夏影
太陽が天頂に近い。万物の影は足元にくろぐろとうずくまっている。
木陰に涼を求めるべくもなく、私は、だらだら坂を登り続けていた。
見舞いは兎も角、病人が、妊婦が、あるいは時に死者も行き来しようという坂の、徒歩がかくも難儀は夏の故か。
涼しい朝のうちに、と思っていた用事に随分と時間を喰ってしまい、早々に贖めた見舞いの花束はとうにくたびれているだろう。逆さに持ったそれの、顔をこちらへ返して確かめるのも難儀だった。
少女のような妻は、萎れた花を悼む気持ちを隠して、それでも私に咲むのだろう。
無邪気に私を慕う妻。その感情を持て余し始めているらしい妻。
そして、私は、
――父さま、
ふいに、まだ産声も上げやらぬ幼子の聲が私を呼び、同時に、足元をなにかが走り抜けてゆく。俊敏な黒猫の、限りなく無音に近い疾走に似て非なる、とは瞬間悟った。
白昼夢じみたふいうちに、目が眩む。空耳が残響を繰り返した。
――父さま。
黒いものを追うように、今度ははっきりと空気が動いた。白い指先が地に触れ、そのまま五指を立てるような格好で、走り抜けようとする黒いものを、自分の足元から伸びる影のたまりに引き寄せる。いずれの黒猫が、引き寄せられてこうも容易く他者の影に溶け込もうか。
無遠慮なまでに強い光線の充溢する世界で、それらのすべてがほんの一瞬の出来事に違いなかったが、まるでコマ送りの映像のように見えていた。
追跡者はしゃがんだまま、地を掻いた己の爪の汚れを見遣って小さく息をもらし、おもむろに顔をこちらへ向けた。
「あいすみませんでしたね」
少し笑ったのを見ると、影売りである。
「さっき仕入れたばっかりで生きが良い。おまけにこんな影日和ですから」
通常この生業の者は、自分の容姿をひかりにさらすことを嫌う。しかし決まりの装束に、目深の笠は道の端に置かれた背負い箪笥に立てかけてあった。
子供の頃、縁日で影をねだると、母親は渋ったものだ。
赤く染まった艶やかな林檎飴。愛らしくも儚い硝子細工。遠からず遊び飽き、あるいは壊れて忘れ去られてしまう原始的な造りの、安物の玩具たち。軽々しくねだられ買われてゆく、赤や黄色や緑の、小さな命が永らえることは稀だ。見世物、物売りたちの、面白おかしい口上。
縁日に集う香具師たちの中で、影売りは、子供心にもどこか独特の陰影を帯びた物売りだった。
賑やかに売り声を上げていることはなく、売り物の影を纏って無言で練り歩くか、人出の中、影がきれいに地に伸びる場所を選んでただ佇んでいる。それだけで、ひとつふたつと不思議に影は売れていった。
夜店の提灯の明かりを受けて地に落ちた彼の影の周りには、蝶だの桜吹雪だの風花だの小鳥だの、様々の影が群れ泳いでいる。走り寄ってそれをすくい上げるわたしの、掌を、袖を、兵児帯の背を、影は伝い泳いではするりと地に逃れてゆく。
母が急かす。
今目前の男の、双眸はひどくあどけない。その眸が、くるりとひるがえった。
「綺麗ですね」
ぼんやりと彼を見ていた私は、眼前に差し出された花束と言葉が、自分に向けられたそれなのだと、しばらく理解できなかった。私は、妻への見舞いを取り落としていたのだ。
「ああ、有り難う」
立ち居振舞いのひとつひとつが鮮やかなのも、影売りという生業にそぐわないように思われた。それとも彼らは、闇と被り物を取り去れば皆このように卑しからぬ顔立ちをしているものだろうか。
自分の失態と、青年の鮮やかさを持て余して、私は言い訳めいた言葉を続けた。
「影にはいい日和かもしれませんが、私には、この暑さは、どうも」
「入られますか」
問われ、意味を解せずひとつ瞬くうちに、彼の広げた影が私たちを覆い、涼風が抜けた。おそらくは青年の足元から伸びているのであろう影の、輪郭は大樹である。
「便利な、ものですね」
「一昨年の夏に、道路拡張のために切られてしまったのです。ご存知でしょうか、街道筋の、土手の」
「ああ、あの、」
「そう、その欅、です」
私の言葉を引き取った青年は、太陽光線を遮る枝葉がさも存在するかのように、頭上を頼もしげに見上げた。
「先程、仕入れた、と仰いましたが、その引出しに影が仕舞ってあるのですか」
ふと思いついて私は尋ねた。
「さあ、どうでしょう」
青年はごまかすようにあやふやに笑ったが、間を置いて言葉を続けた。
「つかまえておくのは、引出しの仕儀ではないように、思えますね。補助的な、容器であることには、あるのかもしれない」
ますますもって私には実感しがたい話だ。
「最近はまがいものや混ぜものも多いけれど、うちのは正真正銘、混じりっ気なしの本物なんです。ですから、先程のようにつかまえておくのに難儀する場合もあります」
