デミゴッド ②
ひと月経ってやっと退院出来ました。
北の空に薄い黄味を帯びた白い閃光が走った。それはやがて白い煙の尾を引いた光球となって夜空を支子色に染めながらユラユラと落ちて行く。
まるで一つの命が力尽きて燃え落ちて行くように・・・・・・・
それを見た時、ああ、美雨は死んだのだと悟った。理由は分からないが己は仲間の死を感ずることが出来る。己を除いた四神の仲間は全て死んだ。部下の中で最も近しく有能であった彼女ももういない。残っているのは舌を引き抜かれた激痛と大量出血の癒えやらぬ半死半生のような己一人。
そして信号弾が落ち行くあの場所には最後の任務、殺すべき対象である水上 玄狼がいる事を美雨が最後の力を振り絞って知らせてくれたのだと思った。
異国の名も知らぬ山の尾根に立つ巨木の梢から朱 媛雀は空中へと身を躍らせた。同時に胸元に彫り込まれた金石文字の入墨に念を爆発的に集中させる。
次の瞬間、地面へと落下していく彼女の身体は赤黒い光粒に包まれて大きく膨らみ巨大な鳥へと変身した。全長十二メートルの深緋色の燐光を纏ったその姿は以前より一層強烈な輝きを放ちながらしかし燃え尽きる前の蝋燭の炎の如き悲壮感を漂わせていた。
朱雀は薄黄色の霧に覆われたかのように見える北の空に向かって大きく羽ばたきながら飛んで行った。
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広田はライダージャケットの女が青白い火焔に包まれながらやがて跡形も残さず消え失せた光景を目の当たりにして呆然としていた。
世界には人体発火という不可思議な超常現象が存在する。その現象のメカニズムには諸説あるがどれも確定的な物はない。ただ一つ共通して確認されていることは火の気がない部屋で周囲に延焼を及ぼすことなく人体と着衣のみが燃えて炭化したという事である。
だが今彼の眼の前で起きたのは人体のみが燃えて無くなったというものだった。炭化した遺体すら残さず逆に衣類と所持品はそのままに残っている。燃焼による残熱も感じられないというあまりにも異常な現象であった。呆気にとられて居た広田だが数瞬後ハッとしたように車に向かって走り寄った。開いたスライドドアから荷床に飛び込むようにして乗り込むと膝でにじり寄りながら叫ぶ。
「玄狼君! 大丈夫か!?」
少年はぐっすりと寝ていた。たった今、己が身に降りかかろうとしていた命の危険なぞ露知らぬ様子で小さな寝息を立てていた。あどけなさの残滓をにじませるその寝顔は呆れるほどに無防備かつ無邪気であった。
「まあ、まるで生まれたばかりの赤ん坊みたいな寝顔ね・・・・!」
後ろから近づいたほっそりした影が広田の肩越しにそう呟いた。いつの間にかヘリから下りて来た石川 瑠利が荷床に膝立ちして覗き込んでいた。二人はしばし無言で少年の寝姿を見詰めていた。その様子は我が子の寝姿を見守る若夫婦のように見えなくもなかった。ところが微笑ましそうに見つめるその表情が不意に緊張したものへと変わった。
玄狼から離れた場所に置かれただらりと伸びた干からびかけた生肉のような何か。
それはトンネルの中で獣人化した真上が放り込んでいった朱雀の舌だった。
ぴくぴくと艶めかしく蠢いていたピンク色のそれは今では赤黒く色褪せた固い肉塊に変わっていた。それが突然個体が気体に昇華したかのように微細な光粒となってキラキラと輝きながら宙空へと漂い始めた。やがて肉塊全てが黄金色の蒸気と化して跡形も残さず消え失せてしまった。
それを見ていた瑠利がグウッと小さな呻き声を上げた。うなじに極低温の冷気が吹き付けられたような強烈な痛みが疾ったのだ。それは彼女の身の周りに良くない事が起きる時の予兆であった。あのトンネルに突入する前に感じたチリチリとした首筋の痛みと同じ超感覚、だが今回のそれは比較ならないほどに強烈だった。トンネルの中で真上が言った言葉が瑠利の耳奥に警報の如く甦って来る。
『 その内、物体化を支えていた念が切れて自然消滅する筈だ。あの化物鳥が復活するのは念が入れ替わるちょうどその頃だろう。そん時は気をつけるといい。 』
来る! またあの紅い死がやって来る!
