空飛ぶクジラ
少年から渡されたハードケースを口に咥えた瞬間、まるで巨大な掃除機のホースを口の中に突っ込まれたような気がした。肺の中の空気を全て引き抜かれるような猛烈な念の陰圧が残り少ない彼女の気を空っぽになるまで奪い尽くそうとする。
気をしっかり持っていないと意識までもっていかれそうだった。
やがてハードケースに吸収された念は超精霊合金鋼の持つ触媒作用で賦活化され彼女の体内へと還流し始めた。獰猛との表現が相応しく思えるほどの念の奔流が紅狐の体内に満ちて来る。
『これが超精霊合金鋼の力・・・!』
その凄まじい触媒作用によって約九倍近くにまで増大された夥しい量の荒魂の気が鏑矢の鏃に赤黒い燐光を灯し始めた。
もし第一矢目においてこの念能触媒で増幅した和魂を打ち込んでいれば眼の前の大海妖を倒せていたかもしれない・・・思わず心に浮かびかけた後悔を彼女は強引に振り払った。
紅狐は大海坊主の頭部に向けて矢の狙いを定めると三種祓詞(仏教における南無阿弥陀仏のようなもの)を呟いた。
「吐普加美依身多女!」
そしてまさに矢を射ようとしたその時、華奢な撫で肩と少女のような白い首筋がその射線を遮る様に立ち塞がった。
『危ない!』
驚いて矢を止めた彼女の眼前に現れたのは玄狼だった。紅狐に背を向けたまま少年は手に持った黒い匕首を鞘から抜くと虚空目掛けて円を描くようにその刃をヒュウッと走らせた。
彼のその奇妙な行為の意味が分からず紅狐は戸惑った。玄狼は只、刃先を走らせた虚空をじっと見詰めている。
やがてその視線の先の遥かな高みにある空間に奇妙な歪みが生じた。立ち昇る夏の日の陽炎を思わせるその歪みの向こうに満月がユラユラと波紋状に滲んで揺れていた。だが晩秋と初冬の狭間であるこの時期に冷たい夜の海上で陽炎などあろうはずがなかった。
月の周りに波紋が広がったような滲みは更に歪み乱れていく。
丸く切り抜かれた空間の向こうで月と夜空が黄色と黒の絵の具を混ぜ合わせたように絡み合った異様な光景が広がっていた。
暫くするとその奇怪なオブジェの如き月と夜空は灰紫色に霞んで見えなくなった。
謎の揺らぎの向こう側から灰紫色の薄い面紗がゆっくりとその裾を伸ばし始めていた。面紗の周縁からは無数の紫電が触手のように伸びてパリッ‥‥パリリッと蠢いている。
丸く切り抜かれた現世の夜空に幽世の空間が顔を覗かせていた。その灰紫色の面紗の中から何かが這い出てこようとしていた。
全長四メートルほどの黒いヌラリとしたそれは虚空を滑るように落下して七宝丸から二百メートル以上離れた右舷側の暗い波間の中にザバァッーンと大きな白い波しぶきを上げた。
キュロォォーン・・・キュォォォン・・・・ユォォォーン
暗い海面に漂いながらそれは何かを探し求めているような甲高く幼気な鳴き声を上げた。
紅狐はその生き物の正体に気付き思わず胸の中で叫んだ。
『あれは確か・・最初の海坊主? えっ、何故? どうやって戻って来たの?』
それは自分が「鳴弦の法」によって幽世へ封印したはずの小さな海坊主に違いなかった。かなり小さくなり弱ってはいるがそれでも小型の漁船程度なら沈められそうな魔物だ。
それが ”キュロォォ~~~ン” と切なそうな鳴き声を上げた。その途端、その鳴き声に呼応するかのように海鳴りが大海原を震わせながら走り抜けた。
ヴァロ~~~ォォォォ~~~ン!