「というのは、売られているのは皆主を失った影、ということですか」
さあ、と、まやかしの木洩れ日を片頬に浴びながら、彼はまたも生真面目に首を傾げる。
「そのままのこともありますし、午前中は太陽が昇るにつれてどんどん影が縮みますから、それに乗じて少しばかり拝借させて戴いていることもあるかもしれません」
「それで売り物になるのですか」
「そう、どちらにしても、かたちのまま売ることは少ないでしょうね」
ささやくように続けた。
「百聞は一見に如かず、と申します」
地表の欅の一葉が、彼の手によって千切りとられ、指の動きをひとつふたつ数える間に、ゆらりと泳ぐ金魚の影が、枝葉の隙間の日なたに像を結んだ。ざあ、と風が葉々の影をもさざめかせる、その同じ地表で、ひそやかな水の目触りさえした。
見事なものだ。しかし、それで終わりではなかった。
しなやかに逃れようとするその小さいものは、彼の手中にとらえられ、地表をひらひらと落ちる花占いになった。好き、きらい、……好き、と占手を告げると、散り果せた花弁は集められ、彼の掌から吹かれて飛んだ。ふわと舞い上がり、高みから、舞い落ちる刹那に、あらたなかたちを得た。色こそ纏わねど紛れもない揚羽蝶が、悠々と樹下を舞う。
母に買い与えてもらえなかった影を、一度だけ、家にいた書生に、買って貰ったことがあった。郷里に歳の近い弟がいるとかで、常日頃から彼は私には甘かった。私も彼を慕った。殊に、彼に手を引かれて縁日に連れてゆかれたその夜は特別で、幼い私も明言されずとて、なんとはなし、それを察していた。沢山お小遣いを戴きましたから、どうしましょうか、と彼が問うてくるのへ、あれもしたい、これもしたい、と私は言葉が追いつかぬ程だった。けれど、社の鳥居の大提灯の下に佇む影売りを見たとき、それだけに夢中になった。
きっと他にも、母や女中と一緒ならば許してもらえないことをさせてもらえただろうに、その静かで幽かな玩具を、私は雑踏を逃れて楽しみたかったのだろう。買い与えた途端に家に帰りたいと言い出す私に書生は少々困惑した様子だったが、彼に手を引かれ、遠回りの家路を辿りながら、私はずっと地の影を見ていた。あれは蝶、それとも子猫の、よく弾む影だったか。念入りに品定めをした筈なのに、覚えていない。
月の明るい夜だった。道々の外灯も、私と影に悪戯をしかけた。影は私の肩にとまり、指をつつき、道沿いの木の枝の影にじゃれつく振りをし、私の影の周りを飛び回った。
月明かりの縁側で、私は遊びつかれて眠り込むまで影と遊んでいた。その日、早うお休みなさいませ、と大人から言われた記憶はない。朝から母の姿が見えず、大人たちの間にただならぬ空気が流れていることは、知っていた。知っていて、縁日の名残にはしゃぐあどけなさを演じていたのか。それともその事実に気付くことで崩壊する何かを、少しでも遠ざけたかったのか。厳格な父の目を畏れていたのだろうか。
一夜明ければ、影は跡形もなかった。私はそれを理由に、駄々をこね、癇癪を起こし、叱られることを、ゆるされた。
私たち兄妹と父を置いて、情夫のもとへ走った母を恋うて泣きじゃくる、その代わりに。
「もしや先程の影の主は、」
沈黙を破った私の唐突な問に、いいえ、と青年が怪訝な顔をした。間髪入れぬ返答に不釣合いな表情は、木洩れ日に目を眇めただけだったのだろうか。私が続けようとした、悲愴でありながら願望を秘めた言葉。まるでその忌まわしい言霊に対する彼の嫌悪の反応のような。
向きになったように私は言葉を並べる。
「もう駄目なのです。解って居るのです。母に捨てられた私が、妻を、子を愛せる筈など、」
「それは、地に落ちた影のかたちにすぎません」
幻術を生業とする青年は、まるで指示するがごとく私を、確かに視た。
「まやかしのお話は」
もう結構です、と私は言い終えることが出来ない。
「その影は、源より出ずる光が、障害物に遮られて、起こす現象のひとつにすぎない。見るべきものは、別にあるのです。何があなたにそんな影絵を作らせるのか、もうご存知なのでしょう? 手を離されるのも、お逃げになるのも、壊しておしまいになるのも、そちらのお気持ちを、実践なさってみてからでも遅くはありません」
ふ、と青年は眉を和らげる。
「夕刻からは、少し、しのぎ易くなると思います」
大樹の影は消えていた。いつの間にか坂は、くっきりと片かげりである。
(400字詰め原稿用紙換算12枚)
copyrigh.Lapis Work.Tilol Nagawi.2009