彼女は広田に切迫した声で呼びかけた。
「広田君、安本陸尉を車に移動して! ここを離れるわ!」
安本は現在小康を保っているとは言え重篤な状態だ。僅かな衝撃にも気を遣わねばならない。おまけに大柄な体格で体重もあるため移動させるのもそう簡単な事ではなかった。焦燥感に駆られながら二人がヘリに向かおうとしたその時、突然玄狼がフワッと身を起こした。そしてスウッと胡坐を組んだ。
それは先程まで深い眠りについていた者が為せるとは思えない動きだった。瑠利にはそれが筋力でもって身を起こして座ったというより寝転んでいた空間そのものが切り取られて90度回転したように見えた。
《 動クハナラズ 外法ノ妖ホドナク此処ヘ来 》
玄狼が眼を瞑ったままそう喋った。瑠利は思わず問い返した。
「動くなとは何故? それならここに止まって居たほうが危険だわ。」
《 動カバ地ノ利ヲ失ハム カクテ動クモノヲ守ルハ難シ 》
少年が応えた。相変わらず目は瞑ったままだ。彼女は一瞬少年が寝言を喋っているのではないかと思った。ただし声は彼のものだが口調や言葉遣いがまるで違う事に違和感を抱いた。
「外法の妖ってあの化物鳥の事? 貴方は・・・玄狼君なの?」
《 我ハ天狐 千余年ノ長キホド生キ天ニ通ジシ者ナリ 只今ソノ男子ノ体ヲ借リウチイデタリ 》
「天狐ですって! 玄狼君・・まさかふざけているんじゃない・・・わよね?」
城岩寺の駐車場から自分と理子の乗ったヘリを先導して玄狼の居場所へと案内してくれたあの巨大な白狐と玄狼を通じて会話しているのだなどと俄かに信じられるものではなかった。
するとそれまで眼を瞑っていた少年がゆっくりと眼を開いた。瑠利はゴクリと固唾を呑んだ。金色の虹彩と紡錘形の黒い瞳孔が瑠利を射抜く様に見詰めていた。眼の周りを彩るは上気したかのように赤く充血した真朱色の肌であった。
忽ち皮膚を焦がし毛髪が逆立つ様な高圧の神威が車内に満ちて膨れ上がる。彼女は今自分達と相対しているのが玄狼の身体を借りた高次元の存在である事を認識せざるを得なかった。戸惑いながらも敬った口調に変えて己が生徒に訊ねてみる。
「天狐様が私達をあの化物鳥から守ってくださるというのですか?」
《 我ハ遥ケキ昔ニ肉ノ身ヲ捨テシ者ナルタメ現世ノ理ニ 関ハルベカラズ 》
「 では一体誰が?」
《 其ハ古キ国津神ノ眷属ナリ。コノ日ノ本ニオキテ八柱ノ一ツト数ヘラルルモノナリ。 》
日本においては古来より天津神、国津神合わせて八百万の神柱が居ると謂われている。その八百万とて実際の数を表すものではなく無限を表す言葉であったはずだ。
では八柱とは何のことだろう? と瑠利が考え込んだ時であった。
南の夜空に紅い小さな光が灯った。その小さな光がどんどんと大きくなって近づいて来る。やがてその光は火焔のように揺らめく紅い燐光を纏った巨鳥の姿となって駐車場の上空に現れた。
それは紅い死をもたらす巨大な妖鳥。
朱 媛雀が外法の符術によって変化した空飛ぶ怪物・・・・朱雀であった。
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朱 媛雀は膨大な大気を巨大な二翼で押し受けながら冷たく澄んだ紫銀色の美しい念光を捜して北へ向かって飛んだ。やがて山野を越えてすぐ眼下に広がったのは黒く広大な海原であった。
その海原と陸の境目に薄黄色に満たされた夜空が結界のように浮かび上がっていた。
信号弾によって造り上げられたその支子色の領空にか細い一筋の彩光が蜘蛛の糸の如く立ち昇っている。紫銀色に輝くそれはあの少年の念光に間違いなかった。彼女はその念光目指して猛然と羽ばたいた。
夜空を染める支子色の帳をゆらゆらと揺らめき立つ深緋色の燐光が切り裂く様に侵しながら突き進んでいく。
やがて朱雀の持つ暗視能力は砂浜に隣接するアスファルト舗装されたパーキングの中に迷彩模様の輸送ヘリと白いワンボックスが停まっているのを認識した。
人間にとって最も身近な鳥類である鶏が夜盲であるせいか一般に鳥類は夜目が効かないと思われているが実際はそうではない。フクロウやミミズクのような夜行性の猛禽類ほどではなくとも大抵の鳥が人間より優れた暗視能力を備えている。
