愛しい人に求めた言葉を侯爵令嬢がもらうまで
とある春の晴れた休日の午後。さんさんと陽の光が降り注ぐ王城のテラスにて。
「リリアン、すまない。……婚約を、解消してほしい」
目の前の愛しいひとにそう懇願されて、私は目の前が真っ暗になる心地がした。
……私では駄目だったのだと世界に、彼に詰られている気がして。
リリアン・ルジェット侯爵令嬢。ブルトゥス帝国のやり手の宰相と誉高いルジェット侯爵の長女。第一皇子であり皇太子のアーノルド・ブルトゥス殿下の婚約者。私はそういう者だった。
正直に言えば、アーノルド殿下は初恋だった。
一生に一度の恋だったとでも言えばいいだろうか、とにかく初めて引き合わされたその瞬間に私はアーノルド殿下に恋をしたのだ。殿下と言えば幼少期から見目麗しく、気になることがあれば納得がいくまで家庭教師に質問をするほどに才気溢れる方だ。そんな方に似合いの娘になりたくて、私は暇さえあれば本を読み、勉強に励んだ。……家庭教師の教えの賜物か努力の成果か、帝都の学園に入学するころには理想的なご令嬢だと随分と周りに褒めていただいたものだ。
……けれど、アーノルド殿下は私に恋をしてはくれなかった。その結果が、今の状況である。
「……ケニーさんですか」
静かにとある女生徒の名前を出せば、殿下は申し訳なさそうな顔をして頷いた。
彼女……ケニー・レーンは彼の恋人だ。貴族の子女が多く通う学園で、男爵が後見人になることで入学を許された平民の娘。その貴族にはない天真爛漫な振る舞いは愛らしい外見と相俟って、型にはまった礼儀しか知らぬ男子生徒たちを魅了した。それはアーノルド殿下も例外ではなかったらしく、気が付けば彼の足は私ではなくケニーに向いていた。
「君に何か不満があったわけではないんだ。君は私のことを随分と心配してくれた。皇太子たる私におかしな噂が立てば、私の心にも傷がつくと、君自身も悲しいのだと言ってくれた。……それに報いることができず、彼女に心惹かれてしまったのだ」
殿下は自身の立場をよくわかっている。将来皇帝となる自分と平民の娘では立場が違うのだということも、妃教育を受けていない……ましてや貴族としての礼儀すら何も知らないケニーでは到底皇后に相応しくないということも。
けれども心を縛ることはできない。婚約者がいると自分自身では分かっていながらも、愛らしく笑いながら身体を寄せてくる少女を物珍しいと思っているうちに本気になってしまったというのが事の顛末だろう。
「婚約の解消は皇帝陛下と我が父公爵の同意も必要でございますから、今すぐにはお答えしかねます。……ですが殿下、ケニーさんは貴族ではありません。すぐに皇太子妃にとは難しいかもしれませんわね」
わかっている、とアーノルド殿下は頷く。
「ケニーと共に生きることができるなら、廃嫡されても構わない」
「それならようございました。……私としては悲しいことですが」
語尾が震えたのを、彼は分かってくれたのだろうか。椅子から立ち上がってすまないと頭を下げる殿下に、私もお辞儀を返す。
「いままで、本当にありがとうございました。……殿下は十分よくしてくださいました」
溢れる涙を堪えて、精一杯の穏やかな声で挨拶して、私はその場を辞した。
さて、婚約はつつがなく解消され……はしなかった。父はため息を深々とつきつつ婚約解消に同意してくれたのだが、皇帝陛下が首を横に振ったのだ。皇妃教育に掛かった時間や費用を考えて、アーノルド殿下を廃嫡するにしろしないにしろ、もう一度新しくやり直すのを渋ったらしい。
別に殿下を廃嫡することはいいのだが、第二皇子フェリクス殿下の婚約者としてすぐに私を迎えるのはルジェット家の外聞にも傷がつきかねないとお悩みのようだとは、我が兄クラークの言である。
「……不便だこと」
卒業パーティーの控室でぱちんと音を立てて扇を閉じれば、兄はそういうものだとため息をついた。
「まぁ早いところ決着をつけてほしいものだがね」
「そうですわね」
最近件のケニーからの視線が煩いのだ。それだけならまだいいが、先日など目に涙を一杯に溜めた彼女に抗議されたのだ。
『殿下の愛を貰えないからって、わたしを苛めるのは良くないと思うんです!』
そんな事実無根のことを。
『お耳に届いていませんの? 婚約解消にむけて協議している最中ですが』
ため息をつきながら言ってはみたが、ケニーには効果がなかった。納得するどころか目を擦りながら泣きじゃくる有様だ。
『酷いです、リリアン様……わたし、ただ……』
やり取りは小さな声だったが、見ていただけの者の目にはどう映っただろう。皇太子から婚約解消を申し出されて逆上し、その恋人を苛める侯爵令嬢に見えたかもしれない。