それは海鳴りではなく大海坊主の歓喜に満ちた咆哮であった。月夜の虚空より生まれ落ちた小さな海坊主はその咆哮の発せられた方角に向かって一生懸命泳ぎ出した。
二頭の黒い海妖達は互いに呼び合う様に哭きながら近づいていく。
ウロォォ~ン~~~ウロォォ~~~~~ルォォォ~ン
キュロォォ~ン~~~キュォォォン~~~~~ユォォォ~ン
そして聳え立つ巌のような黒い巨体と細石の如き黒い身体が正面から向かい合った時、それは始まった。
二体の海妖は互いに相手の周りをグルグルと回りながら緩やかに体を擦り合わせ、並び合い、ぶつけ合った。
長い別離の時間をこの数分間で埋め尽くそうとするかのように互いを呼んで鳴きながら終わりのない情熱的な円舞曲が延々と続く。
やがてその円舞曲も終焉を迎えかけたかと思われる頃、何処からともなくキラキラと煌めく淡い金色の光粒が黒い海妖の親子に降り注ぎ始めた。
月光を浴びたそれは琥珀色の粉雪の様に静かに深々と降り続ける。ついには小島の如き黒い巨体さえも琥珀色の帳に埋もれて見えなくなった。
妖達と祓い師達の命懸けの戦いにほんの僅かな無風状態が生じた。その一瞬の間隙を縫うように紅狐が玄狼に訊ねかけた。
「現世と幽世の境界を ” 骨噛 ” の刃で切り抜いて異空間を 繋げたのね。
そこからあの小さい海坊主をもう一度、現世に呼び戻した・・・・
一体、どうしてそんなことを?」
「” 骨噛 ” がそうしろと教えてくれたんだ・・と思うんやけど。」
「思うんやけど・・・って? 自分のしたことでしょ。」
「そうなんやけどはっきりしないんです。
何故かそうせないかんような気になって・・・あの空間に重なった別の空間に大海坊主の捜しとる何かがあるって・・どしてかわからんけんどそんな気がしたんです。
で、気が付いたらこの黒い短刀で空を切ってしまっていて・・・・・」
玄狼がそう答えると紅狐は彼の顔をじっと見つめながら ”おそらく骨噛 の意識が貴方のそれと同調しているのかもね。” と言った。
「そうね・・確かにあの二匹は互いを求め合っていた。親子なのか、連れ合いなのかわからないけどその凝り固まった思いが強大な念となって具現化したのがあの大海坊主の姿なのかもしれないわ。もしそうなんだとしたらその妄執が成就した今、一体、何が起きるのかしら・・・?」
彼女はそう呟くと海坊主達を呑み込んだ琥珀色の地吹雪が吹き荒れる海上をゆっくりと見渡した。その金色の闇とでも言うべき不可思議な領域の中で今、巨大な何かが生まれ出でようとしていた。
やがて砂金をちりばめたような濃密な光粒のカーテンがゆっくりと幕が引かれるように薄くなり白い靄となって夜空へと昇華していく。
現れた暗い海面の上には黒いヌラリとした小島の様な超巨体の怪物はどこにもいなかった。その後に残ったのは暗い波間に揺蕩うザトウクジラの母子の青白く透き通った巨体であった。
二頭のクジラは蒼く透き通った尾ビレでザンッと海面を蹴るとスウッと宙に浮かび上がった。白く泡立つ海水の雫が纏わりつくように糸を曳きながらザァーザァーと海面に流れ落ちる。
そしてクジラの母子はその大きな胸ビレを翼の様に広げながら寄り添って月光の満ちた虚空へと昇り始めた。ゆっくりと大きな輪を描いて螺旋状の青白い光跡を夜空に残しながらグングンと高みを目指していく。
まるで巨大な飛行船と小さな風船の道行きのようだった。
その蒼いゼリーを思わせる透明な身体の向こうに黒い夜空と薄い黄蘗色の満月が透けて見えていた。幽玄としか言いようのない眺めを眼にしながら玄狼は思った。
『彼らはどこに行こうとしているのだろう?』
やがて彼はクジラの母子が目指しているのは自分が切り抜いた幽世への抜け穴であることに気付いた。その穴を潜り抜けた向こう側にある非物質の世界こそが彼等にとって相応しい永遠の安らぎを得られる場所なのかもしれなかった。
だがその穴は空間の弾力性が持つ再生機能によって既に塞がりかけていた。子クジラはともかく母クジラの方が通り抜けることは到底無理だと思えた。
それを知ってか知らずか二頭の空飛ぶクジラは幽世と現世の境界に生じた縮みつつある綻びを目指して舞い上がって行く。