今、朱 媛雀の上空からの視野の中に淡い銀色を帯びた紫色の光柱がワンボックスの天井を貫く様に伸びているのがくっきりと映った。
『 見ツケタワ! 今度ハ逃ガサナイ! 』
獄炎による殲滅を確実なものにするべく朱雀は白いワンボックス目掛けて急降下を試みた。しかし次の瞬間、激しく左右の巨翼を打ち振ってパラシュートが開いた様な急制動を掛けた。猛烈な大気の壁にぶつかった10メートルを超える巨体が ドンッ! という轟音を立ててのけぞる様にノックバックされる。そのまま旋回しながら前方を睨む視線の先には己に匹敵する巨体を持った白い獣が宙に浮かんでいた。
『 コ、コイツハ妖狐! シカモ上位種・・・空狐、イヤ更ニ上ノ天狐カ?! 』
禁断の符術と朱 媛雀の並外れた念能によって実体化した朱雀の妖力は生半可な妖や式神など敵ではない。例え霊妙な通力を持つ妖狐と言えど低位の野狐や地狐程度なら容易く幽世へと追い返すことも出来よう。
しかし今彼女の前方の空間に泰然と鎮座する巨狐はそのような卑小な妖共とは比べるべくもない高位の神獣である。中でも空狐、天狐と呼ばれる最上位種は最早神に近い属性を得た存在であった。
白い巨狐の周囲は既に高圧の神気が満ちた結界となって卑妖や小妖など近づく事すら出来ぬ神域と化していた。そこでは金色の眼から放たれる強大な神威が幽世との緩衝域である幽現界を侵して現世にビリビリと震える物理的影響さえも齎していた。
何故、これほどの神獣があの少年の傍に居るのかは分からないが状況から察する限り自分に敵対する立場であることはほぼ間違いあるまい。媛雀は己を念能者としては最高レベルだと自負していた。だがあの少年の母や人狼という自分等の及びもつかない強大な念能や身体能力を持った者が存在する事を知った。上には上が居るという事実を知った。
もし真っ向勝負を挑んだ場合、人工的に造られた紛い物の四神に過ぎない自分の力が真正の神獣にどこまで通用するのか?
『 ソレデモヤルシカナイ! 』
自分の目的は水上 玄狼を殺すことであって眼の前の天狐を倒すことではない。
あの白いワンボックス車に獄炎を当てること、それだけであった。それならばやりようはある。
真っ直ぐに近づくのではなくワンボックス車を中心として螺旋状に旋回しながら多方向から火球を吐き出せばいい。螺旋が収束する中心点を狙っていくつもの火球を吐き出せば確実に当てることが出来るだろう。もし眼前の巨狐が何かの攻撃を仕掛けて来たとしても螺旋の軌跡は直線に比べて捕らえ難い筈だ。
彼女は天狐と車が存在する位置から高く遠く離れて距離を取ると取り巻く様にゆっくりと旋回を始めた。徐々に速度を早め旋回半径を狭めて行こうとしたその時、天狐が白く巨大な口吻を大きく開け 轟ッ! と息を吐いた。
それは青白い大気の奔流となって車の周囲を半径100メートル以上に及ぶ透明な半球型の障壁を形成した。
媛雀は突然立ち塞がった紫苑色の障壁に驚いて螺旋半径を縮めるのを中止するとその周りを旋回し始めた。イラつく心のままにその結界の中へ飛び込みかけた彼女だったが朱雀の持つ本能的な危険察知能力がそれを押しとどめた。
” この薄紫色の結界はヤバい ” という強烈な忌避感が身体の奥底から湧き上がって来て痙攣のように身体を硬直させる。
媛雀は上空からゆっくりと降下すると地面に降り立った。そして足元の大人の頭ほどもある岩を嘴で咥えると障壁の中へと放り込んだ。
岩はドンッという地響きを立てて結界の中の地面に着地するとゴロンゴロンと転がって止まった。岩に特に変わった変化は見当たらなかった。
次に高さ2メートル弱の灌木を咥えて噛み千切ると先程の岩と同様に青白い障壁の中へ放り込んだ。灌木は蒼い炎に包まれて一挙に燃え上がった。チロチロと灌木を覆い尽くした小さな鬼火のような蒼い火がやがて竜胆色の豪炎となって木は跡形もなく燃え尽きてしまった。
通常、切ったばかりの生木は燃えない。まして僅かな消炭も残さずに消失するなど考えられなかった。
彼女は自分の羽毛をまとめて引き抜くと再び障壁の中へ放り込んだ。想像した通り数十本の羽根は全て蒼く燃える花びらの如く宙を舞いながらこの世から消え失せた。