「何事もなければよろしいのですが」
そうだな、と返す兄の声色は、なんだかとても気づかわしげだった。
卒業パーティーの会場に入場したところで、大きな声で私の名を呼び捨てられる。
「リリアン・ルジェット! 貴様は皇太子殿下の婚約者でありながら、殿下の最愛であるケニー・レーンを平民であることを理由に虐げた!」
彼はアーノルド殿下の側近になる予定の男子生徒だ。……もっとも卒業パーティーという場でありもしない妄言を吐いているあたり、もしかしたらその椅子は他の者に奪われるかもしれないが。
「そのようなものを未来の皇后にすることは到底容認できない!このエリオット・ヘイデン、皇太子殿下並びに皇帝陛下に貴様との婚約を破棄することを提言する!」
エリオットは言うだけ言ってアーノルド殿下に跪いた。
「殿下、あの女に修道院行きでも国外追放でもお命じください!」
その言葉に大きく頷いたのは今日も今日とてべったりとアーノルド殿下に縋りついているケニー・レーンだった。
「エリオット君の言ったことは本当です……っ、わたし、怖くて……」
目を潤ませて、ケニーは続ける。
「お願いです、リリアン様!もうこれ以上罪を重ねないで……!」
殆ど殿下に抱き着くような恰好で泣き出す平民の娘と私を睨みつける側近候補。その二人に挟まれたアーノルド殿下は、まず私を見て、次にケニーとエリオットを交互に見て、……それから私に視線を戻した。
「ええと、……以前からケニーにはそんなことを言われていたのだが、リリアン。身に覚えは?」
「ありませんわ」
そんなの嘘ですと泣きじゃくる平民の娘をやんわりと制して、殿下はゆっくりと頷いた。
「ではリリアンがケニーに暴言をぶつけたり、制服を引き裂いたり、暴行を働いているのを見たものは?」
アーノルド殿下がぐるりと会場を見渡すが、ここに集う面々はしんと静まり返ったまま、誰一人として手を上げることも声を上げることもない。エリオットですら狼狽えたような顔をして固まっているだけだ。その様子に殿下は納得したように頷いて、朗々と声を張り上げた。
「リリアン・ルジェット侯爵令嬢がケニー・レーンを虐げているという噂があるならば、それは真っ赤な嘘である!なぜならばこの度のことはこのアーノルドに全ての責があるからであり、ルジェット侯爵令嬢は婚約者として励むために苛めなど行っている暇はなかったからだ!」
ですが、とエリオットが食い下がる。
「取り巻き……いや友人に命じたということも」
「私がケニーと共にいると聞いたルジェット侯爵令嬢は、まっすぐ私に諫言しに来た。私の立場にも心にも傷がつくと。……そんな彼女が、友人を駒のように扱うことはない」
唇をかんだ側近候補を一瞥して、アーノルド殿下はケニーに向き直る。
「ケニー。私が君への愛を貫けば、おそらく私は皇太子の座にはいられないだろう。それどころか皇家を追われ、平民として生きることになるかもしれない。……それでも君が私を選んでくれるならば、私は喜んでこの身分を捨てよう」
その言葉に驚いたのは彼女のほうだ。
「え、噓でしょアーノルド様……私、皇后になれないの?」
これには私も少なからず動揺した。二人が愛を貫いているからこそ、婚約を解消することになったのではないのか。そして、愛を貫くということは、殿下が廃嫡され、平民になったとしても共に生きる覚悟があるということではなかったのか。
「……差し出がましいようですが、皇后は伯爵以上の家柄の娘と定められております。授業で習ったと思いますが」
そういえばと瞬いたのはエリオットのほうだった。
「ケニーの後見は男爵家か」
つまり、彼女は側妃になれても決して正妃にはなれないのだ。授業で習ったはずだが、彼女は聞いていなかったらしい。
「嘘でしょ、じゃあアーノルド様はリリアン様を皇后にしちゃうの!?」
そんなひどい、とケニーがアーノルド殿下を詰る。
「いいえ。……以前も申し上げましたでしょう?私と殿下は婚約解消の協議中ですと」
「嫌よ!アーノルド様には皇帝になってもらって、私が皇后になるんだから!じゃなきゃ、アーノルド様を選んだ意味ないじゃない!」
しんと静まり返った会場に甲高い声が響く。殿下は最愛の女性の言葉に悲しげに微笑んで、……私の方を向いた。
「リリアン・ルジェット侯爵令嬢。……この度は、私の不徳の致すところで君にも君のご家族にも大変なご迷惑をかけた。何度も言うがこの婚約解消は全て私の責によるところであり、リリアン嬢には何一つ咎などない」
よって、と続けたところに皇帝陛下と皇后陛下がこっそりと顔を出す。その御前に膝をつき、第一皇子は声を張り上げた。
