エピローグ その①
何とか六月中に書き上げました。月半ばとか言っておいて申し訳ありません。
で、最終回なんですがあれもこれもと詰め込み過ぎて少し長くなったので
その① と その② に分けます。
補足的な説明部分が多い分、ストーリーそのものの進展は少な目かもしれません。
風が少し強い。だから波も結構荒い。空は良く晴れているのに何故だか海は怒っているような気がした。いつも通学に利用するフェリーならビクともすることはないだろうがその三分の一あるかないかの釣り船ではこのぐらい揺れても仕方がないのだろうと玄狼は思った。二時間おきのフェリー便の丁度狭間である時間帯に賢太の父親の知り合いの漁師が出してくれた船だ。
平日の正午、島の海岸線沿いを漁船はゆっくりと進んでいく。本土の鷹松港へ渡るためであった。
『何か・・あっけないもんだな。』
彼は思わず心の中で呟いた。四年間過ごした島の生活との別れが突然こんな形でやって来るとは思いもしなかった。手を伸ばせば届きそうな海岸道路の様子が眼の前を静かに流れ過ぎて行く。フェリーでは絶対に眼にすることのできない情景であった。
少年にとって最後の見納めになるかもしれないこの島を想い出に残すことができるようにという漁師さんの心遣いであるのだろう。
先日、徳縞県と高地県の境目辺りの海岸近くで起きた怪異達の三つ巴の激しい攻防戦から救出された玄狼はすぐさま自衛隊のヘリで政府管轄下の医療専門施設に収容された。そこで数日間を過ごしたのち奥城島の自宅へと戻って来た。
連れ帰ってくれたのは石川瑠利先生だった。彼女が只の副担任教師と言う存在でないことはそれまでの状況から玄狼も感づいていた。だが車の中でもその事については彼女は何も喋らず彼も訊こうとはしなかった。
やがて車は神社裏の自宅に着いた。ゴールデンウィークを丸々呑み込んだ誘拐事件を経てやっと家に帰って来れたのだ。母に会える! と思うと不意に涙腺が緩んだ。
如何に強大な念能力を備えていたとしても玄狼はまだ12歳の子供に過ぎない。ましてやこの世で一人きりの身内である母親ともう会えないかもしれない絶望的状況の中を潜り抜けて来たのだ。泣くのは無理のない事であった。
ポロポロと零れ落ちる涙を拭いながら少年は玄関を開けた。ところが家の中から彼を迎え出たのは母の理子ではなかった。
「良く無事に帰って来たわね。本当に良かった・・・」
冷たく澄んだ黒い瞳とハスキーな声を持った長身の女性が彼の眼の前に立っていた。
肩口までのしっとりした黒髪と細面の白く綺麗なその顔を見るのは半年ぶり以上であったがそれが誰かは直ぐに分かった。
「えっ・・・紅狐さん? なんでここに?」
玄狼を出迎えた女性、それは去年の秋頃、大海坊主を調伏した時に知り合った加賀美紅狐だった。母の若き日のライバルにして御火神流神道の上級幹部である彼女がなぜ自分の家の中に・・・? ※ 第55話 【 女祓い師 】参照
玄狼の問い掛けに対して紅狐は何も答えなかった。代わりにゆっくりと差し出した白い華奢な指で彼の頬を優しく撫でただけだった。
「玄狼君、お母さんは・・暫く戻らないわ。いえ、戻れないの。」
応えたのは玄狼の後ろに付いて来ていた石川先生だった。ボストンタイプの黒い金属製眼鏡の奥から一重瞼の理知的な瞳が振り返った彼の顔をじっと見つめていた。
「母さんが帰れない? え、何故・・・・?」
「理子さんは・・ちょっと体調を崩してしまって入院しているの。だからここにはいないわ。」
「体調を崩して入院って・・・? 母さん、どこか悪いんですか? ひょっとして病気にでもなったんですか?」
「・・・・ええ、そうね。 それも少し厄介な病気なの。 暫くは隔離した状態で治療が必要だと思うわ。」
「隔離! それって伝染病なんですか? 厄介って言う事は死ぬかもしれないようなヤバイ病気なんですか!?」
石川先生は能面のような表情で何も答えなかった。代わって答えたのは紅狐だった。
