恐怖の獄炎
暗い夜空にぽっかりと穴が空いたように月が顔を覗かせている。真円の月ではない。
破月、弓張り月、もしくは弦月と呼ばれる半月状態の月であった。
” この時期の月は優しくて好きだ ”、朱 媛雀は巨大な両翼へと変化した己の両腕に大量の空気の塊を抱え込みながらそう思った。
符術によって異界より呼び寄せたこの霊獣の肉体は新月時には重く冷え切っているが満月時には苦痛を感じる程に熱く昂ぶる傾向が強い。だからその狭間とも言える今の月齢は丁度良いぐらいの扱いやすさがあった。彼女は中型ジェット機の翼長に迫るその大きな翼で 轟っ! と羽ばたくと更なる高みへと舞い上がった。
鳥類としての感覚機能を備えた彼女の知覚には人間のそれには感知できないあらゆるものが感知できる。太陽コンパス・星座コンパス・月周期・風向・大気圧・におい・気温・水温・景色、体内時計そして地磁気コンパス等・・・・・・・・・
此処までは王 美雨のバイクが発信する磁力線が標識であった。だが突如として紅蓮の花が咲いたような赤い煌めきが地上に開いた後、磁力線は途絶えてしまった。朱は蒼白く輝く両眼をクワッと見開くとすぐさま念視能を発現させた。
地上を走る車が豆粒の様に小さく見える。その豆粒が発するヘッドライトの軌跡が絡み合う光糸の様に眼下に広がっていた。彼女はその中に見覚えのある色調を持った念の波動を見つけた。
それはしっとりとした紫色の液体に一筋、銀の雫を混ぜ込んだような冷たく澄んだ美しい色合いの念光を持つ念波動であった。
「見つけたっ!」
朱が狙いを定めたのは白いワンボックスだった。彼女は広げた羽根を一瞬にしてすぼめると体の両側面にビタッと張り着けた。そして首を斜め下に傾けると一直線にその白い車目掛けて急降下した。
急降下しながら自身の体内で造り上げた生体ガスを口腔内に溜める。次にそれを脂肪酸の膜で包み込んだ。更にその塊を口外へと吐き出すと同時に発電能を発現させて小さな火花で点火した。忽ち脂肪酸の膜が紅く燃え上がった。そして最後に燃え上がる火球を斥力能で標的目がけて押し出した。
可燃性ガスには爆発限界濃度という閾値が存在する。大気に対してガスが薄いと当然爆発しない。ところが逆に濃過ぎても爆発しないのだ。助燃剤である酸素が介入できないためである。だがこの火球が標的にぶつかって壊れた時、中心部の高濃度メタンガスが炎の外側の大気に触れればどうなるか?
火、酸素、可燃ガスの三要素が合わさって即座に大爆発を起こすことになる。
直径約1メートルの真っ赤な火球がスーッと自転車程の速さで飛んで行くが車に追い付けずにアスファルトに激突した。その途端、ドオォォーンッ! と言う轟音と共に火球が爆発した。凄まじい火炎と熱風が辺りに広がる。
路面のアスファルトが溶けて煮え立ち道路側面のフェンダーが飴細工のように溶け曲がっている。まるで焦熱地獄の底を思わせる様相だった。まさしく ” 獄炎 ” と呼ぶに相応しい攻撃術であった。
ただ ” 獄炎 ” は自己推進力を持つミサイルよりも垂直投下型の無誘導爆弾に近い。動かない建物や塹壕などには有効だが高速で走る車を狙うには不向きだった。よって命中させるためには数を撃つ必要があった。
朱雀はグンと翼を振ると再び空高く舞い上がった。さっきよりも角度を急にして再度の急降下に入った。
体長12メートル、翼開長20メートル、体重150kgの巨体が時速250㎞を超える速さで落下していく。目標であるワンボックス車が猛烈な風切り音と共にあっという間に眼前に迫る。ところがその時、ワンボックス車が驚くような加速を見せた。今までの走りはドライバーが居眠りしていたのかと思えるような圧倒的な加速力で車は朱雀の照準から遠ざかろうとしていた。
だが無駄な足掻きだ! この位置なら確実に当てられる!
