握りしめた手の平に爪が食い込む。
確かに、平民の身分でありながら王妃の化粧係に抜擢されるほど化粧に習熟したのは、痣を隠すために何年も研究と練習を重ねたからだ。
良い魔法使いが助けに来てくれる、そんな夢を見るのはとっくにやめた。自分自身でどうにかするしかないのだと悟ったから。
何種類もの化粧品を試し、ものによっては手作りし、様々なやり方を工夫した。そんな努力の末、一見すると分からないほど綺麗に痣を隠すことができるようになった。
けれどその甲斐なく、ソフィに醜い痣があることは、いまや宮廷中に知れ渡っている。ベリンダが事あるごとに痣のことを話題に出すからだ。
そうしてクラプトン伯爵家の人々は「傷物の娘を引き取って慈しむ人格者」としてますます尊敬され、一方のソフィは好奇と憐憫と侮蔑の視線に晒されてきた。
「……ああ、確かに。あなたの言うのも一理あるかもしれませんね」
ベリンダに同調するような言葉がジークベルトの口から出る。
その目に浮かぶ色は好奇でも憐憫でも侮蔑でもなかったのだが、俯いて拳を握りしめるソフィは気づかないままだった。