玄狼は骨噛を使って別の抜け穴を切り抜こうかと考えたが漆黒の短刀は黙したまま反応しなかった。直ぐに彼は式神が具現化した短刀の法力をもってしても母クジラの念体が通り抜けられるほどの巨大な空間を切り抜くことは出来ないのだと悟った。
少年はどうする事も出来ずに唇をかんで事の成り行きを見守るしかなかった。このまま行けば子クジラだけが幽世に召還されて母クジラは現世に取り残されてしまうだろう。そうなれば母クジラの魂は再び荒魂化して大海妖へと変化するかもしれなかった。
真っ黒な暗雲が玄狼の胸に垂れ込み始めたその時、彼の背後でその暗雲をチリヂリに切り裂くような鋭く甲高い破邪の音が鳴り響いた。
ヒュウォォォォォォ~~~~ン
矢の先端に取り付けられた蟇目の中を疾り抜ける空気の流れが生み出すカルマン渦の強烈な振動音が少年の頭上を飛び越えて天空高く突き抜けていく。
それは紅狐が射放った兵破と呼ばれる鏑矢の姿をした式神だった。同じく弓の姿をした式神である雷上動から放たれたその矢は先行していた母子クジラの青白い念体を瞬く間に追い抜くと天空の高みに開いた幽世への抜け穴目指して一直線に飛んで行った。
兵破はその灰紫色に蠢く異界の裂け目に飛び込むと己の中に凝縮された熱く燃え滾る荒魂の気を爆発的に放出した。
冴え冴えとした冷たい晩秋の夜空に四尺玉に匹敵する大輪の花火が開いた。赤黒い火花の様な無数の光粒が幾重にもかぶさりながら放射状に広がっていく。
一瞬で満月を覆い隠すほどに広がった蘇芳色の花弁がゆっくりと散った後には異空間へと繋がる巨大な灰紫色の深淵が大きく口を開けていた。二頭の空飛ぶクジラの母子は仲良く並んでじゃれ合いながらその灰紫色の薄闇の中へと消えて行った。
― ― ― ― ― ― ―
大海坊主は居なくなった。人知を超えた恐ろしい海の魔物は現世から姿を消した。探し続けた我が子の魂と共に幽世へと還ったのだ。それは七宝丸の乗組員全員が死地を脱したという事に他ならなかった。
あの時・・ザトウクジラ親子の青白い念体が二つの世界を貫く小さな綻びに無理やり突入しようとしたその時、雷上動が ヴイィィーン と短くしかし鮮明に哭いた。
まるで自分を引けとでも言うように・・・・・
それはまさしく紅狐にとっての天啓であった。既に蘇芳色の燐光を纏うほどに濃密な荒魂の気を込めてあった兵破をつがえると彼女は天空の高みに蠢く裂け目めがけて放った。破邪の矢は狙いをあやまたずその裂け目に中ると蓄えられた膨大な念エネルギ―を一挙に解放した。
それは小さな綻びに過ぎなかった異空間の裂け目を何十倍にも大きく引き裂き、押し開いた。次元の狭間にポッカリと開いた直径数百メートルに及ぶ空洞を潜ってザトウクジラ親子の巨大な念体は悠々と異界の彼方へと消えて行った。
それを見届けた後、紅狐は胸の底に溜まった澱の様な濁った吐息をほうっと吐き出すと甲板にペタンと座り込んだ。
死神の振るった大鎌を間一髪で躱すことが出来た安堵感で頭の中がボーッとなった気がした。そのまま甲板の上に後ろ手を突いて強張った上半身を弓なりに反らす。
途端に無数の鍼で刺されるようなチリチリとした心地良い痺れが背骨から頸椎へとかけ昇って来てサイダーの泡のようにシュワシュワと染み渡った。
紅狐の口からハァ~~ッという快感のため息が思わず洩れそうになったその時、
「お、オイッ 鵺弓さん! あ、あれを見てみぃ!」
と、船長の池田が驚愕でどもりながら大声で叫んだ。彼の指差す海面の上に浮かんでいる物を見て彼女は信じられないといった表情になった。
そこには大海坊主によって海の底に沈められた筈のあのサロンクルーザーが浮かんでいた。そしてその船腹に舳先を擦りつけるような形で小さな漁船が波に揺れている。
クルーザーの前部甲板にはダイビングスーツを着た二人の男女、漁船の上には老人と男がそれぞれ頽れたように倒れていた。
果たしてどのような状況に晒されていたのか四人はピクリとも動かなかった。
七宝丸側の人間も同じく動かなかった。誰一人、彼らを回収し救助しようとはせず只、黙って見ているだけであった。
何故なら七宝丸の乗組員達にとってそこに倒れてる者達は既に自分達とは違う異質な存在に代わっていたからである。
突然に消えてまた現れた状況を考えると漁船とクルーザーは明らかにこの世界とは別の異界の空間に呑み込まれていたのではないか?