そう思った朱雀の前に思わぬ障害が立ち塞がった。上空からの鋭角急降下のせいで今まで死角になっていた車道前方に突如ブロックとコンクリートで固められた大きな洞穴が口を開けて現れたのだ。
それは海岸線沿い迄伸びた山裾をくりぬいて作られたトンネルであった。彼女は焦った。この速度でぶつかれば如何に四神の一角たる己でも回復不能のダメージを負うだろう。かといってこの巨体で潜り抜けるのは厳しい。何より進入角度が悪すぎる。
朱雀は致命的突進をストップさせるべく大きく羽を開いて必死に前方目掛けて打ち振った。更に嘴内に溜めていた火球をトンネル正面の上部面壁を目掛けて叩き付けた。
○○トンネルと刻まれた馬鹿でかい金属板が一瞬にして猛炎に包まれ火球が激しく爆発する。
彼女はその爆風をパラシュートよろしく開いた巨大な双翼で受け止めて自身の巨体が帯びた慣性力を必死に減衰しようと試みた。
結果、体前面を覆う紅い燐光を帯びた美しい羽毛のほとんどを消炭色に焼きながら朱雀の身体は木々の生えたトンネル吹上口の上を錐もみ状態で飛び越えてどうにかトンネル面壁との衝突を免れた。
だがその間に標的であったワンボックス車はトンネルの中に消えてしまっていた。
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一方、ワンボックスカーの中では広田と石川瑠利がはらわたを喰い千切られるようなストレスと恐怖に耐えていた。車のすぐ後部の道路上に激突した巨大な火球、突然の凄まじい爆発音と赤い閃光、そして紅蓮の炎に包まれるアスファルトの路面、それらが前触れなく一連の現象となって突然襲ってきたのだ。すれ違う対向車のドライバーが引き攣った表情で空を睨んでいるのを認めた広田は石川瑠利に大声で告げた。
「石川先輩、空です! 空を見てください!」
「え・・? 空?」
瑠利は打撲でひどく痛む肩と腰を庇いながら最後部のバックドアガラスまでにじり寄ると空を見上げた。彼女は思わず息を呑んだ。そこには月を覆い隠すほど巨大な鳥が滑空しながら浮かんでいた。まるでアラビアンナイトの話の中に登場するロック鳥を思わせるほどの巨鳥であった。
そして巨鳥はドンッ!と周囲の空間を揺るがすような風圧を地面に叩き付けながら夜空へと舞い上がった。そのままグングンと高みを目指すように高度を上げると巨体が手のひらほどの大きさに見えるようになったところで止まった。
瑠利はその時、首筋に霜が降りる様なチリチリとする感覚を覚えた。その感覚は昔から彼女を危機より救ってきた一種の霊感じみた超感覚だった。
来る! 空から紅い死がやって来る!
後二百メートル先にはトンネルが口を開けていた。あの中に逃げ込めば空からの攻撃はほぼ無効になるのではないか !?