「人に感染る様な病気ではないわ。命に係わる様な病気でもないの。でもとても危険な病気とも言えるわ。」
「そ、それはどんな病気なんですか? 何ていう病気?」
「その病気の名前はね・・・狂戦士症候群と言うの。」
「・・・・狂戦士症候群?」
玄狼は聞いたことのないその病名に何故かゾクッとするものを感じた
狂戦士状態とは限界を越えた念能の使用による脳への負荷を防ぐために身体が自律的に脳内麻薬を分泌する生体防御機構の一種である。
それがもたらす異常な高揚感と強力な鎮痛効果によって念能者は一時的に強大な念能を発揮、維持する事が可能になる。だがそれは諸刃の刃とも言える危険性を持ったものであった。何故なら恒常的にそれを繰り返しているとちょっとした衝動で脅迫的な思考や幻覚を引き起こすようになり譫妄状態に陥る危険性があるからだった。
更に脳への負荷が極度に高かったり長時間であったりした場合は僅かな頻度であっても発症することがある厄介な病気、それが狂戦士症候群と呼ばれるものであった。特に祓い師のように念能を使用する職業に就く者にとっては一種の職業病のようなものだった。
殆どの場合、自身による和魂の術で重篤化することなく治まってしまうのが普通だが稀に悪化する事がある。最悪、末期状態にまで進むと誰彼構わず人を襲い暴れるようになってしまう。
未だに根本的な治療法が見つかっていない病気であるためそれは非情に悲惨な事態を引き起こしかねない。特に強大な式神を召喚できる鵺弓師などがそうなってしまった場合はもうどうしようもない。唯一の解決法はその念能者を殺す以外にないのだ。
本人は覚えていないが玄狼自身、狂戦士状態に陥ったことがある。それは紅狐と共に海坊主を調伏した時の事だった。
荒脛巾の術や饑神の術を連続使用した時、その状態に陥った。ただあの時はそれと気付いた紅狐の和魂の気の注入と言う素早い対応によって深刻な状態異常は免れた。 ※ 第60話 【 回収船 】参照
しかし四神との戦いにおいて理子には和魂の気を注入してくれる存在が居なかった。その結果彼女は激しい狂戦士状態となって重篤な狂戦士症候群を発症してしまった。
そのため式神として繋ぎ止められていた八岐大蛇の意識体が理子の支配から外れ逆に彼女の精神への浸潤を始めかけていた。呪禁師や陰陽師の世界においては強大過ぎる怪異を式神として使役する場合、一つ間違えば術者の魂が喰われてしまうという古来よりの言い伝えがある。それはそうした危険性を術者に喚起させるための伝説であった。
「貴方のお母さんは今、国の管轄する特別施設で専門家の治療を受けながらその病気と戦っているの。だからすぐには戻って来れない。早くても半年はかかると思う。」
石川先生が抑揚のない口調でそう言った。
「半年以上・・・? え、そしたら俺はその間、独りで生活せないかん…のか…
でも・・それでも俺、母さんに会いたい! 戻って来れないんだったら俺の方が会いに行く・・行ク…カラ‥‥」
情けない、恥ずかしいと思いながらも堪え切れず語尾が震えて涙声になってしまう。
「・・・言い辛いけど会いに行っても同じことよ。多分会わせてはもらえないでしょうね。例え会えたとしても貴方を息子だと認識できるかどうか・・・」
追い打ちをかける様な紅狐の言葉に玄狼は立ったまま肩を震わせて嗚咽し始めた。
グゥ、グゥッと漏れ出る泣き声を必死に噛み殺しても大粒の涙がポロポロと頬を流れ落ちてしまう。
震えるその身体を後ろから温かい何かがゆったりと包んだ。紅狐が左右の掌を玄狼の額と胸に優しく押し付ける様にして彼の身体を抱きかかえていた。そして少年の頬に自分のそれをぴったりとくっつけて耳元で囁くように呟いた。
「馬鹿ね・・・貴方を一人になんてするわけないでしょ。貴方はこれから加賀美家の子になるの。私の家族になるのよ。」