朱雀は再び大地を蹴って夜空へと舞い上がった。危ないところだった。焦燥感に任せてあのまま突っ込んでいれば自分の身体は今頃一切の痕跡を残さずこの世から消滅していた事だろう。
あの蒼い炎は炎のように見えて炎ではない。念気を帯びた物体だけを霊子まで分解し非物質へと昇華させてしまう浄炎。それは原子が物質という励起状態から霊子という基底状態に変換される際に放出する究極の励起光。生命の根源が吐き出す断末魔の青い揺らめきであった。
つまり現世に顕現した以上、生命体という縛りを免れ得ないこの身体は眼前の青白い半球体の中へは進入できないという事に他ならない。
だが逆に言えば念気を持たない唯の物体であればあのドームを潜り抜け目標へと到達する事が出来るという事だ。先刻投げ込んだあの岩のように。
そして朱雀が吐く獄炎は単なる気体と液体そして熱エネルギーの混合体に過ぎない。ならばこれ以上接近する事は無理でも障壁の外からなら火球を当てることが可能なはずだ、と媛雀は考えた。
半球体を見下ろす高みから大きく夜気を吸い込むと彼女は最大限の念能力を振り絞って火球を吐き出した。そのまま猛スピードで障壁を回り込みながらもう一発、更にもう一発。最後に半球体の真上から一発。
四つの獄炎が白いワンボックスに収束するように赤い軌跡を描いて迫っていく。火球には何の変化も見られない。推測した通りだった。最早白い巨狐が如何なる神通力を揮おうと爆発は防げまい。後数秒で火球は車に到達するだろう。
任務は遂行されたのだ、部隊の全滅と引き換えに・・・・・・
媛雀がそう思った時、彼女の眼にワンボックスのルーフに立つ人影のような姿が映った。それは二メートルを超える巨大な人影であった。
媛雀の精神がゾッと凍り付いた。
「あれはまさか・・・人狼?」
しかしそれは人狼ではなかった。威容を備えた体格と長く突き出た黒い口は似てなくもないが修験者装束に高下駄、手に持った大きな羽団扇、そして何より黒い羽毛に覆われた背中の巨翼が真上とは違う別の存在であることを示していた。
その異形の人型の正体は福田 安里紗の守護霊にして香河県の白峰山にすむ相模坊天狗であった。もとは相模大山に住んでいた天狗であったが保元の乱に敗れて讃岐国に流刑となった崇徳院の御霊を鎮めるために相模から白峰山に移り住んだと謂われている。日本八大天狗の一柱と言われる大天狗であった。
紅蓮の火球がワンボックス車の四方寸前にまで迫った時、相模坊は手にした羽団扇を無造作に大きく振った。途端に猛烈な旋風が巻き起こり四つの火球は大きくその軌道を変えた。それはまるで意志を持っているかのように螺旋状に収束しながら青白い障壁を突き抜けた。
半球体を抜け出た火球が収束したのは朱雀の滞空する空間だった。凄まじい風圧によって捻じれ絡み合った大気の波が四つの火球を一つに纏め捻り合わせる。直後、猛烈なメタンガスの爆発が起こり爆炎に巻き込まれた朱雀の身体が烈しく燃え上がった。
「ギャアァァァァァーーーーーーッ!」
メタンガスの大気中における燃焼温度は約千九百度。その高熱で焼かれる阿鼻叫喚の地獄の痛苦に媛雀は恐ろしい悲鳴を上げた。
己の身体を生きた符とするべく金石文字の刺青を彫り込んだ皮膚と肉が焼け落ちた時、朱雀の肉体の大部分を占めていた妖の念体は符術による呪縛を解かれて現世から幽世へと還って行った。人間に戻った媛雀の肉体は紅蓮の炎に激しく焼かれながら落下して障壁を突き破った。
途端に燃え盛る媛雀の肉体から青い竜胆色の火焔が噴き出しメタンの赤い火焔を青く塗り替えて行く。彼女は煮え立った油の中に放り込まれたような凄まじい苦痛が凍土に日なた水が染み込むようにじわりじわりと和らいでいくのを感じた。やがて空に舞い戻る様な浮遊感に包まれながら彼女の身体はドォンとアスファルトの固い地面に墜落した。
地面に落ちた衝撃は殆ど感じられなかった。その前に全ての感覚が希薄になって消えていた。悲しみも苦痛も焦りもそして意識そのものが透き通った薄氷となって最後にパリンと砕け散った。後に残ったのは黒く焼け焦げた衣服だけだった。
次回は後日談です。恐らく最終回。