生きているのか死んでいるのかもわからない、仮に生きていたとしてもその得体の知れない未知の世界に一度呑み込まれて戻って来た者達が元のままの人間であるのか?
ホラー映画によくあるような悍ましい化け物となり果てた人間に喰らいつかれる恐怖のイメージが全員の頭の中を去来していた。
だがその時、漁船の上で倒れていた老人がゆっくりと体を起こした。そして途切れ途切れの嗄れた声で夜空に向かって声を出した。
「じゅ、ジュン・・ジ、 ジュンジィ~ ~ ~」
それを聞いた玄狼は思わず叫んだ。
「生きとる! オン爺、生きとるわ!」
それから慌ただしい救出劇が始まった。七宝丸の乗組員達は緊急脱出用に備え付けられたゴムボートを使ってクルーザーや漁船の上に倒れていた者達を次々と救助、回収していった。やがて老人とクルーザーの乗組員合わせて計七名が七宝丸の中に運び込まれた。
どうやら大海坊主はクルーザーと漁船を物理的に沈没させたわけではなかったらしい。恐らく、現世と幽世の狭間の世界、幽現界と呼ばれる亜空間に存在している自身の念体の内部にそれらを呑み込んでいたのではないかというのが紅狐の出した結論だった。
幽現界に呑み込まれた生身の人間は果たしてどうなるのか?
それを知る者は誰もいなかった。鵺弓師である紅狐さえ聞いたことが無かった。
呑み込まれていた者達は全員、「体温」「脈拍」「呼吸」「血圧」「意識」の五つの生命兆候の内、前から四つ目までが正常値の八割ほどにまで低下していた。最後の「意識」は網田 音次を除いてほぼゼロに近い状態であった。
七宝丸には簡単な救急医療物資はあるが設備と言えるほどの物は無い。乗組員も海上の事故に備えて救急治療に関する医療セミナや講習等は一通り受講しているが医師や看護師が同乗しているわけではない。
だから紅狐と玄狼は独楽鼠のように動いて救助した者達に和魂の気入れを行なった。一人に付き約一分程の時間をかけて額と首筋から和魂の気を次々に流し込んでいった。夜目にも輝く黄金色の光粒がサラサラと零れ落ちる砂金の様に二人の両掌から彼らの身体へと吸い込まれていく。
超精霊合金鋼によって何倍にもブーストされた和魂の気がもたらす肉体への賦活化作用は絶大だった。
気入れが始まってから計十分足らずで意識のなかった密漁者達の四つの生命兆候はほぼ正常値に戻りつつあった。蒼白だった顔色に赤味が戻ってき始めたが意識はまだ戻らない。唯一、意識のある網田 音次だけが項垂れた様に甲板に両手を突いて座り込んでいた。
少年は呆けたように座り込む老人の傍に静かに膝を突くと優しく声を掛けた。
「音次さん、今晩は。俺、城山小学校の六年生で水上 玄狼と言います。音次さんの近所の木地谷 亜香梨ちゃんの同級生です。
身体の具合はどうですか? どっか痛いところは無いですか?」
老人はぼんやりとした眼差しで彼を見詰めた後で、その大柄な体を縮めるようにしながら弱弱しく首を横に振った。そして消え入るような嗄れ声でボソッと呟いた。
「ジュンジが・・ジュンジが居らんようになってしもたが。儂の中にも何処にも居らん。どっかに消えてしもうたが・・・」
少年はそれを聞くと暫くの間、眼を閉じた。やがて眼を開けると老人の後ろを指差して静かに告げた。
「その子は何処にも行っとらへんよ。ほらそこに居るやん。」
彼の指差した方向を振り返って見た老人は驚愕に眼を見開いたまま声にならない呻きを上げた。
「ア、アッオォ・・・オッ、オアエ・・おま・えは・・・・・・ジュンジ?