玄狼は微かに甘さを含んだそのハスキーボイスを聞いた途端に泣き止んで固まってしまった。大人の女性にそんな事をされたのは理子以外には初めてだった。
母の陽だまりのようなサラサラした匂いとは違う雨後の花のようなしっとりとした甘い匂いが少年の鼻腔をくすぐる様に満ちて来る。
「貴方が保護されてから直ぐに理子から連絡があったの。貴方を預かってしばらくの間、面倒を見て欲しいってね。以前から機会があればって二人で話し合ってた事だったから直ぐに了承したわ。
でも頭の固いお役人さん達がなかなか貴方を渡してくれなくて・・・それで今日までここで待ってたというわけよ。」
「エッ、そ、それじゃ俺は今日、今から紅狐さんの住んでる関東地方へ連れていかれるってことですか?」
「ウン・・・ホントはそうしたいんだけどね。人ひとり、それも思春期の中学生男子を家に住まわせるとなると色々準備が必要なのよ。学校の手続きなんかもしなくちゃいけないし。後、うちの娘たちの事もあるしね。」
「娘たち・・?」
「そ、中二と高一のが居るの。二人とも玄狼君が来るのを興味津々で待ってるわ。
上の娘はこの四月から家から遠く離れた高校に行ったから寮住まいで今は家にいないけどね。月に数回帰って来るぐらいかな。だから丁度部屋が一つ空いているのよ。
それじゃ今から帰って色々済ませて来るから後一週間だけ待ってて頂戴。その間の生活の事はそこの方にお願いしてあるから。」
そこの方? 玄狼は思わず紅狐の視線の先を眼で追った。いつの間にか玄関先に立っていたその女性を見た時、彼はさっきまでの不安と寂しさが融けるように温かい安堵へと変わるのを覚えた。
「あ・・沙苗おばさん」
やや肩口の開いたライトグレーのロンTとミディ丈のネイビースカートの上から茶色のエプロンを羽織ったその女性は田尾 志津果の母、田尾 沙苗であった。志津果によく似た顔つきの美人だが少しふっくらとしている分、優しく柔らかい雰囲気を纏った女性だった。玄狼がこの島に来てから母以外で初めて安らぎを感じるようになった女性でもある。
沙苗は玄狼に近づくと包み込むような優しい笑顔で
「玄狼ちゃん、お帰りなさい。」
と言った。そして彼に向かって左手を差し出した。同時に紅狐が玄狼を抱きしめていた手を解いて彼女に向かって少年をそっと押し出した。
そして沙苗と紅狐は互いにそっと目礼を交わした。
「加賀美さんがお迎えに来るまで貴方はウチの子やきんな。ご飯も寝る所もなんちゃ心配せんでええきん。そしたら先生に加賀美さん、玄狼ちゃんをお預かりします。」
沙苗は二人にそう言うと玄狼の手を引いて玄関に向かって歩き出した。そのまま城岩寺に向かうつもりであるのだろう。玄狼は戸惑った表情を浮かべながらも黙って着いて行く。二人が傍を通り過ぎようとした時、石川先生が志津果の母に向かって呼び掛けた。
「田尾さん、ご主人の徹心さんに先日は独鈷衆の皆様に大変お世話になりましたとお伝えください。」
沙苗は振り向いて石川先生に ハイ、わかりました と応えて頭を下げた。
そして彼女に一歩近づくとその耳元で少年が聞き取れないぐらいの小さな声で囁いた。
「 滅多に泣いたことのないあの娘がポロポロと涙を流しながら お願い、玄狼を助けて と泣いて頼んだらあの人どうしようもありませんから。」
沙苗はにっこりと笑いながらそう言うと玄狼を連れて去って行った。小さくなる二人の背中を見送りながら紅狐が瑠利に向かって訊ねる。
「で、石川先生・・確か石川 瑠利さんだったかしら? 理子の具合は実際のところどうなの? 意識が無い状態が続いているとは聞いたけど。
狂戦士症候群って鵺弓師の間では ”式鬼神憑き” と呼ばれてる精神汚染のことだけど昏睡状態に陥るという話は聞いたことが無いわ。
ひょっとして投薬で眠らせて狂戦士症候群が引き起こす破壊衝動や異常な攻撃性を押さえ込んでいる、という事?」