「広田君! 火球が来るわ! トンネルまで全力で逃げて!」
瑠利の声の中に尋常ならざるものを感じた広田はためらうことなくインパネ下部にズラリと並んだトグルスイッチの列からNOSのスイッチを入れた。NOS、ナイトラス・オキサイド・システムは亜酸化窒素を混合気に含ませてエンジン内部に噴射する事で通常の150%近いエンジンパワーを捻りだすことを可能とする。
圧縮ボンベから亜酸化窒素がエンジン内に噴射された瞬間、ワンボックス車はロケットブースターの火力を得たかの如く獰猛な加速力でトンネル目掛けて突っ込んだ。
二百メートルの距離があっという間に五十メートルに縮まったかと錯覚するようなブッ飛んだ勢いで車はトンネル内に飛び込んだ。
ほとんど同時にトンネルの入り口付近で轟音と炎が湧きおこった。熱風がトンネルの中を追いかけて来る。危ないところだった、と瑠利は思った。あの火球の直撃を受けたらたとえ重装甲仕様のこの車と言えど無傷で済むとは思えない。すぐそばにトンネルがあったことはまさしく僥倖であった。
実際にはその火球は彼らを狙ったものではなかったのだが瑠利にはその事が分かりようが無かった。
しばらくして広田はトンネルの中ほどと思われる位置で車を止めた。
「この後どうしますか? 石川先輩。」
広田が瑠利にそう訊いた。ぐったりとした疲れた声であった。このトンネルから抜け出さなくては合流場所まで行けない。かといってこのトンネルを抜け出たら間違いなくあの巨鳥が吐く火球の餌食にされるだろう。
決断不能なパラドックスを前にして彼女は苦しそうに眉を顰めた。しばしの沈黙の後で彼女は答えた。
「取り敢えずここで待機しましょう。その間に真上さんに連絡を取ってみるわ。」
追われるものが長時間同一の場所に留まることは悪手以外の何物でもないが現状においてはどうしようもなかった。例えば安本二等陸尉に連絡を取ってここまでヘリで救出に来てもらったとしてもそこを狙われれば同じことだ。
というより空を飛び火を噴く怪物が相手ではヘリと合流すること自体が無意味と言えない事もなかった。
「真上さんに・・・? あの人なら何か手があるんですか?」
広田が訝しそうに質問してきた。モンスターバイクとサイコガンを自在に操る手練れの特務員相手に立ち向かって無事かどうかすら分からぬ人間に連絡を取ったとしてどうなるのか? 言外にそれらしきニュアンスを含んだ物言いだった。
「ええ、恐らく。あの人なら多分・・・・この状況を動かせてくれるわ。」
瑠利は先程までの凍てついた表情を薄氷が剥がれた程度に緩めると僅かに余裕を感じさせる声でそう言った。
そしてあの黒くいかつい無線機を取り出すとコールを掛けた。だが十数度の呼び出し音を過ぎても応答はなかった。最後にブツッと言う不愛想な共鳴音を残して切れてしまった。
「…‥切れてしまった。」
「先生、誰にかけたんですか?」
がっかりしたように呟く瑠利に玄狼がそう訊ねた。彼も今自分達が置かれているこの状況が逼迫したものであることはわかっていた。そしてそうなった原因が自分であるという事も。
瑠利は少年に向かって頬を弛めると優しく答えた。
「とっても強くて頼りになる人よ。力の種類は異なるけど多分、貴方のお母さんと同じくらいには。」
石川瑠利が今の組織に入局した当初、真上は彼女の指導教官であった。それから既に数年の付き合いになる。過酷な任務や危険な状況も何度か共にしてきている。
だから彼の事はよく知っていた。一言でいえば真上は普通の人間ではない。
常人から見れば自分や広田も充分に異常の範疇に入るのかもしれないが真上はそれとは桁の違う存在だった。彼は異常ではなく異生物であった。
日本神話にも登場する古代神の一柱に ” 大口真神 ” という神がいる。日本狼が神格化された存在で現在も関東のS県T地方の神社を中心に、狼が描かれた神札が頒布され、信仰を集めている。
瑠利が入局してからしばらくして先輩から聞いた話では彼はその神と人が交り合った結果、生まれたとされる謎の一族の末裔らしかった。その一族は半月から満月の夜になると半人半獣の怪物へと変異して己に仇為す者達を滅ぼすのだという話しだった。
そして瑠利はその獣人化を自分の眼で見た数少ない人間の一人であった。
「その人がもうすぐ来るわ。だから大丈夫よ。どんなに大きくて恐い鳥でも神の血を引いた狼には勝てないもの。」
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そしてちょうどその頃、焼け焦げたトンネルの入り口では灰黒色の剛毛に覆われた二メートル余の毛むくじゃらの人狼と十メートルを超える紅い巨鳥が一触即発の状態で睨み合っていた。