「父上、いえ皇帝陛下。……今回のことで私には皇帝たる器がないと痛感いたしました。よって、皇太子の位を返上いたします。あとの処分はいかようにも従います」
うそ、と聞こえた小さな声はケニーのものだろう。その声も全て聞いたらしき皇帝陛下は深々とため息を吐く。
「我が第一皇子、アーノルド・ブルトゥスよ。此度のこと、それほどまでに責任を痛感しているのだな?」
「はい。……私がこれ以上皇太子の位を戴き、皇帝となることあらば、皇家の血筋が簒奪されるやもしれませぬ」
どういうことだと陛下が問う。ケニーが平民であろうとも側妃にさえ上がってしまえば、他の男の入る余地などありはしないだろうから。だが、殿下は重々しく口を開く。
「ケニーは他の男子生徒とも……エリオットのような私の側近候補とも通じております。故に後宮に入ったとしても、私の側近であれば通じることも可能でしょう。己が宮の騎士さえ味方にしてしまえばよいのですから」
少し待ってほしい。こちらとしてはケニーが殿下と想いを通わせていると思ったから婚約解消に応じたのだ。だというのに当の本人は殿下以外の殿方とも……エリオットをはじめとする側近候補たちとも通じていたという。
「どういうことですの……」
もう意味が分かりませんとため息を吐けば、皇后陛下が大きく頷く。
「単に想いを通わせているということだけではございません。すでに幾人かとは肌も重ねていると……」
その殿下の言葉にエリオットをはじめとする幾人かが青ざめる。要するにそういうことなのだろう。
「リリアン・ルジェット侯爵令嬢というこの上ない婚約者がいながらそのような娘に心惹かれてしまったのはひとえに私の不徳の致すところです。故に、我が優秀なる弟フェリクスに皇太子の位を譲り、その婚約者としてリリアン・ルジェット侯爵令嬢を推挙いたします」
しんと降りた重い沈黙のあと、皇帝陛下はゆっくりと頷いた。
「アーノルド、そなたには期待をしていた。だが、此度のことをそなたの浅慮故と認めるならば、皇太子位の返上を許そう。……ルジェット侯爵令嬢も、それでよいだろうか」
いきなり話がこちらに飛んできて思わず目を瞬いた。それから動揺を飲み下して、ゆっくりと頷く。
「陛下の命とあらば、いかようにも」
私の返事に満足したのだろう、皇帝陛下はゆったりと頷いて声を張り上げる。
曰く、本日この時を以て第一皇子アーノルド・ブルトゥスを廃嫡とし、新たなる皇太子には第二皇子フェリクス・ブルトゥスを据えること。
曰く、此度の事件を引き起こしたケニー・レーン、アーノルド・ブルトゥスは別々の修道院に送られること。
曰く、此度の事件に加担した側近候補たちは謹慎処分とし、各家の当主からの沙汰を待つこと。
曰く、新たなる皇太子妃にはリリアン・ルジェット侯爵令嬢を据えること。
私とアーノルド殿下が揃って跪いて、今回の騒動は幕を閉じた。
うらうらと晴れた春の日のことである。
皇家御用達の教会の庭に咲く花の香に目を細めながら、私は赤い絨毯を踏みしめる。
「いよいよ、この日が来たな」
「晴れて、ようございました」
それもあるが、と私の隣に立つ父は言う。
「おまえを皇太子殿下のもとに送り出せるとは思わなんだ」
「私もそう思います。……位を戴いた方は違いますけれど」
あれからフェリクス殿下は正式に立太子し、私はその婚約者となった。アーノルド殿下を愛していたことを知っていたフェリクス殿下は傷心中だろうと私を優しく気遣ってくださり、またおおらかに愛してくれた。贈り物も甘い言葉も……それ以上に愛を沢山いただいて、惹かれない女はいないだろう。私は今日この日を……フェリクス殿下との結婚式が来ることを心の底から待ち望むようになったのだ。
かの事件の後、アーノルド殿下は望み通り廃嫡され、北の修道院へと送られた。今では出家して神に祈られる毎日だという。一方ケニーは殿方がいれば誑かして帝都に戻ろうとするやもしれぬと、女性しかいない南の修道院へと送られた。また、彼女と関係を持っていた殿方たちはやはり廃嫡され、北の騎士団へと入団させられたのだという。
「ともあれ、おまえはアーノルド殿下を心底慕っていた。だからどうなることかと思ったが……幸せに過ごしてさえいてくれれば、この父も嬉しいのだ」
温かな言葉。頷けばちょうど教会の鐘が鳴り、扉が開く。結婚式の始まりだ。
ゆっくりと歩いて行った先に待つフェリクス殿下が照れ臭そうに微笑んで、私に囁いた。
「リリアン。私と末永く、共にいてほしい」
かつての私は、愛した人にその言葉を欲していた。けれども今は最愛の人から欲した言葉を戴いている。これ以上の幸せがいったいあるだろうか。
「……はい。私も、この命尽きようともフェリクス殿下の御傍におりますわ」
幸せな、よく晴れた日のことだった。