「いいえ、薬剤を使って強制的に眠らせているのではありません。麻薬とかの禁断症状を緩和する場合にそうした治療を行う事もあるようですが今回は違います。理子さん自身が自分の念能で意識を遮断しその状況を造り出しているのです。
つまり現在は植物人間に近い状態です。違うのは生命維持装置が必要ないという点でしょうか。呼吸・循環・代謝については自力で行えています。勿論、栄養摂取や水分補給、排泄は出来ませんから第三者の介護が必要ですが。」
「ではいつ目覚めるかは?」
「分かりません。水上君の心情に配慮して半年とは言いましたが・・・実際は数年もしくはそれ以上かかる可能性も否定できません。」
紅狐はそれを聞くとゆっくりと息を吐いて中空を見詰めながらボソッと呟いた。
「そう・・アマテラスは天の岩戸に閉じこもってしまったわけね。」
「あの四神との戦いが理子さんに念能力の限界を越えた負荷をもたらしたという事でしょうか?」
「まぁ、二度目だからね。」
「エッ・・・二度目とは?」
「四神がどれほどのものだったのかは知らないけど理子の念能力の膨大さはそんな生半可なレベルじゃないわ。あの娘なら八岐大蛇レベルの強大な式神であっても充分に使役可能な念量と念強度を備え持っている筈。
でもそれを上回るような極限の負荷が以前にあったとすれば・・・話は別よ。」
「それを上回るような極限の負荷って・・・一体なんですか?」
「子供を産んだことよ。」
「子供って・・・それ水上君の事ですか? え、何故それが狂戦士症候群の下地になるほどの後遺症を残す原因になるんですか? 単なる出産じゃないですか?」
紅狐は瑠利の問い掛けには答えずに逆に別の質問を返した。
「玄狼君の父親について貴方の所属機関は何か知っているのかしら?」
「いいえ、私も組織の所有する情報を全てを知る立場にはありませんがおそらく何もつかめてないと思います。只、水上君のDNA情報についてはかなり詳しく調べたようですが。」
「ふーん、そのDNA情報とやらから何か分かったの?」
「それについては・・・ちょっと。個人情報に関する事なので。」
紅狐はアハハと笑って瑠利を見た。
「個人情報? 諜報部門の貴方達がそれを言うの? アハ、アハハハッ!
非合法的に手に入れた情報であっても人に渡すときは合法的な手順を踏まなきゃ駄目って事なのかしら? アハハハハッ!
ま、それもいいでしょ。 何事にも対価は必要だものね。
だったら交換条件として彼の父親に関する情報を教えてもいいけど・・・どうする?」
十数秒間の無言のにらみ合いの後で折れたのは石川 瑠利の方だった。
「分かりました。それでお願いします。」
「OK。それじゃ交渉成立って事でいいわね。但し、こちら側の情報の信憑性を裏付ける物的証拠は何も無いわ。私自身を証拠として信頼してもらうより他ないんだけど。」
「それはお互い様という事で。互いの独り言をそれぞれが偶然耳にしただけの話ですから・・・・ で、水上君の父親は一体誰なんです?」
少し間を置いて紅狐は探る様に瑠利の顔を見詰めると薄くルージュを引いた唇の片側を上げながら答えた。
「水上 狼玄、と言ったら・・・・驚くかしら?」
それを聞いた瑠利は ハァッ? と言う表情になると
「それって確か巫無神流神道の開祖の名前ですよね?」
巫無神流神道の前身は あまなぎ流 と呼ばれる四国の山岳集落に伝えられてきた土着の民間信仰であった。それまで確たる教祖・教理体系・教団組織を持たなかった あまなぎ流 を巫無神流神道として開宗したのが開祖である水上 狼玄である。
ただ、狼玄に関しては正確な資料が殆ど残っていない。突如として明治初期の高地県の山村に現れやがて町に降りると当時随一の力を持つ豪族であった水上一族の総本家の長女、妙に婿入りする。やがて水上一族の力を背景に巫無神流神道は地方の新興宗教としては並ぶものが無いほどに大きく成長して行った。
狼玄が水上総本家の入婿となったのは彼に夢中になった長女、妙の熱烈な求愛の結果であったと言われている。やがて妙は 狼玄との間に女児三人を授かることになる。