淳司か!」
そこにはその場所だけに月明かりが投げかけられたかのように小さな子供の姿が芒っと浮かび上がっていた。白の半袖シャツに黒のハーフパンツを穿いた小学校の低学年ぐらいに見える少年であった。
少年は何も答えずきょとんとした表情で音次の様子を見ていた。利かん気そうな眼が瞬きもせずに老人を見詰めている。
「すまなんだの、淳司・・ホンマに済まなんだ。
わしが、儂が悪かったんじゃ。
まだこんまいお前を・・船に乗せて沖に連れ出したんが間違ごとった。
儂がアホやったんじゃ。ほんだきんお前を死なせてしもた。
儂が代わりに死んだらよかったんじゃ・・・何べんそう思たか・・・・
悪かったの、許してくれの、淳司!
グッ・・・グゥッ・・ヒィッグッ、ヴゴォォォォォォォォーーーーーー」
網田 音次ははらわたを絞り出すような悲痛な声でそう言うと号泣した。額を甲板に擦りつけ、拳で叩きながら身も世もなく大声で泣いた。
十年以上もの間、胸の中で埋火の如く焦がし続けた耐え難い悔恨を一挙に吐き出すかの如き泣き様であった。
すると淡い燐光を帯びているかのように夜闇の中に青白く浮き上がって佇む小さな少年が初めて口を開いた。
『・・じいちゃん・・・祖父ちゃん・・』
それはまるで夜空に冷たく浮かぶ蒼い月から緩々と降り注ぐ透き通った月の光のような儚い声だった。
音次はビクッと身体を震わせると弾かれたように顔を上げて赤く充血した眼で少年の方を見た。
『僕な、ズゥーッと祖父ちゃんと一緒に居ったんで。ほんだけん、全然、寂しなかったん・・・ そやきんもう泣かんでええきん。』
「・・・淳司!」
『ほんでもな、僕もう行かないかんみたい。何でか知らんけど身体が上に引っ張られとん。きっとあんまり時間がないんかな・・・・
今日、祖父ちゃんに会えてホンマに嬉しかったわ。
ほしたら、ぼくもう行くけんな。 さよなら、祖父ちゃん・・元気でな!』
「淳司?・・・じゅんじぃ!」
老人に別れの言葉を告げた途端、少年の身体を包む青白い燐光が細かな金色の流砂へと変わり始める。
やがてそれは細く輝く金糸の雨となってサラサラと降り注ぎながらその小さな姿を覆い隠した。そして甲板を吹き抜ける夜風がその薄絹の様な雨の帳を波間の彼方へと運び去った後にはしんとした冷たい夜闇が残っているばかりだった。
「あれは?」
ふと空を見上げた誰かが声を出して空間を指差した。そこには子供の握り拳ほどの青白い光玉がユラユラと揺蕩いながら天空へと昇っていく姿があった。
やがてその小さな光は夜空に蒼白く輝く満月の中に溶け込んで見えなくなった。
気を失っていた密漁船の乗組員達がゴゾゴゾと動き始めた。紅狐と玄狼の気入れと船員達の介抱のお陰で意識が戻って来たらしかった。
例え犯罪者とは言え一般人である七宝丸の船員達が彼らを拘束する事は法律上、許されていない。その為、縄で縛る様な行為は敢えてしていなかった。
然し、カッとなればいきなり柳葉刀を振り回し、拳銃をぶっ放すような危険な連中である。その彼らが意識を取り戻し始めた今、万が一の場合を考えて拘束すべきかどうか、船員達の間に緊張が高まり始めたその時だった。
少し離れた何処かの海上からボォーッという長音の汽笛が三回連続で鳴り響いた。船が航行している事を知らせる合図である。同時にドッ、ドッ、ドッ、という重く低いエンジン音が聞こえて来た。
それはもう近くまで海保の巡視艇がやってきている知らせだった。