その女児の内の一人が後に巫無神流神道の二代目総帥となる水上 紅狐であった。
しかしその後、水上 狼玄は現れた時と同じように忽然と姿を消してしまう。そして現在までその消息は不明のままだ。
だから彼の容姿を語る資料と言えば巫無神流神道 東京本部の奥の間に飾られた近接の古い白黒写真一枚のみである。その写真に写っているのは現代の写真技術によって相当な修整が加えられたのではないかと疑う程の白皙の美青年であった。
「そんな馬鹿な? 150年以上前の男性の子供をどうやって妊娠できるんですか?」
「理子は昔から父親である四代目巫無神流総帥とは余り仲が良くなかったわ。
その父親が直系の分家筋である浦島家の長男 浦島 優一郎と彼女を無理に娶をせようとしたことで亀裂は決定的になってしまった。
彼女は総本家の宝物殿からいくつかの宝具や神器を持ち出すとそのまま欧州へと渡ってしまったの。」
「欧州へと渡った? 理子さんは何故、欧州へ・・・?」
「彼女が持ち出した宝物の中に開祖ゆかりの物とされる丸い小物入れがあったの。精霊石で作られた頑丈なもので強力な念による圧力で密封されていたため中身が何なのかは不明だったらしいわ。
でも理子は誰にも開ける事の出来なかったそれを解放した。その小物入れに掛けられていた念量を超える念を流し込み打ち消したのよ。」
「その中には一体何が‥‥入っていたんです?」
「入っていたのは一束の髪の毛。恐らく水上 狼玄本人のね。そして彼の残留思念による様々な記憶。理子は精神接触によってその全てを追体験したのだと思うわ。結果、彼女は 狼玄の人生全てを吸収する事になった。そして彼を理解し受け入れた。
誰よりも、ひょっとすれば彼の妻であった妙よりも深く強く・・・・ね。」
「 それは、つまり・・・理子さんが狼玄を愛してしまったという事ですか? 」
加賀美 紅狐は宙を見つめ口先を尖らせるとゆっくりと首を横に振った。
「 それは理子じゃないとね、分からないと思うわ。でも…ある意味そう言っても間違いじゃないかも。 彼女が欧州に渡航したのは狼玄の遺伝子を持った子供を産みたいと思ったからだし・・・・。会った事もない男の子供を産もうとする以上、そうでなければ説明がつかないかもね。 」
「 子供を産むために欧州に行った? どうして欧州だったんです? 」
「 髪の毛の細胞から生殖幹細胞を造り出して自分の子宮に着床させるためだったのでしょうね。あの頃、山名鹿教授のノーベル賞受賞で話題になっていたIPS細胞を手に入れるために行ったのだと思うわ。
当時、日本じゃIPS細胞は技術的にはほぼ確立されていたけれど法律的な準備が追い付いていなかった。でもあちらじゃ既に不妊治療の一環として取り入れられていたからという理由でそうしたみたい。 」
「 では水上君は毛髪細胞から分化させた生殖幹細胞によって5世代先の先祖である水上 狼玄の遺伝子を受け継いで生まれた特殊な子供であるという事ですか? つまり彼には生体としての父親は存在しないと? 」
「 私が理子から聞いた話が本当なのであればそう言う事になるでしょうね。つまり現代版の処女懐胎って事になるのかな。
・・・・さて次はそちらの番よ。玄狼君のDNA情報から何が判ったの? 」
石川 瑠利は黒い眼鏡フレームのブリッジ部分を人差し指でクイッと押し上げると口を開いた。
「 現状では水上君のDNA情報における塩基配列の一部に特殊な遺伝子コードが存在する事が判明しています。でもそれがどういう意味を持ち何の為の存在するのかという事は未だ分かっていません。只、それらは他の人類には存在しない配列であり人工的に操作された形跡も見当たらないのです。 」
「 それはどういう事なのかしら? ひょっとしてあの子は・・・人間じゃないって事なの!? 」
「 いいえ、彼は人間です。人間ですが・・・私達の祖先とは別系統の祖先から派生した人類、もしくはどこか別の星、別の世界から紛れ込んできた人類の遺伝子を持った存在である可能性も否定できないという事です。その特殊な遺伝子が5世代ぶりに再び出会った。それがどういう事態を生じせしめるのかまでは・・・?」
「 理子から聞いたところによると妊娠期間中は異様に念能力が昂ぶって大変だったらしいわ。気を付けていないと荒魂の気が突然噴き出して暴走しそうになった事が何度かあったそうよ。未だ人間として定まってもいない胎児の身でそこまでの念能を揮う事が出来るというのは空恐ろしい話だけれど。
その時はマタニティブルーの一種だろうと思い込んでいたけどあれは狂戦士状態に陥っていたのねって理子も言っていたわ。 」
「成程・・それで二度目ということですか。」
瑠利がそう言った後、会話はしばらく途切れた。紅狐は丁度良い機会だと思ったのか ”それじゃ” と言って玄関を跨ごうとする。瑠利が眼鏡の奥から冷えた視線で紅狐を興味深そうに見つめたまま訊ねた。
「水上君を家族に加えるつもりと仰いましたが娘さんたちの事は気にならないんですか? 思春期の男女が一つ屋根の下で暮らすようになるわけですから。 間違いとかが起きてしまうかもしれませんよ?」
「アハ・・・はっきり言うとね、そうなってもいいかなって思ってるの。」
「それはやはり水上君の強大な念能力とその源であるDNAを御火神流神道の家系に取り入れたいという事でしょうか?」
「そうね。勿論、それはあるわ。でも一番の理由は理子が最後の最後に頼って来たのが私だったという事、それが全て。」
紅狐はその透き通る様な黒い瞳を瑠利に向けると静かに語り出した。
「私ね、若い頃はあの娘が嫌いだったの。只、天から与えられたというだけの理由で圧倒的な念能を揮う事の出来るあの娘が羨ましかった。大した努力もせずに祓い師としての名誉や地位、あまつさえは私の愛おしく思う男性まで婚約者としてしまった彼女が許せなかったわ。
でもひょんなことから話をするようになって、ああ、この娘の人生にも理不尽さは平等に存在するんだって気が付いて・・・ それから間もなくして彼女は約束された未来を自ら御破算にするような事態を引き起こして日本を出て行ってしまった。
その理子が自分の命と人生を懸けてまで産んだあの子を引き取るのは私の使命だと思ったのよ。」
「ですが理子さんが今のような状態になったのは自身の中に存在する 狼玄の遺伝子にオリジナルである濃密な彼の遺伝子が重なったことも一因として考えられます。そしてその遺伝子は水上家の傍系である加賀美家にも伝わっている筈です。であればもし水上君が貴女の娘さん達のどちらかと結ばれた場合、狂戦士症候群を発症する可能性があるのでは?」
瑠利の問い掛けに紅狐はわずかな沈黙を経て答えた。
「ええ、確かに可能性がないわけではないわ。」
「それでも構わないという事ですか?」
「そうね。まず娘達にその事実を伝えてその後どうするかは本人次第という事になるかなぁ。」
「では娘さんが二人とも拒否された場合は水上君の遺伝子の取り込みは諦めると?」
「ウーン、そこは悩ましいところね。まぁそうなった場合は最悪、玄狼君の遺伝子を取り込む役を私がやれば大丈夫かな・・・」
「エッ!!」
突拍子もない声を上げて固まった瑠利を見て紅狐は テヘッ と言う風に白い歯の隙間から薄桃色の舌をチロリと覗かせた。それは可愛らしさよりもドキッとするような艶めかしさが溢れるテヘペロだった。
「なぁーんてね ♡。そんなことになったら理子が目覚めた時に大変なことになっちゃうから無理ね、アハハハハハ。」
そう言ってカラカラと無邪気な笑い声を上げ乍ら彼女は玄関を出ていった。瑠利はその後姿を見送りながら
「全然大丈夫じゃないような気がするんだけど・・・・」
と独り言ちた。
次回のエピローグ その② は量も少なくしてもっと早く投稿するつもりです。それで最終回となります。




